a cold scent




最近、悟空が三蔵の傍に近寄ろうとしない。

よく理由が分からない三蔵のイライラは増し、その三蔵を宥めながら仕事をさせている笙玄は胃に穴が開きそうだった。



一体何があったのか。



どちらも変なところで意地っ張りだから拗れると、とことんややこしくなる。

今回は、ただ、あれほど三蔵にまとわりついたり、抱きついたりしていた悟空が三蔵の傍に寄りつかなくなったことだけだったのだが、どうもそれが三蔵の不機嫌の原因のようだった。
だが、何故そうなったのか、その理由を悟空は笙玄にも三蔵にすら話していないらしく、そのことも三蔵の不機嫌に拍車をかけていた。

執務室の前で笙玄は、緩く頭を振って滅入ってくる気分を引き上げるように息を吐くと、扉を開けた。




「何をなさってるんですか?」

書類を持って執務室に入った笙玄は、自分の僧衣の匂いを嗅いでいる三蔵の姿にびっくりした。
思わず上げた笙玄の声に驚いて振り向いた三蔵の顔が、ぱっと赤くなる。

「三蔵様?」

そのまましばし固まったまま、三蔵は近づいてくる笙玄を見つめていた。

「何か…」
「な、なんでもねぇ」

慌てて立ち上がると、三蔵は寝所へ続く扉に向かう。

「さ、三蔵様…?」

呼び止める笙玄の声を無視して、三蔵は寝所へと入っていった。
その後ろ姿を見送った笙玄は、ふと、先日の悟空が言っていたことを思い出した。




「三蔵、いつもと違うんだ。綺麗な花の匂いなのに、俺…何かやなんだ。なあ、何でだと思う?」




まさか…ね。



笙玄は思い出した悟空の言葉を振り払うように頭を軽く振ると、処理の終わった書類と持参した書類を交換して、自分の仕事部屋へ引き上げて行った。




















綺麗に着飾った女性の列が、寺院の客殿に入って行った。

今日は、貴族の奥方や娘達に法話を三蔵がする。
寺院に女性は入れないかと言えば、参拝やこうした法話会などの時は入れるのである。
だが、修行道場のある中の院は、厳格に女人禁制だった。

三蔵は笙玄を伴って、表の客殿に向かう。
いつもよりも華やかな紫で牡丹唐草が織り込まれた薄紫の衣に、金糸で同じ牡丹唐草の文様が織られた袈裟を身に纏って。
春の陽ざしに金糸が映え、三蔵の美しさが際だつ。

が、眉間に寄った皺が、そんな美貌を台無しにしていた。

客殿の扉の前で一度足を止めた三蔵は何度か深呼吸すると、笙玄に扉を開けろと合図を送った。






説法を終えた後、茶話会が開かれた。
今日ここに集った女性達は皆、桃源郷で力を持つ男達の妻や娘、姉妹だった。
三蔵の住まうこの寺院にも多額の寄進をしている。
その寄進が途絶えないように、または、寄進の額が増えるようにとの思惑のある、法話会の名を借りた体の良い接待だった。

そのホストが、三蔵法師なのだ。

三蔵は自分の周りを取り囲む女達に、愛想笑いは出来ないが、不機嫌な顔も出来ず、ただ、無表情な顔を向けていた。
それが、女心を煽るとも知らず。

当たり障りのない会話。
煌びやかな笑い声。
綺麗に着飾ったどの女達より三蔵が美しかった。
その美しさに陶然となりながらも、三蔵にもたらされる嫉妬。
若く、美しい三蔵法師の気を引こうとする娘達。

虚飾と醜さと浅ましさをその装飾で飾り立てた時間は、三蔵にとって苦痛意外のなにモノでもなかった。
忍耐の袋が切れるその限界に挑戦するような茶話会は、寺院の総門が締まる時間まで続いた。
女性達の相手がそろそろ三蔵の限界を超えようとするまさにその時、お開きの宣言がもたらされ、はらはらとその様子を見ていた笙玄は、胸をなで下ろした。

女性達を客殿の外まで見送った三蔵は、回廊の向こうにその姿が消えた途端、走るように寝所に戻って行った。






蹴破るようにして寝所の扉を開けて、三蔵が戻ってきた。
その大きな音に悟空はびっくりしたが、三蔵の姿を認めて嬉しそうに三蔵に飛びついた。

「おかえりぃ」
「…ああ」

不機嫌全開だった三蔵の気分も悟空の柔らかな匂いと暖かい抱き心地に、落ち着きを取り戻す。
悟空は抱きついた三蔵の着物の匂いに、綺麗な眉を顰めた。

いつも笙玄が三蔵の衣に炊き込めている香の匂いではない花の匂い。
野に咲く花の優しい香りでもなく、観賞用にと改良された大輪の花達の香りでもない花の香り。
それは人工的に人の手で作り出されたモノだと気が付く。
それは香水と言われる水の匂い。

悟空は三蔵がどうしてこんな匂いを身につけてきたのか、その訳を聞きたいと顔を上げた。
三蔵は戸口で悟空に抱きつかれたまま移動し、長椅子に座った。
そして、

「おい、煙草…」

と、煙草を取らせる。
悟空は三蔵から離れ、テーブルの上の煙草を持ってくると、三蔵に手渡した。
それを受け取った三蔵は、悟空の表情に引っかかりを覚えた。
だが、早く煙草を吸って一息入れたいと思う気持ちの方が勝った。
悟空は、美味しそうに煙草を吸う三蔵を何とも言えない複雑な顔をして見つめていた。




















そう言えば、あれからでしたか…



自室で仕事の手を止めたまま、笙玄は思い返していたのだ。
思い出した悟空の言葉が、どうしても頭から離れなかったから。

確かにあの時の衣には、接待した客達の濃密な香水の香りが色濃く残っていた。
だが、あの後三蔵は風呂にも入り、着替えもすませている。
それなのにあれ以来、悟空は必要以上に三蔵に近づこうとしない。
その様子が気になって、悟空に問いかけたその答えが、あれだったのだ。



困りましたねぇ…



ため息を吐きながらも、笙玄は先程の三蔵の仕草を思い出し、顔をほころばせた。
無自覚に、三蔵も気が付いているのだ。
では、



高みの見物…ですね。



笙玄はそう決めると、二人が仲直りした後の仕事のために、手を動かし始めた。
















三蔵は寝所に戻ると、忌々しそうに長椅子に腰掛けた。
そして、イライラと煙草を吸う。

一体なんだというのだ。
あれほど、ことあるごとに、暇さえあれば抱きついたり、まとわりついていた悟空がよっぽどのことが無いと側に来ない。
自分が近づくと、無意識なのか、故意なのか身体を引く。
その原因が自分にあるのか、悟空にあるのか、それとも寺院の奴らに何か言われたのか。
思い当たることが多すぎて、今更ながらに悟空の置かれた環境にため息が出る。
だが、そんなことが今、問題ではない。
悟空が自分を微妙に避けるようになったその訳だ。
どうにかしてその原因を掴みたくて、三蔵はまず、己の行動から辿り始めることをにした。






悟空は三蔵の不機嫌が、増していることにどうしたものかと、考えていた。

笙玄にああ言ったものの、その後、原因に思い至った。
そう、あの日、三蔵の衣から香った花の香り。
あれが、あの匂いが受け入れられないのだ。
今はもう、依然と同じ嗅ぎ慣れた三蔵の匂いしかしないというのにだ。
自分は人工的なモノが嫌いだ、苦手だということはないはずなのに、あれ以来、三蔵の傍に近づくと思い出してしまうのだ。
だが、その気持ちをどういう風に言葉にしていいのか、見当も付かない悟空だった。











「ただいまぁ…」

夕暮れ、悟空が帰ると、三蔵が着替えていた。
何をしているのかと見ていると、着替えた僧衣の匂いを嗅いでいる。
そして、ちょっと顔を顰めた後、洗面所へと入っていった。
悟空は寝所の扉を閉めて、手を洗いに洗面所に向かった。

そこで、三蔵と鉢合わせになった。

「ご、悟空…」
「あ…ただいま…」

どぎまぎとぎこちなくかわされた言葉に、悟空は胸が痛い。
と、

「おい、まだ匂うか?」

三蔵が自分の袖の匂いを嗅ぎながら、悟空の顔を見た。

「…えっ?」

一瞬、何を言っているのか聞き逃す。

「…いや、お前、嫌だったんだろ?あの女どもが付けた匂いが」

そっぽを向いて三蔵が、言う。
その言葉に、ようやく三蔵が悟空が近づかない理由に思い至ったことを知った。

「さんぞ!」

悟空は思いっきり三蔵に飛びついた。
その勢いに三蔵は洗面所の扉に背中をぶつけた。
その痛みに僅かに顔を眇めるが、すぐにその紫暗は見開かれた。

「ごめん!ごめんな。俺、俺…そんなつもり無かったんだ。でも…でも、何かやだったんだ。さんぞが、俺の知ってる三蔵じゃなくなった気がして…」

悟空の言葉に、三蔵の口元が自然にほころんでくる。
悟空の言葉に、三蔵は安心した。

意外に単純な自分に笑える。

三蔵は縋りつく悟空の背中に腕を回すと、そっと抱きしめた。
そして、

「…これからは気を付けてやる」

と、呟いた。
その声が、悟空に届いたかどうかはわからないが、三蔵の背中に回された悟空の腕の力が僅かに強くなったことに、三蔵はまた笑みを零したのだった。









その後、他人との接触を嫌う三蔵の態度に拍車がかかったのは当然だが、もう一つ、三蔵と会う女性も男性もいや、どんな人間も香水と名の付くモノをその身に纏わせていては、三蔵と近しく話すことが出来なくなったとか、ならなかったとか。

それは風の噂。




end




リクエスト:三蔵の接触嫌悪な理由。
18000 Hit ありがとうございました。
謹んで、碓氷砂帆さまに捧げます。
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