「ん、しょ、……と」

爪先立ちで、右手を伸ばして。
滅多に足を踏み入れることのなかった書庫の中で、ごっと見事な打撃音が響いた。




恋人の種




「…………痛ぇ」

暫く熱で起き上がれなかったせいか爪先立ち程度のバランスが取れないとは、自分でもヤキが回ったなと思う。くぉー、と間抜けな声を上げつつ、悟空は額に手を当てた。
書庫の縁に強かにぶつけたものだから、金鈷から響いてくらくらする。
何より、バランスを崩したときに左手でそれを支えられないというのは、意外と不便だと思う。
動かさないようにと八戒に三角巾とやらで吊られたこの左腕は、寺に戻ってきたその夜、三蔵に掌を撃ち抜かれたからだ。
いくら、妖怪でもなく人間でもなく、本来なら斉天大聖とか呼ばれてしまうような悟空であっても、至近距離で銃で撃ち抜かれた傷はそう簡単には治らない。

悟空が今、何より困っているのは。
ちょっとしたことにすら動かせないジレンマと、体力の戻らないもどかしい身体と。
未だどう対応していいのか判らない、この掌を撃ち抜いた男への態度。

悟空は「あのトキ」類を見ないほどに強気だったのは、痛みと熱に浮かされていたからではないかと今更ながらに思っている。
何とか起き上がれるようになっても、三蔵に迷惑を極力かけずにいようとしてしまうくらいには。
戻ってきたのに早々に忙しくする羽目に陥っている三蔵の手を煩わすのは、どうにも気が引ける。
これはもう、刷り込みに近いのではないだろうかと思うほどに。

だが、本当にあのトキは、バカだとしか思えなかったのだ。

旅に出たいと言っただけで、一体何をどうやったら、悟空が三蔵の手元からまるっきり離れて行くなどと思ったのか判らない。
旅に出るということは、戻ってくる場所があるということだ。
宿り木があるとからこそ、飛び立つことも出来るのに。

「ホント、バカじゃねぇの」

未だじんじんと痛む額に包帯に囲まれた左手を押し付けて、悟空はずるずると書棚に寄りかかったまま腰を落とした。

「…………左手、使うんじゃねぇよ」

不意に、金鈷とほぼ同じ高さにあった肘を、そっと押し返す感触と低い声。
袂が揺れるのと同時に、ふわりと香るのは煙草のそれ。

「こんなん、使った内に入らねぇよ。……ってか、さんぞ。何やってんの」
「資料を取りに来て、何が悪い」
「……今まで、自分で取りにきたことなんざ、ねぇじゃん」

らしくない優しい感触に、思わず笑み零れた悟空はゆっくりと腕を下ろした。
本当に、らしくない。
口だけは表情だけはいつものように傍若無人なつもりで、そのくせ、まるで悟空の一挙手一投足から目を離すまいとしているようだ。
トイレに行く程度にほてほてと覚束ない足取りで歩いていて、目が合ったことが一度や二度ではないことくらい悟空だって気付いている。

何でこの男は、らしくないほど気を遣っているのだろう。
自分のエゴで、縛り付けてまで悟空を無理矢理抱いて、この手を撃ち抜いて、平然と、離れてゆくことなど許さないと、そういったくせに。

ただそれが「三蔵」であることなど、悟空には理解り過ぎるほど判っているのだ。
この男は、こんなことくらいで、悟空が消滅てしまうとでも思っているのだろうか。

だが珍しく風邪を貰って寝込んでみたり怪我が思いの外酷くて発熱したときなどは、酷く甘かった昔を思い出す。酷く甘い、とは言ってみても、何をするわけではない。
知らぬ者が見たらどこが甘いのか首を傾げることだろう。
ただ何をするでもなく、傍にいるだけだったりするのだから。
しかし「あの」三蔵が、不平不満を漏らすことなく「ただ傍にいる」ことがどれだけ悟空を甘やかしていることになるのかなんて、悟空だけでなくても少しでも三蔵の傍にいたことのあるものならば判る筈だ。

「それで、お前はどれを取りたかったんだ」

ほら、甘やかしている。
思わず悟空はくすりと微笑った。
その笑みの意図に気付いて、三蔵は苦々しく眉を顰める。
それでも、自分の求めるものを取り出して、出てゆくようなことはしないのだ。

「上にある、薄いの。赤い背の」
「赤い背……? ああ、これか。何でこんなもんが、ここに」

三蔵にとって見覚えのないものが三蔵の書棚に収まっていたのだ、当然の言葉かもしれない。

「それ、俺の」
「だから、何でお前の私物があんだよ」
「だって、どっかいっちゃったら、ヤじゃんよ」
「なんだそりゃ」

白い指先が赤い背を引き出して、悟空へと手渡す。
いつもなら良くて放り投げるのだろうに、自分が破壊した悟空の左手を気にして、この男は手渡すのだ。

あの夜、寺院に八戒がいてくれたお陰で、綺麗に元には戻らないまでも困らない程度にまでは回復しそうだというのが後にやってきた医者の診立てで。
何より悟空は人ではないのだから、更に回復の度合いも高かろう。
ただ、今はまだ、回復している真っ最中で。
不自由なのも、仕方がない。イマイチ動きが鈍いのも仕方がない。
ただ、身体に染み付いた行動が、つい迷惑をかけないようにと努力してしまうだけで。

「無理すんじゃねぇよ」

ぽふんと、銃を扱うせいか見た目よりは無骨な手が、悟空の濃茶の髪を掻き撫でた。
ほら、いつもならここでハリセンが降って来る筈なのに。

「無理なんかしてねぇよ。さんぞ忙しいしさ、邪魔したら後で大変だと思って、一人でやってただけじゃん」
「出来てねぇじゃねぇか。余計に手間かかんだろーが、出来ねぇなら出来ねぇっていいやがれ。それくらいはしてやる……仕方ねぇから」

どこかで聞いた台詞に、悟空は一度目を瞠って。
そして、破顔したのだ。
 ――――撫でていた手が、ぐいと前髪を掬い上げる。
その勢いで悟空が顔を上げれば、額に落ちてきたのは柔らかな感触。

「………………さんぞ?」

見上げたまま目を丸くして、ぽつりと声を零す。
離れてゆくその表情は、どこか照れたように怒っているように、歪んでいた。

「気にすんな」

ふい、と男はさりげなく表情を背ける。
いや、座り込んでしまっている悟空の位置からでは、ダイスキな金色の髪くらいしかもう見えないのだから背けるまでもない。
見下ろさなければいいのだ。

「するよ。する、フツー」
「こっち見んな」
「ヤダ」

ぐいと頭を押さえられるけれど、その程度のことには今更悟空も負けはしない。
この程度で負けていたら、三蔵の傍になどい続けることなど出来ないのだから。

「で。その、なくしたくないとかいう、それは何なんだ」
「アルバム。帰って来れたらさ、今度は置いてかないって決めてたんだ」

帰って来てすぐに熱出したから、取りに来るのに時間掛かったけどーと笑えば、むっとした雰囲気が零れてくる。本当に、不機嫌さだけは素直だ。

「別に、出てた間もさ、今も、なくても平気って言えば平気なんだけどさ。それでも、寂しくないことなんて、ないから」
「…………誰のアルバムだそれは」

不機嫌さを隠すこともなく、数段低くなった声が頭上から無遠慮に問う。

「え、俺の」
「誰のものか、じゃねぇ。誰が写ってる写真だ」
「ああ、さんぞの写真。坊主たちに分けて貰った」
「ぁあ?!」

身に覚えがありませんどころかまるっきり知らないとばかりな声に、悟空は思わず首を傾げた。

「あれ? 知んねぇの? 結構寺ん中でりゅーつーしてんだぞ?」




――――知らなかったのだ。

まあ知っていたら、その数々の写真の取引が悟空の目に付く場所で行われるわけがない。
それでもあれほど邪険にしていた悟空にも写真を分けてやる辺り、坊主共は意外とツンデレだったんだろうか。いやいや。

「俺が見らんないときの、寺の公式行事の写真とか分けて貰えたからさ。すっげ嬉しくって。部屋の引き出しにばらばらって入れてたら、八戒がアルバムくれたんだ」

嬉しそうに、悟空が微笑う。
その笑顔は大変可愛らしいもので、その大本が自分の写真だと思えば気分は悪くない。
だが悟空の言葉を突き詰めるならそれはつまり、八戒たちも知っているということで。
知らぬは本人ばかりなりとは良くぞ言ったものだ。

「寄越せ」

手を差し出せば、ナニゴトかと金色の瞳が瞬く。

「なに?」
「それ、寄越せ」
「なんで」
「んな胸糞悪いもん、捨ててやる」
「ヤダよ、これ俺のだもん。なんでさんぞーに捨てられなきゃなんねぇんだよっ」

ここ数日、ギクシャクしていたのが嘘のようだ。
旅に出ていた間に成長したと思われていた悟空が、旅立つ前の、男が手を出すのに躊躇ってしまっていたコドモにすっかり戻っている。
それは、この寺院と言う場所のせいなのか、殆ど二人きりで身を寄せ合っていた場所での安心感なのか。
それとも、この小猿の無意識の防衛本能なのか。
男には、判らない。

「大体、一人で留守番してたときとか、これがあったからそんなに寂しくなかったんだぞ。悟浄んち行く時だって持ってったんだからな。……それで八戒にバレたんだけど」

つまり何か。コレは自分の代わりなのか。
男はついと紫暗の眼を眇めた。
悟空の腕の中で抱き締められている、赤い表紙。それは男であって、男でないもの。

「……手放す気なんざ欠片もねぇ、って言っただろうが」
「それとコレとは別問題」

一瞬立ち戻ってくる、大人びた表情。
しかし悟空が男に向かってにかりと笑みを零した途端、その大人びたように見えた表情は幻のように掻き消えた。

「今が大事なのは、当然じゃん。こうやって、珍しく優しくしてくれるさんぞの傍にいるこの時間は、俺だって大事だよ。でもさ、過去も大事じゃんよ」

きゅ、と包帯の巻かれた腕の中に、赤い表紙のアルバムを抱き締める。

「岩牢にいたときよりも前のことは、憶えてねぇんだもん。……さんぞのことくらい、憶えてたいじゃんか。もしまたなンかあって忘れても、もしかしたらコレは手に残るかもしんねぇじゃん」
「忘れるつもりかよ」
「そうじゃねぇよ。そうじゃねぇけど。……多分、昔の俺だって、忘れたくて、忘れたんじゃ、ねぇ」

見下ろせば、俯いた濃茶の頭。
前髪と金鈷に遮られて、小猿がどんな表情をしているのかまでは判らない。
だが、男には悟空がどんな表情をしているのかなんて、手に取るように判る。
伊達に、拾ってきてからずっと傍に置いたわけではないのだ。

「忘れたなら思い出す。そのきっかけが一つでもあるなら――――それを、俺は、大事にしたい。それだけだ」

ゆるやかな動きで見上げてきた金晴眼は、男の思い描いていたものと何一つ変わることなく、何一つ迷いのない、強い強い色彩をしていた。

「だから、例え三蔵でも、コレはあげらんない」

柔らかに笑み崩れた表情に、男は思わず両手を上げ掛ける。
しかしそんな降参するような、赤毛のヘビースモーカーによく似た仕草を、この不遜な男が目の前の小猿になどしてやれる筈がない。

「…………てめぇの写真なんか、いるか」

履き捨てるように、呟く。
吸っていない煙草を、常ならば力任せに揉み消していることだろう。
書棚の前でさえなければそれも叶ったのであろうに。

そして、男の呟いたこの「てめぇ」が、三蔵のことなのか悟空のことなのか。
それは、どちらにも判らなかった。
不意に、細いけれど筋肉のついたキレイな身体が、悟空の傍らに跪く。

「お前がここにいれば、それでいい」

自分よりは小さな身体を、未だ熱の抜けきらないふらついていた華奢な身体を、男は予告もなく抱き上げて。

「――――っ?! さんぞ?!」

行動に驚いたのだろう悟空と、紫暗の瞳が正面から顔を合わせた。
瞬間、沸騰した薬缶の如く、ぼふりとコドモの顔が赤く染まる。

「忘れてるみてぇだからな。その身体に、もう一度教えてやるよ」
「んな、ぁっ」

艶めいた紅の唇から反論が発せられる前に――――吐息の中に、閉じ込めた。



だから。
その言葉が嬉しかったなんて、言わない。





end




<佐野崎みつる様 作>

そな思いと共に、最後の幸せそうな悟空に読んだ私も顔がほころんでしまいました。
告白してる自覚のない三蔵が好きですv
佐野崎さま、嵐の後の少し不安でひっそり後悔してる三蔵と
酷い目にあったにしては何処とな佐野崎様に以前頂いたお話「歪んだ王国」の続編「恋人の種」を頂きました。
悟空の「馬鹿な子程可愛い」という思いと、三蔵の「やっちゃた…どうしよう…」という後悔と戸惑いとが、よくわかります。
それでもお互いが必要で、三蔵が何をしても結局は受け容れてしまう悟空が、とても大人で、強いなあと思いました。
そして、佐野崎さまが仰る通り、甘いです。
ひと山越えて、これから始まる二人です。
性急な三蔵、ちょっとあっけにとられてちゃった悟空。
どうぞ手に入れている自覚なく、不安がってる最高僧を可愛がってあげて下さい。
く幸せそうな悟空のお話をありがとうございました。

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