「今日から三蔵様のお側ご用をさせて頂きます、笙玄と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
そう言って、その人は笑った。
Say
hello to you for me
総支配の勒按が連れてきた新しい三蔵の側係は、笙玄と言った。
三蔵より十ほど年上の穏やかな瞳をした修行僧だった。
勒按に案内されて三蔵の住まう領域に向かう道すがら、笙玄は三蔵と三蔵の養い子である悟空について、勒按から大まかな話を聞かされた。
「知っての通り、三蔵様はその大きなお慈悲の心で妖怪の孤児をお側に置かれて養育なされている。漕瑛のこともある、くれぐれもその言動には注意し、長く勤めて欲しい」
そう話を終えた勒按に笙玄は頷きながら、三蔵と悟空に会えるのを楽しみに執務室に向かった。
扉の前でいずまいを正し、勒按は執務室の扉を叩いた。
すぐに入室の許可が下り、勒按と笙玄は執務室へ足を踏み入れた。
「三蔵様、新しい側係の者を連れて参りました」
三蔵は無口で、必要なこと以外笙玄に口をきくこともなく、養い子は笙玄の姿を見ると逃げだし、声を掛ける事もままならなかった。
それはまるで無言の拒絶。
何人も寄せ付けない。
触れさせない。
頑ななまでの拒絶。
笙玄は、仕事の手を止めて深くため息を吐いた。
初めて間近に見る最高僧、玄奘三蔵法師は噂以上の美貌の持ち主だった。
だが、その美しさとは裏腹に気難しく、寡黙だった。
必要なこと以外何一つ、笙玄に声を掛けることもない。
三蔵にとって自分は、ただの道具。
何も告げない三蔵の態度がそう語っていた。
悟空に至っては、笙玄にその姿さえ見せなかった。
たまに見かけても、笙玄の姿を見ただけで何処かへ行ってしまう。
その時向けられる悟空の金色の瞳は酷く怯えて、警戒していた。
そんな二人の態度に接するたびに笙玄は、前任者の漕瑛を恨めしく思った。
三蔵を思うあまり悟空にした仕打ちは、三蔵の不信を買っただけでなく、悟空の心を閉ざしてしまっていた。
まだ、側ご用を言いつかる前に寺院の庭先で見かけた悟空は、素直な明るい笑顔をしていた。
楽しそうに鳥や迷い込んだ動物達と戯れる姿は、笑顔を誘う優しい風景だった。
厳しい修行に明け暮れる身には、心安らぐ姿だった。
そして、時折垣間見る三蔵法師の気高く美しい姿に、見たこともない神の姿を重ね、憧れと尊敬を持って、彼を誇りに思ってきた。
それだけに、三蔵の側ご用の係を勒按から言い渡された時の喜びは図り知れなかった。
それなのに・・・・・・
取り入れた洗濯物をたたみかけたまま、笙玄は、何度目になるかわからない深いため息を吐いた。
「…がんばりましょう」
自分で自分を励まして、仕事を再開した笙玄は微かな扉の開く音を聞きつけて、振り返った。
そこにずぶ濡れになった傷だらけの悟空が立っていた。
「どうしたんです?」
悟空の姿に思わず駆け寄れば、悟空は肩を大きく揺らして笙玄から逃げようと踵を返した。
その腕を思わず笙玄は掴んでいた。
掴んだ手に悟空の震えが、ダイレクトに伝わる。
「悟空、その姿はどうしたのですか?」
掴んだ腕を放さずにもう一度問えば、悟空は恐る恐る振り返った。
その瞳は色濃い怯えに染まっていた。
笙玄は出来るだけ優しく、静かに悟空を刺激しないように細心の注意を払って、もう一度、どうしたのか訊ねた。
「…な…にが…?」
笙玄の問いかけに返された悟空の返事は、多分に怯えを含んでいた。
見返す瞳が落ち着かない。
「ケガして、こんなに濡れて。何もないはずはないでしょう?」
「……!」
優しいが有無を言わせない笙玄の言葉に悟空は、青ざめた。
その様子に笙玄は、悟空が寺院の僧侶にされたのだと、直感した。
「僧侶達にされたのですか?」
直感した言葉がそのまま口をついて出てしまった。
その途端、悟空は力一杯笙玄の腕を振り払うと、寝所を飛び出して行ってしまった。
「待って、悟空!」
悟空のあとを追いかけて回廊へ飛び出した笙玄は、執務室側の扉の前に立つ三蔵に気が付いた。
「三蔵様、悟空が…」
笙玄を見つめる三蔵の刺すような視線に、言葉は途中で止まった。
「…三蔵…様?」
「構うな」
「でも、ケガをして身体だって濡れて…あのままでは風邪を引いてしまいます」
「それより、仕事だ」
「三蔵様!」
「なら、いい」
冷たい声音で三蔵はそう告げると、執務室へ踵を返した。
その後ろ姿に笙玄は思わず怒鳴っていた。
「どうしてですか?悟空のことがご心配ではないのですか?」
三蔵の答えはない。
「三蔵様!」
尚も言い募ろうとする笙玄に三蔵は振り向くと、
「俺たちに構うな。お前は言われた仕事だけしていればいい」
切って捨てる、そう言う言葉が相応しい口調で告げると、執務室へ入って行った。
その何ものをも拒絶した三蔵の背中と言葉に、笙玄は唇を噛んで立ちすくむしかなかった。
「さんぞ、あいつ…笙玄って奴、変な奴」
夜、長椅子に座る三蔵の足下に両足を投げ出してもたれて座る悟空が、不思議そうな顔をして三蔵に告げた。
「笙玄が?」
「うん…俺の顔見ると嬉しそうに笑うんだ。んで、何か話そうとするんだ。でも俺、恐いから逃げる。で、離れて、隠れて見てるとすっげぇ残念そうな顔すんだ」
「そうか」
「うん…」
ことんと、悟空は三蔵の膝に頭をもたれさせると、
「…イイ奴……かな」
と、呟いた。
その呟きに三蔵は、悟空の大地色の頭をくしゃっと掻き混ぜてやる。
「そうだといいな」
「…うん」
気持ち良さそうに瞳を細め、悟空は頷いた。
寺院の中で孤立無援な二人。
妖怪を蔑む僧侶達。
最高僧だ、尊いお方だと敬う影で貶める僧侶達。
味方などいない。
味方などいらない。
悟空と二人で居ればいい。
三蔵と二人で居ればいい。
悪意と敵意と妬み、憧憬───ドロドロした感情を一身に浴びる三蔵と悟空。
味方がいらないわけはなかった。
二人で居る時は、悟空に気を配ってやれる。
だが、寺院を留守にする間誰が悟空を気遣ってやれる?
理不尽ないじめを受けている。
やり返す愚かさを大人である僧侶達よりわきまえ、その幼い身体で精一杯耐えている。
”三蔵”という名前が悟空を守ると言っても、三蔵本人が居なければ何の役にも立ちはしない。
まだ時折見せる悟空の感情の不安定さは、三蔵の心を暗くする。
また、漕瑛の時のようなことにでもなれば、それが三蔵の居ない時であったなら・・・心配の種は尽きない。
自分が居ない間、例え少しでも悟空を庇ってくれる人間が居ればいいのに。
それが、三蔵の思いだった。
その味方が、笙玄だったら・・・・。
ふと浮かんだ考えに三蔵は、苦笑を漏らした。
笙玄───モノ言いたげに自分を見つめてくる側係。
三蔵も悟空も笙玄に対して、我知らず、淡い期待を抱いてしまっていた。
金色の瞳に涙を一杯に溜めて三蔵を見送る悟空の姿に、笙玄はどうしようもない庇護欲を掻き立てられた。
三蔵と悟空の世話を初めて二ヶ月。
いっこうに気を許してはくれない二人だったが、初めの頃に比べると幾分態度は和らいだように見受けられた。
そのバロメーターが悟空の態度だった。
会った当初は姿を見せただけで逃げていた。
それが、笙玄の顔を見てから逃げるようになった。
今は、側に居ても逃げない。
けれど警戒が解かれた訳ではなかった。
それは二人がほんの少しだが笙玄という存在を認めた証のようで、笙玄は嬉しかった。
どんなに時間が掛かっても二人の味方になる。
おこがましいと言われようとも、二人に拒絶されたままでも。
三蔵の側係になって知ったことがたくさんあった。
三蔵の側係になって見えてきたことがたくさんあった。
元来、笙玄は正義感の強いところがあり、理不尽なことが許せない質であった。
だから、悟空が受ける修行僧達からの仕打ちにどれ程腹が立ったことか。
一度、止めさせようと悟空にケガを負わせた相手のことを問いつめたことがあった。
だが、悟空は頑として口を割ることなく、代わりに笙玄を睨み据え、しばらくは笙玄の顔を見ると敵意を見せるようになってしまった。
近づきかけた距離をまた遠ざけてしまった。
せっかく、顔を見ても逃げないでくれるようになったのに。
そんな自らが招いた結果にどうして良いのかわからず、たまりかねて三蔵に助言を求めれば、
「ここに住む以上は、我慢が必要だ。やられたらやり返す、そんなことはあいつも十分知っている。だが、それをすればバカ共に格好のエサをやることなるんだよ。あいつがここで暮らすための代償だ。だからお前は、何もするな」
そう淡々と三蔵は告げた。
全てを知った上で三蔵は黙って見ているのだ。
ちゃんと悟空の状態を見て、何かあった時は三蔵自身がその身体を張って守ると、言外に三蔵は告げていた。
その三蔵の思いを知った笙玄は、口を出すことを止めた。
止めたからと言って、悟空のことが心配なのは変わらなかったが。
それから笙玄は、口を出す代わりにケガをした悟空を見つければ、逃げる身体を押さえつけて、何も言わずに手当をしてやった。
最初は抵抗してろくに手当などできはしなかったが、続けていくうちに悟空の抵抗は姿を潜め、大人しく手当を受けてくれるようになった。
口はきいてくれないけれども。
小さな積み重ねが、小さな信頼の種をまき、小さな努力が、小さな信頼の芽を育てていた。
笙玄と悟空、二人だけの初めての留守番。
涙をこらえ、三蔵の姿が見えなくなるまで見送った悟空は、傍らに立つ笙玄を振り返ることなく、寝所に戻って行った。
後を追って戻って見れば、三蔵の寝台に踞って、声を殺して泣いていた。
その痛々しい姿に、笙玄は掛ける言葉もなく、寝室の入り口に立ちつくした。
日が陰りを増した頃、悟空は泣き疲れて眠ってしまった。
結局笙玄は、泣いている悟空を一人にすることができず、泣き疲れて眠ってしまうまで寝室の入り口から動くことが出来なかった。
笙玄は悟空が寝入ったのを確認すると、悟空に毛布を掛けてやり、夕食の支度に厨に行った。
悟空の食欲は、同じ年頃の子供にしては底知れず、軽く四、五人分は平らげてしまう。
そのことを知った時、驚いたが俄然やる気の湧いたのも事実で。
三蔵との食事風景を厨の扉の影から眺めては、悟空の食べる量や三蔵の好みを観察した。
時折、三蔵が厨の扉をじっと見つめていたので、三蔵には気付かれて居たのかも知れなかった。
今夜は、いつ悟空が起き出して食べても良いように、冷めても美味しいと思える献立を用意した。
今日からしばらく三蔵は、三仏神の命令で遠出をするのだ。
五日ほどで帰ってくると言い置いて。
気を許していない相手との五日は、悟空にとっては辛いだろう。
しかし、笙玄にとってはまたとない機会であった。
そう、悟空とうち解けるためには。
新たな気構えで、笙玄は悟空の世話に精出すことにした。
結局、悟空は泣き寝入ったまま朝を迎えた。
いつもより早い時間に目が覚め、寝起きのぼやけた頭のまま居間に姿を見せた。
居間では笙玄が、悟空のための朝食の用意をしている最中だった。
起き出してきた悟空の姿をみとめて、笙玄が声を掛けた。
「おはようございます、悟空」
「…ん、おはよ」
目を眠そうに擦りながら、返事を返す。
その返事に笙玄は小さくガッツポーズを取ると、優しく悟空に話しかけた。
「シャワーを浴びてきてはいかがですか?汗をかいていて気持ち悪いでしょう?着替え、置いてありますから、ね」
笙玄の言葉に悟空は黙って頷くと、湯殿へぺたぺたと向かった。
ここでも小さくガッツポーズがでる。
嬉しさに緩む顔をそのままに笙玄は、食卓を整えた。
ちょうど並べ終わった頃、悟空がシャワーを浴びてすっきりした顔で湯殿から出てきた。
そして、にこにこと笑う笙玄に気が付いて、怪訝な顔をする。
その姿に先程のような無防備な所はなく、笙玄に対して構えていることがありありと窺えた。
構わず、笙玄は悟空に声をかけた。
「おはようございます。朝食の用意が出来ましたので、食べて下さいね」
「…う、うん」
笙玄の明るい声に悟空は気圧されたように頷く。
「悟空は、牛乳とジュースとどちらにします?それとも両方飲みます?」
満面笑顔で訊かれた悟空は、怪訝な顔から驚いた顔になる。
この人は何?
何が嬉しいんだろ?
どうして笑ってるの?
固まった様子で答えない悟空に笙玄は、声を掛けた。
「悟空?どうかしました?」
「えっ?!」
笙玄の声に我に返った悟空は、うつむいてしまった。
その様子に何かやっただろうかと、笙玄は不安になる。
どうにかしようと笙玄が口を開くより早く、悟空が口を開いた。
その声は酷く小さかったけれど、確かに笙玄の耳に届いた。
「何で…笑ってる…の?」
思いも掛けない問いかけ。
笙玄は一瞬、瞳を見開くが、すぐに悟空の訊きたいことを察する。
「それは、私が悟空を大好きだからです」
本当にそう思うから。
三蔵以外頼る人のいないこの寺院で、理不尽な仕打ちに幼い身体と心で耐える悟空が、誰よりも優しい綺麗な笑顔で笑う悟空が、どうしようもなく可愛くて、愛しくて、大好きだと、そう思うから、その思いをそのまま告げる。
笙玄の言葉に悟空は弾かれたように顔を上げた。
その顔は、信じられないと言う驚愕に染まっている。
「本当に私は、悟空が大好きです」
念を押せば、見開かれた金の瞳が微かに潤んでゆく。
震える口元から零れる言葉は拒絶。
「…ウソ…信じな…い。信じられない」
「ウソなんて言ってません。私はあなたが大好きですよ」
「さんぞ…のことも?」
「はい」
盛り上がった透明な滴は、金色の宝石から溢れ出し、幼い頬を濡らし始めた。
気持ちは信じたい。
でも、また手酷く裏切られたら?
三蔵に迷惑がかかる。
三蔵に迷惑を掛ければ、一緒に居られない。
でも・・・・
「信じて…いいの?」
希望は言葉になった。
その言葉を聞いた笙玄の微笑みが輝く。
「はい。私は悟空を裏切ったりしません。どんなことがあっても。だから、悟空も私を信じて下さい」
思いの丈を込めて悟空に告げれば、悟空は何も言わずただ、涙を流し続けた。
その不安定な様子に思わず笙玄は、悟空を抱きしめていた。
突然の笙玄の行動に悟空は逃げようと抗ったが、すぐに大人しく笙玄の腕の中に収まった。
触れて知る悟空の小さな身体。
見た目よりもずっと華奢で、小さくて、幼い子供。
「悟空、大丈夫ですよ。信じてくださいね」
宥めるように背中を撫でながら、笙玄は静かに言葉を紡いだ。
笙玄の言葉に悟空からの返事はなかったけれど、笙玄の腕の中で大人しくしている悟空の様子に、自分が悟空に受け入れられたと感じた。
ほうっと、息を吐いて笙玄は悟空から離れると、これ以上ないと言うほどの笑顔を悟空に見せた。
「朝ご飯、食べましょうね」
笙玄の心からの言葉は確かに、悟空の心に届いたようだった。
その日は、一日笙玄の側をつかず離れずの距離を保ちながら、悟空が側に居たからだ。
笙玄の一挙手一投足の中に、信じる証を見つけようとする悟空の態度に、笙玄は嬉しさをかみ殺して、仕事に励んだ。
そして、その日の夜、悟空が笙玄の私室の扉を叩いた。
「はい?」
遠慮がちなノックの音に笙玄は、ゆっくり自室の扉を開けた。
そこには、夜着の姿の悟空が、青い顔をして立っていた。
「どうしたんですか?」
驚いて問いかければ、悟空は唇を噛んで夜着を握りしめる。
そんな悟空の様子に笙玄はそれ以上何も言わず、身体をずらし、悟空を部屋へ招き入れた。
「そちらの椅子に座って下さい。何か飲み物を持ってきます」
何も答えない悟空に椅子を示して、笙玄は厨へ飲み物を取りに行った。
部屋を出て行く笙玄の姿を悟空はすがるような瞳で見送ったが、声を掛けることはしなかった。
牛乳を温めて戻ってくると、悟空はまだ、扉の所に立ったままだった。
牛乳の入ったマグカップを机に置き、悟空に声をかけた。
「そんなところに居ないで、こっちへ来て座って下さい」
ね、っと笑顔を向けると、悟空は黙って笙玄の示す椅子の側に寄ってきた。
もう一度、座るように促すと、悟空はおずおずと座った。
「はい、牛乳です。飲めば気持ちが楽になりますよ」
マグカップを差し出す。
悟空は、笙玄の顔とマグカップを交互に見つめた後、ゆっくりとそれを受け取った。
「悟空…?」
そっと問いかければ、悟空は肩を震わせ、ぎゅっとマグカップを握りしめる。
何かを我慢するように唇を噛み、うつむいたままの悟空の様子に笙玄はその隣に腰を下ろした。
「何か、あったのですか?」
うつむく悟空の顔を下から覗き込むようにすれば、吐息のような答えが返ってきた。
「……て…」
「はい?」
聞き逃して、もう一度問いかければ、悟空はマグカップを笙玄に押しつけるように渡すと、逃げるように部屋を飛び出していった。
「悟空!」
慌てた笙玄は、マグカップを取り落とし、床に落ちた堅い音が響いた。
床に広がった牛乳の白い色を見つめながら、笙玄はほぞをかんだ。
何か、間違ったのだ。
あれほど警戒していた悟空が、自分から笙玄の元へ来てくれたというのに。
もう取り返しは付かないのだろうか。
そんなことはないはずだ。
笙玄はきゅっと唇を噛むと、悟空の後を追って部屋を出たのだった。
悟空は誰もいない寝所に戻っていた。
今夜から三蔵は居ない。
わかっていたし、少しは慣れたはずだったのに。
少しずつ慣れるようにと、三蔵が遠出をする少し前から練習までしたのに。
でも、ダメだった・・・・。
暗い部屋は嫌い。
あの岩牢を思い出すから。
一人は嫌い。
あの淋しさを思い出すから。
この世にたった一人、取り残されたとしか思えないから。
誰でも良い、側に居て欲しいと願ってしまう。
「……さんぞ…」
今、一番側に居て欲しい人の名前を呟く。
答えはないと、わかってはいても。
「…さん…ぞぉ…」
膝を抱えて踞る。
か細い月明かりに浮かぶ幼い影は、今にも壊れそうに震えていた。
笙玄は寝所の前で、荒くなった息を沈めようと何度か深呼吸を繰り返した。
そして、そっと扉を開けた。
明かりのない三蔵の寝所は、窓から入るか細い月明かりに暗い陰鬱な翳りに包まれていた。
滑り込むように部屋に入った笙玄は、悟空の姿を捜した。
月明かりを頼りに部屋の中を歩けば、目指す姿を寝室の窓の下に見つけた。
出来るだけ悟空を驚かさないように静かに近づく。
そして、悟空と同じように床に座って初めて、笙玄は悟空に声を掛けた。
「悟空…」
笙玄の声に悟空は大きく肩を揺らした。
「悟空…悟空」
静かに優しく、悟空の名を呼ぶ。
悟空は笙玄の穏やかな声にゆっくりと顔を上げた。
「…笙玄…?」
初めて、悟空は笙玄の名を呼んだ。
自分を見返す金色の瞳が、透明な輝きに満ちている。
その中に見える不安と恐怖。
「はい。ここに居ますよ」
答えれば、悟空は弾かれたように笙玄に抱きついてきた。
突然のことに笙玄は驚いたが、しっかりと悟空の身体を抱き留める。
「悟空?」
抱き留めた小さな身体が小刻みに震えていることに気が付いた笙玄は、宥めるように悟空の背中を撫でた。
どれほどそうしていただろう。
悟空の震えが止まったことに気が付いた笙玄は、腕の中の悟空を覗いた。
見れば、悟空は涙の痕を残したまま、静かに寝入っていた。
そのあどけないけれど何処か痛々しい寝顔に、笙玄は胸の痛みを覚える。
三蔵が居ない淋しさに耐えかねて、自分の所に来たのだろう。
今更ながらに悟空の気持ちに気付く。
笙玄は己のふがいなさを思い、ため息を吐くと、悟空を抱き上げた。
そして、悟空の寝台に寝かせ、身体を離そうとした動きを止めた。
悟空の手が、笙玄の作務衣をしっかりと握りしめていた。
そのことに大きく瞳を見開き、ついで破顔する。
そっと、その手を破がして自分の手で握り込む。
すると悟空はその手にすり寄るようにしてくる。
「大丈夫、ずっとここに居ますよ」
小さな声で囁けば、悟空の顔がほころんだような気がした。
その笑顔に笙玄は、悟空に本当に受け入れられた気がして嬉しかった。
翌朝、悟空は布団の重みで目が覚めた。
見れば、自分の手を握った笙玄が、上掛けの布団の上に上半身をもたれさせて眠っていた。
「…一緒に居てくれたんだ」
気が付いた悟空は、嬉しそうに笑った。
その身じろぎで、笙玄の目が開いた。
鳶色の瞳が、二、三度瞬き、悟空の顔を映す。
「おはよ、笙玄」
悟空の声に笙玄は、飛び起きた。
あまりの慌てぶりに悟空は、声を上げて笑う。
その笑い声に笙玄は、しばしぽかんとした後、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「おはようございます、悟空」
「うん、おはよう」
朝日に輝く、笑顔が笙玄に向けられる。
その眩しい笑顔に笙玄の心は躍り出しそうなほど、幸せに震えていた。
その気持ちが悟空に伝わったのだろう、悟空が口を開いた。
「あのね…今までごめんね。笙玄のこと俺、信じるから、だから笙玄も俺のこと嫌いにならないでね」
そう言って笙玄に向けられるまっすぐな黄金の瞳。
その透明で真摯な輝きをどうして裏切ることが出来るというのだろう。
「はい。決して悟空を嫌いになったりしません。私の誇りに掛けて」
力強く頷けば、悟空は零れんばかりの笑顔を浮かべた。
それは、笙玄が待ち望んだ笑顔。
自分には向けられないだろうと諦めていた笑顔。
「ありがとう」
「こちらこそ」
笙玄は立ち上がると、いずまいを正し、
「初めまして悟空、どうぞよろしくお願いします」
と、笑って頭を下げた。
予定より早く帰還した三蔵は、笙玄と楽しそうに過ごす悟空の姿を見る。
その姿に安堵と言われない苛つきを三蔵は感じることとなった。
それはまた、別の話。
end
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