「ん、しょ、……と」 爪先立ちで、右手を伸ばして。
恋人の種
「…………痛ぇ」 暫く熱で起き上がれなかったせいか爪先立ち程度のバランスが取れないとは、自分でもヤキが回ったなと思う。くぉー、と間抜けな声を上げつつ、悟空は額に手を当てた。 悟空が今、何より困っているのは。 悟空は「あのトキ」類を見ないほどに強気だったのは、痛みと熱に浮かされていたからではないかと今更ながらに思っている。 だが、本当にあのトキは、バカだとしか思えなかったのだ。 旅に出たいと言っただけで、一体何をどうやったら、悟空が三蔵の手元からまるっきり離れて行くなどと思ったのか判らない。 「ホント、バカじゃねぇの」 未だじんじんと痛む額に包帯に囲まれた左手を押し付けて、悟空はずるずると書棚に寄りかかったまま腰を落とした。 「…………左手、使うんじゃねぇよ」 不意に、金鈷とほぼ同じ高さにあった肘を、そっと押し返す感触と低い声。 「こんなん、使った内に入らねぇよ。……ってか、さんぞ。何やってんの」 らしくない優しい感触に、思わず笑み零れた悟空はゆっくりと腕を下ろした。 何でこの男は、らしくないほど気を遣っているのだろう。 ただそれが「三蔵」であることなど、悟空には理解り過ぎるほど判っているのだ。 だが珍しく風邪を貰って寝込んでみたり怪我が思いの外酷くて発熱したときなどは、酷く甘かった昔を思い出す。酷く甘い、とは言ってみても、何をするわけではない。 「それで、お前はどれを取りたかったんだ」 ほら、甘やかしている。 「上にある、薄いの。赤い背の」 三蔵にとって見覚えのないものが三蔵の書棚に収まっていたのだ、当然の言葉かもしれない。 「それ、俺の」 白い指先が赤い背を引き出して、悟空へと手渡す。 あの夜、寺院に八戒がいてくれたお陰で、綺麗に元には戻らないまでも困らない程度にまでは回復しそうだというのが後にやってきた医者の診立てで。 「無理すんじゃねぇよ」 ぽふんと、銃を扱うせいか見た目よりは無骨な手が、悟空の濃茶の髪を掻き撫でた。 「無理なんかしてねぇよ。さんぞ忙しいしさ、邪魔したら後で大変だと思って、一人でやってただけじゃん」 どこかで聞いた台詞に、悟空は一度目を瞠って。 「………………さんぞ?」 見上げたまま目を丸くして、ぽつりと声を零す。 「気にすんな」 ふい、と男はさりげなく表情を背ける。 「するよ。する、フツー」 ぐいと頭を押さえられるけれど、その程度のことには今更悟空も負けはしない。 「で。その、なくしたくないとかいう、それは何なんだ」 帰って来てすぐに熱出したから、取りに来るのに時間掛かったけどーと笑えば、むっとした雰囲気が零れてくる。本当に、不機嫌さだけは素直だ。 「別に、出てた間もさ、今も、なくても平気って言えば平気なんだけどさ。それでも、寂しくないことなんて、ないから」 不機嫌さを隠すこともなく、数段低くなった声が頭上から無遠慮に問う。 「え、俺の」 身に覚えがありませんどころかまるっきり知らないとばかりな声に、悟空は思わず首を傾げた。 「あれ? 知んねぇの? 結構寺ん中でりゅーつーしてんだぞ?」
――――知らなかったのだ。 まあ知っていたら、その数々の写真の取引が悟空の目に付く場所で行われるわけがない。 「俺が見らんないときの、寺の公式行事の写真とか分けて貰えたからさ。すっげ嬉しくって。部屋の引き出しにばらばらって入れてたら、八戒がアルバムくれたんだ」 嬉しそうに、悟空が微笑う。 「寄越せ」 手を差し出せば、ナニゴトかと金色の瞳が瞬く。 「なに?」 ここ数日、ギクシャクしていたのが嘘のようだ。 「大体、一人で留守番してたときとか、これがあったからそんなに寂しくなかったんだぞ。悟浄んち行く時だって持ってったんだからな。……それで八戒にバレたんだけど」 つまり何か。コレは自分の代わりなのか。 「……手放す気なんざ欠片もねぇ、って言っただろうが」 一瞬立ち戻ってくる、大人びた表情。 「今が大事なのは、当然じゃん。こうやって、珍しく優しくしてくれるさんぞの傍にいるこの時間は、俺だって大事だよ。でもさ、過去も大事じゃんよ」 きゅ、と包帯の巻かれた腕の中に、赤い表紙のアルバムを抱き締める。 「岩牢にいたときよりも前のことは、憶えてねぇんだもん。……さんぞのことくらい、憶えてたいじゃんか。もしまたなンかあって忘れても、もしかしたらコレは手に残るかもしんねぇじゃん」 見下ろせば、俯いた濃茶の頭。 「忘れたなら思い出す。そのきっかけが一つでもあるなら――――それを、俺は、大事にしたい。それだけだ」 ゆるやかな動きで見上げてきた金晴眼は、男の思い描いていたものと何一つ変わることなく、何一つ迷いのない、強い強い色彩をしていた。 「だから、例え三蔵でも、コレはあげらんない」 柔らかに笑み崩れた表情に、男は思わず両手を上げ掛ける。 「…………てめぇの写真なんか、いるか」 履き捨てるように、呟く。 そして、男の呟いたこの「てめぇ」が、三蔵のことなのか悟空のことなのか。 「お前がここにいれば、それでいい」 自分よりは小さな身体を、未だ熱の抜けきらないふらついていた華奢な身体を、男は予告もなく抱き上げて。 「――――っ?! さんぞ?!」 行動に驚いたのだろう悟空と、紫暗の瞳が正面から顔を合わせた。 「忘れてるみてぇだからな。その身体に、もう一度教えてやるよ」 艶めいた紅の唇から反論が発せられる前に――――吐息の中に、閉じ込めた。
だから。
end |
<佐野崎みつる様 作>
そな思いと共に、最後の幸せそうな悟空に読んだ私も顔がほころんでしまいました。
告白してる自覚のない三蔵が好きですv
佐野崎さま、嵐の後の少し不安でひっそり後悔してる三蔵と
酷い目にあったにしては何処とな佐野崎様に以前頂いたお話「歪んだ王国」の続編「恋人の種」を頂きました。
悟空の「馬鹿な子程可愛い」という思いと、三蔵の「やっちゃた…どうしよう…」という後悔と戸惑いとが、よくわかります。
それでもお互いが必要で、三蔵が何をしても結局は受け容れてしまう悟空が、とても大人で、強いなあと思いました。
そして、佐野崎さまが仰る通り、甘いです。
ひと山越えて、これから始まる二人です。
性急な三蔵、ちょっとあっけにとられてちゃった悟空。
どうぞ手に入れている自覚なく、不安がってる最高僧を可愛がってあげて下さい。
く幸せそうな悟空のお話をありがとうございました。