白い固まりが、子供の視界を覆った。
誰かが叫んでいる声がする。
腕の中の白い固まりは、紅い色に染まって動かない。
子供の口が、開いた。
迸り出た声は、身を引き裂くような悲鳴だった。
Seize
「おい、悟空は?」
悟浄が、戸口から寝台に横たわった三蔵の姿を目の端に捉えながら、看病している八戒に問うた。
「今さっき、やっと、寝てくれました」
「ん・・で、三蔵は?」
足音を立てないように部屋に入ると、寝台の側に座る八戒の横に立つ。
そこは、ちょうど二つの寝台の間で、八戒は、三蔵の眠る寝台の方を向いて座っていた。
悟浄は、そっと眠っている三蔵を覗き込む。
寝台に横たわる三蔵は、幾分顔色は悪かったが、静かな寝息を立てていた。
「三蔵は、まだ・・・」
「そうか。傷は?」
「目に近かったので、ちょっと心配ですが、目が見えるか、見えないかは包帯が取れてからって、ところですね。それよりも、僕は、悟空の方が心配です」
そう言って、八戒が振り返る先に、踞るように身体を小さく丸めて眠る悟空がいた。
「サル・・・か」
「はい」
どうしようもないという、ため息が二人の口から漏れた。
三蔵が、悟空を庇ってケガをした。
そのことが、悟空をここまで追いつめた。
人形のような状態。
いつもなら、三蔵が、悟空を庇うことなどあり得ない。
なぜなら、悟空の戦闘能力は、四人の中でずば抜けていたから。
外見とは裏腹な戦闘能力。
何より悟空が、強くありたいと願うから、庇い立てなど無用のはずだった。
それが、ほんのちょっとした一瞬、あり得ないような魔が差した。
そこを衝かれた。
避けきれない攻撃が、悟空を襲った。
無意識に身体が動いたのだろう。
そんな顔を三蔵は、していた。
驚愕に染まった悟空の腕の中に三蔵が、倒れ込む。
その身体を受けとめた悟空から、凄まじい悲鳴が上がった。
その悲鳴に一瞬、全てが凍り付く。
いち早く我に返った八戒が、悟浄を促して、二人の周囲の妖怪を薙ぎ払い、闘った。
戦闘が終わった時、累々たる死体の中に、放心状態の悟空とその腕の中で意識を失った血まみれの三蔵がいた。
三蔵の身体を離さない悟空をそのままに、八戒は三蔵の傷を調べ、気孔で塞いだ。
傷は、こめかみから額にかけて切られていたが、出血の割にはそれほど深い物ではなかった。
悟浄が、荷物の中から傷薬と包帯を出し、手早く手当をした。
「医者に見せた方が、いいかも知れませんね」
「なら、こんなとこはさっさと立ち去るに限る」
ジープに荷物を投げ入れ、悟浄は気を失った三蔵の身体を悟空から離そうと手を掛けた。
その手に悟空が、噛みついた。
「何しやがる!」
噛みついた悟空を振り払って、悟浄が怒鳴った。
そんな悟空の様子に八戒も驚く。
「悟空!!」
見下ろす悟空は、三蔵の身体を精一杯抱え込んで、守るように踞っている。
「悟空、三蔵をジープに乗せねえと、出発できねえだろうが」
悟浄がもう一度、三蔵の身体に手を掛けた。
その手にまた、悟空は噛みつこうとする。
今度は、寸前のところで手を引くが、これではらちがあかない。
「まるで、傷付いた親を守る野生動物みたいですねぇ」
「感心してる場合か。見てねぇで、お前も手伝え」
「あ、はい」
悟浄が悟空の気を引く間に、八戒が三蔵を悟空から引き剥がした。
その途端、我を忘れたように攻撃してくる。
がむしゃらな攻撃は、八戒と悟浄に無数の傷を負わせた。
最後には、後ろから悟浄が羽交い締めにした悟空の鳩尾に、八戒の拳を納めることで、ようやく決着が付いた。
が、しばらく、二人とも疲労困憊で動くことができなかった。
「トチ狂ってる奴は、バカ力だぜ」
「いえ、親を守る子供ですって」
「どっちでもいいけど、も・・死にそ」
「・・・はい」
へばった二人を傾きかけた太陽が、急げと急かす。
二人は疲れて重い体を引きずるようにして立ちあがると、後部座席に三蔵と悟空を放り込んだ。
そして、宿を求めて走った。
太陽が地平線にその姿を隠す寸前、街の明かりをやっとの思いで見つけた。
手近な宿屋を見つけて、飛び込む。
取りあえず二部屋取り、その一部屋に宿の人に手を借りて、三蔵と悟空を運び込んだ。
医者を呼んでもらい、三蔵の傷の具合を診てもらった。
診察を終えた医者が帰って、ようやく人心地ついた時、悟空が目を覚ました。
寝台の上に身体を起こし、座る。
「気が付きました?悟空」
八戒の呼びかけに悟空は答えない。
「悟空?」
八戒は不審に思って悟空の側に寄った。
そこには、人形のような瞳をした、悟空がいた。
「悟空!」
肩を掴んで揺さぶってみるが、されるがままで何の反応も示さない。
「どうした?八戒」
悟浄も何事かと、八戒と悟空の側による。
「悟空が、悟空の様子が変なんです」
「おい、サル!」
すがるような八戒の表情に悟浄も慌てる。
しかし、揺さぶろうが、耳元で名前を呼ぼうが、叩こうが、悟空は何も反応しなかった。
まるで、人形のようにされるがままの状態の悟空に、八戒と悟浄は言葉を失った。
悟空と知り合って、長くはないが、決して短いとも言えない付き合いの中で、こんな悟空は初めて見た。
いつも輝くような生命力に溢れた、元気のいい悟空しか知らなかった。
シュンとしている姿をたまに見ても、それはほんの一時のことで、すぐに無邪気に笑う悟空しか見たことがなかった。
こんな、感情を殺して、内に隠ってしまった悟空なんて知らない。
元に戻す方法など、思いつきもしなかった。
三蔵が悟空を庇って以前ケガをした時は、暴走した。
次に、三蔵がケガをした時は、暴走はしなかったが、結局三蔵のために金鈷を自らの手ではずした。
そして、今回、暴走する前に、心が凍り付いた。
それ程のショックだったのだろうか。
自身の心を凍らせるほどの衝撃を与えたのだろうか。
見えてこない理由に八戒も悟浄も困惑を隠せなかった。
人形のような悟空の扱いに困り果てれば、隣の寝台で眠っている唯一解決策を知るであろう人物の目覚めが、待ち遠しかった。
───・・・るっせぇ
子供が、泣いている。
声も立てずに、透明な滴を零しながら。
子供が泣いている。
その黄金を潤ませて。
───・・わかったから、泣くな
子供が、呼んでいる。
悲痛な声で。
子供が、呼んでいる。
怯えた声で。
───今、行ってやるから・・・
子供が、泣いている。
小さな背中を震わせて、泣いている。
子供が、呼んでいる。
すがるように細い腕を伸ばして、呼んでいる。
三蔵は、重い瞼を開けた。
「気が付きました?」
八戒の声が、聞こえた。
「・・・ああ」
身体を起こし、目を覆う包帯に手をやった。
「ああ、目のすぐ側を切られたんです。傷は塞いだのですが、目を傷つけているかも知れないので、傷が治るまで、包帯を取らないでくださいね」
「わかった」
八戒の言葉に頷きながら、三蔵は悟空の気配を辿っていた。
同じ部屋にいる。
だが、この気配は何だ?
全てを拒否した、閉じこもった気配。
それはまるで、寺院に連れて来た頃のような。
何があった?
辿る気配の先に、八戒のほっとしたため息を聞き咎めた三蔵は、訝しげに八戒に声を掛けた。
「八戒?」
八戒は、少し逡巡した後、
「三蔵、悟空が・・・変なんです」
と、疲れたように告げた。
その声の様子から、悟空の状態はかなり手に負えないと判断する。
「変、だと?」
「ええ、その・・・まるで人形のように何の反応も示さなくなったんです。どんなに呼びかけても、叩いてもダメなんです。もう、僕も悟浄もどうしていいか判らなくて・・・」
「それでか。で、どれくらい眠ってた?」
「あなたは、丸一日ですね」
「そうか・・・」
三蔵は、しばらく何事か考えていたが、小さくため息を吐くと、悟空を呼んだ。
その声は、今までに八戒が聞いたこともない、慈愛に満ちた、深く心に染み渡る様な声だった。
八戒が見守る中、三蔵は静かに悟空の名前を呼ぶ。
その声に悟空の人形のような瞳に微かな光が灯った。
「悟空」
諭すように、三蔵は悟空の名を呼ぶ。
三蔵の声に呼ばれるように、少しずつ悟空の瞳が輝きを取り戻してゆく。
同じ声で、三蔵は悟空を呼び続けた。
「悟空」
───戻って来い、悟空
ゆっくりと、悟空の顔が三蔵の方を向いた。
そして、黄金の瞳が大きく見開かれる。
やがて、見開かれた瞳に透明な盛り上がりが生まれ、零れ落ちた。
「悟空」
力を込めて呼んでやれば、悟空は何度か口を開いては閉じ、ようやく声を紡いだ。
「・・・・さ・・んぞ・・?」
掠れる声に、三蔵は静かに返事を返す。
「ああ」
「・・ホントに?」
「ああ」
「生きて・・・る?」
「ああ、生きてるよ」
震えるように両手を差し出しながら、悟空は三蔵の方へにじり寄る。
そんな悟空に三蔵は、止め徒ばかりに名を呼んだ。
途端、
「さんぞ、さんぞぉ!!」
転がるように寝台を駆け下りると、三蔵に飛びつく。
そして、声を挙げて泣き出した。
「・・・かないませんねぇ」
八戒は、三蔵にしがみついて泣きじゃくる悟空を見つめて、少し淋しそうな笑いを浮かべると、そっと部屋を出て行った。
目の前に広がった白。
その白が、紅く、赤く染まってゆく。
失った断片。
金色と赤と白と。
魂を引き裂くような慟哭。
血の匂いと襲い来る喪失。
また、失うのか、また・・・。
永劫続くはずだった孤独と暗闇の世界から連れ出してくれたあの手を失う。
また、失う。
・・・・・また。
その恐怖は、悟空を凍り付かせた。
では、自分もいらない。
もう、何もいらない。
聞くことも、感じることも、話すこともいらない。
あの手の無い世界なんていらない。
あの黄金の光りのない世界なんていらない。
だから、自分を捨てる。
それでも心は、あの手を求めていた。
それでも魂は、あの光りを望んでいた。
失ってしまえば、もう生きて行けない。
それは、確かな事実。
今、この温もりに触れて、改めて知る。
何よりも、この黄金の光りを失いたくない。
側に居て欲しい。
側に居たい。
それが、唯一の願い。
「いい加減、泣きやめ」
「だ、だって・・・」
三蔵にしがみつく悟空の腕に、力が入る。
その幼い仕草に三蔵は、手探りで悟空の身体を掴むと、そのまま寝台に横になった。
「さんぞ?」
どうしたのかと、問いかける悟空に三蔵は、上掛けを引き寄せさせた。
「さんぞってば」
すっかり泣きやんだ悟空が、ごそごそと三蔵の腕の中で動く。
その動きを封じるように三蔵は、抱き込んだ腕に力を入れた。
「苦しいって」
「喧しい、俺は疲れてんだ」
「むうっ」
ぷうっと、膨れたらしい悟空の気配に三蔵は、僅かに口元をほころばせた。
そして、悟空の身体を辿るように頬に手を伸ばすと、涙を拭ってやった。
「ん・・くすぐったい」
「煩い、寝ろ」
「何で?」
「お前の所為で、疲れたんだ」
そう言いながらも、三蔵の手は、悟空の身体をゆっくりと撫でている。
その三蔵の手が触れたところから、悟空の身体にぬくもりが広がってゆく。
身体の奥の不安が、拭われてゆく。
「ごめん・・さんぞ」
「もう、いい」
「でも・・・」
「いいから寝ろ、俺は眠てぇ」
三蔵はそう言うと、撫でていた手を止めて悟空を抱き心地のいい位置に納めた。
悟空は、抱き込まれた三蔵の腕の中で居心地のいい楽な場所を見つけると、目を閉じた。
「・・・どこにも行かねえよ」
「うん」
小さく吐息のように告げられた言葉に、悟空は頷くと、安らかな寝息を立て始めた。
その寝息を確認すると、三蔵も悟空の髪に口づけを一つ落として、眠りについた。
八戒が、悟浄と共に部屋に戻ってきた時、三蔵の寝台には、二人が寄り添って眠る姿があった。
「あーら、仲良さげ」
「ホントに・・・」
苦笑を浮かべる八戒に、悟浄は片眉を上げて見せる。
「妬ける?」
「ええ、少し」
「いいんじゃねぇの。俺達じゃかなわねえんだからよ」
「悟浄・・・」
見やれば悟浄は、穏やかな顔で八戒を見つめていた。
「そうですね。こんなの見てても馬鹿馬鹿しいですね」
「そーゆこと」
「じゃあ、呑みにでも行きましょうか」
にっこりと、八戒にいつもの笑みが戻っていた。
「いいねぇ、行きましょう、行きましょう」
「はい」
二人は笑い合うと、街の酒場に繰り出していった。
目が見えないことをいいことに、散々八戒の良い人攻撃を三蔵は、その身に受けるはめになった。
その後、無事ケガが治って、包帯が取れてもその攻撃はしばらく続いた。
お陰で、誰も八戒に表立って逆らうことがなくなったとか、ならなかったとか。
旅は、まだ終わらない。
end