窓辺に座って、子供が外を見つめていた。

窓の外は、雨。

糸よりも細い銀糸が、音もなく大地に降り注いでいた。

明るい雨。

薄日が差して、銀色に光る。
子供は頬杖をついて、その黄金の宝石を僅かに伏せて、外を見つめていた。

ひとりの午後。



─────いつもアナタを見ているから




秋時雨




「ねえ、笙玄、この字なんて読むの?」

取り入れた洗濯物をたたんでいる笙玄に、読みかけの本を悟空は差し出した。
差し出された本の悟空が指さす文字は”時雨”。

「”しぐれ”と読むのですよ」

手を止めて答えてやれば、悟空はにこっと笑う。
そして、

「しぐれって、何?」

と、訊いてきた。

「雨ですよ。ほら、時々、さあっと降ってしばらくすると止んで、また降る雨の事ですよ」
「ふーん。雨のことか…」

そう言ってしばらく考えた後、悟空は「わかった」と納得したようだった。
そして、そのまま笙玄の横に座って、絵本の続きを読み始めた。
そんな悟空の姿に顔をほころばせながら、笙玄は再び、手を動かし始めた。






三蔵は、仕事で遠出をしていた。
予定では、今日帰って来る。






三蔵が出掛ける時、悟空はいつも目に涙を溜めてその後ろ姿を見送っている。
その姿は痛々しくて、何とかその憂いを取ってやりたいと思うが、その憂いを取るのも与えるのも悟空の養い親の三蔵で。
三蔵以外の人間には、どうすることも出来ない。
それでも、三蔵の居ない淋しさを少しでも紛らせることが出来るのならと、笙玄は一冊の絵本を三蔵が出掛けた日に悟空に渡した。



その絵本は、笙玄がまだ幼い時に母親が何度も読み聞かせてくれたもので、秋の訪れと共に大地を訪問する時雨の精霊と大地の御子のちょと悲しくて、愛しい触れ合いの話だった。



話を気に入ったらしい悟空は、その日からずっとその絵本を側に置き、広げては眺めていた。
そして、今日、絵本の文章を辿りだした。
読めない漢字が出てくると、こうして笙玄に訊きにくる。
読み方とその意味を必ず尋ねてくる。




そう、悟空はバカなどではない。




興味があることはスポンジが水を吸うように、幾らでも吸収していく。
何も知らないと、侮ってはならなかった。
人間にとって一番大切なもの、皆がすぐに手放して忘れてしまうその大切なものを悟空は失わずにいる。
だからこそ、人の心の機微に聡く、慈悲深い。

無条件の慈しみ。
誰に教えられたわけでもなくその身に備わった宝石。
汚れのない宝。

他人を寄せ付けない三蔵が悟空を側に置くその理由を笙玄は、そうした悟空の中に見るのだった。











洗濯をたたみ終えた笙玄は、絵本に夢中になっている悟空をそのままに、三蔵が戻ってきてから少しでも長く悟空の側に三蔵が居られるよう段取りを整えるため、寝所を後にした。




─────秋の初めの雨は、大地に秋の訪れを告げるのです。




開け放った窓から雨の匂いを纏い付かせた風が、入ってきた。
悟空は絵本から顔を上げ、窓に目を向けた。
薄日に銀糸が見えた。
悟空は絵本を置くと、窓辺に寄り、外を眺めた。

それは絵本の中に出てくるような雨で。




─────大地の子供は銀色の精霊に、「こんにちは」と、挨拶をしました。




静かに降り注ぐ日向雨に悟空は絵本の世界を重ね合わせた。
銀色の精霊が見えはしないかと目をこらす。
儚げな銀色の仄かに光る時雨の精霊。
大地の御子───大地母神が愛し子の悟空の傍に舞い降りて来ないかと。
雨を見つめる自分に、「こんにちは」と笑いかけてくれないかと。

夢を見るように、悟空は銀糸の雨を見つめていた。

やがて、陽の光が強くなったのか、銀糸が時折金色に光った。
まるで彼人の金糸のように。



この世の全てを照らす、大切な太陽。
大地の御子の最愛の宝石。



さんぞ…



悟空の顔が憂いに染まった。



三蔵が出掛けて一週間になる。
予定では、今日帰って来るはず。
今朝、笙玄がそう、教えてくれた。

「三蔵様と悟空の好きなモノをたくさん作りましょうね。三蔵様のお言いつけをきちんと守っていた悟空へ、私からのささやかなご褒美と無事に帰られた三蔵様のお祝いです」

日差しが少しずつ強くなるに連れて、雲が切れ太陽がその姿を現す。
太陽が帰って来たのだ。






─────お日様の光に銀色の精霊の身体は、透き通っていきます。
─────大地の子供は、お日様の眩しい光が嬉しいのに、
─────銀色の精霊が、居なくなることが悲しくてしかたありません。
─────そんな大地の子供に精霊は、言います。






悟空は開け放っていた窓に頬杖をついて、止んで行く雨を眺めていた。






─────私はこの世界と一つになって、いつでもアナタの傍にいるから。


























三蔵は、回廊の途中で立ち止まった。

先程までの雨が止んで、日が差してきていた。

「…時雨か」

秋の訪れを緩やかに渡る風に感じて、三蔵は自分の帰りを待っている子供のことを思った。
これからの季節、大地の申し子にとっては過ごしやすくなる。
大気が澄み、自然の気が寒さの訪れと共に満ちあふれてくるからだ。
命の営みが盛んな春や夏よりも清浄な気が、子供を包み、癒すのだ。

その姿に三蔵は、不安になる。

還せと煩い大地や自然が、子供を連れて行ってしまうのではないかと。
そんなことはないと、わかってはいても、秋の訪れと共に三蔵の心に不安の芽が、芽吹くのだった。

物思いの季節の訪れ────────

ため息を一つ吐くと、三蔵は寝所へ向かった。














大扉の前で、いつものように笙玄が出迎えた。
傍に悟空の姿はないが、笙玄が三蔵を出迎える、そのことが悟空の無事を教えていた。
三蔵は持っていた荷物を笙玄に渡し、

「じじい達へは、明日報告すると言っておけ」

と言って、さっさと寝所に行ってしまった。
その後ろ姿を笙玄は、柔らかな笑顔を浮かべて見送った。



伝言をお聞きになった僧正様方をさて、どうやって言いくるめましょうか…



困ったという表情を浮かべながら、笙玄はその実、僧正達を言いくるめることを楽しんでいた。
三蔵の気まぐれな言動に振り回される僧正達、寺院の幹部達の姿は滑稽で、日頃の取り澄ました姿がウソだと実感できるからだ。
存外、笙玄は意地が悪いらしかった。
それを三蔵と悟空が知っているかどうかは、定かではなかったが。
行動の基本が、「三蔵と悟空を守るため」なのだから、良しとするしかないが、僧正達には傍迷惑な話、この上なかった。











三蔵は寝所の扉を開けたまま、そこに立ちつくしてしまった。

窓辺に座って無心に外を眺める悟空。
その視線の先には、また降り出した銀色の雨があった。

ほの暗い室内と静かな雨。

外を眺める悟空の以外に小さな姿。
華奢な身体が、このまま雨に溶けてしまいそうで。
動けば悟空が消えてしまいそうで。
三蔵は、吐息すら殺して、戸口に立ちつくしていた。






─────いつもアナタを見ているから、だから……






人の気配に悟空は振り返った。
そこに自分を見つめる三蔵の姿があった。

ほの暗い部屋が一瞬で、明るくなった。

そう三蔵が錯覚するほどの笑顔だった。

「おかえりーっ」

椅子から滑り降りると、迷わず三蔵の胸に飛び込む。
反射的に受けとめる重みに、三蔵は悟空が今、ここに居ることを実感する。

「さんぞ、おかえりっ!」

ぎゅっと、抱きつく細い背中に覆い被さるように腕を回して、三蔵は悟空にだけ聞こえるように返事を返した。
その返事に悟空の笑顔は輝きを増す。
三蔵の腕の中から見上げる悟空の黄金の円らに三蔵は、そっと口付けを落とした。

「…んっ……」

くすぐったそうに首を竦めるその顎を掬い上げ、しっとりと唇を重ねた。
ゆるゆると悟空の存在を確かめるような柔らかな口付け。
いつもと違う限りなく優しい口付けに、悟空はほんのりと頬を染めて、離れていく三蔵を見つめた。

「…さんぞ…?」

見返す紫暗の中に何を見たのか、悟空はもう一度ぎゅっと、三蔵の身体に抱きつくと、胸に顔を埋めた。
そして、

「大丈夫だよ。どこにも行かない。ずっと、ここにいるから…大好きな三蔵の傍に、ね。信じてよね、ね」

くぐもった声で言えば、ゆっくりと背中を撫でる三蔵の手のひらを感じて。

「        」

静かな雨音に紛れる程の声で、答えが返ってきた。
その答えに悟空は、また、三蔵に抱きつく腕に力を込めた。

抱き返されるぬくもりを離さないように。
消えてしまわないように。

銀色の降り注ぐ雨の日の小さな・・・・・・・。






─────だから、泣かないで。いつも笑っていてね。




end

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