花曇り |
三月の終わり、季節が冬に戻ったような気候のお陰で、今年は春の訪れがいつもの年よりも幾分遅れた。 そのお陰で三蔵が一番忙しい灌仏会を過ぎて、桜は満開の時期を迎えた。 お気に入りの丘の桜が、それは見事に開いたのを前の日に確認した悟空は、是非、三蔵と一緒に見たいと思ったのだ。 「三蔵、桜、見に行こうよ」 何度目になるか分からない誘いの言葉。 「忙しい」 見つめる書類から顔も上げず返る何度目か分からない静かな返事。 「なあ、きれいなんだって」 さらさらと、筆が紙を滑る音に混じる小さなため息と宥めるような何度目か分からない返事。 「今、一番きれいなんだから」 いつまでも諦めない悟空に少し苛ついて。 「なあ、三蔵」 眉間の皺が増えて、声が尖る。 「な、な、なっ?」 ばんっと、机を叩いて、遂に三蔵がキレた。 「だって…きれいな桜は…今だけなんだぞ」 握っていた法衣の袂を離し、恨めしげに微かに潤んでくる金瞳で見つめても、三蔵は怒りに染まった紫暗を向けてくるだけで、悟空の願いを聞き届けてくれるような隙はない。 「何だよ!三蔵のケチ、あんぽんたん!!」 がつんと、執務机を蹴って、悟空は三蔵の怒声が飛ぶ前に執務室を飛び出して行った。 「今のは悟空ですよね!?何かございました?」 両手いっぱいの書類を抱えて、執務室の扉の方を振り返りつつ、三蔵の元へ笙玄は近づいた。 「何でもねぇよ…」 今にも舌打ちしそうな声音で返事をすると、筆を机の上に投げ出し、背もたれに身体を預けて三蔵は煙草をくわえた。 「そう…ですか?でも…」 そう、いつものことだ。 悟空をかまってやれないことも、悟空の願いをきいてやれないことも今に始まったことではない。 いつものことだ。 どんなにかまってやりたくても、どんなに願いをきいてやりたくても、”公務”という名の付く雑用が邪魔をする。 この寺院で二人が暮らしてゆく限りそれは免れないことで、暮らしてゆくための義務であり、責任なのだ。 そんな三蔵の言葉と態度に、いま少し納得出来ない顔つきで頷きながら笙玄は、書類を机の上に積んだ。 「おい、その山は何だ?」 拒絶を含んだ疲れ切った吐息と共に、三蔵は笙玄の名前を呼んだ。 「何を仰っても無駄ですので、諦めて下さいね」 にっこり笑って説明する笙玄の笑顔に、三蔵は幻でない頭痛を感じた。 「その代わりって言ったら何ですが、そちらの書類は全て引き取りますので」 そう言って、言葉の継げない三蔵に念を押すようにもう一度笑いかけ、笙玄は今まで三蔵が格闘していた書類の山を全て抱えて執務室を出て行った。
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悟空は三蔵に見せたかった桜の木の下で、膝を抱えて踞っていた。 桜は盛りをほんの少し過ぎたのか、その花びらを時折、散らし始めていた。
「……の、バカ…」 ぽろりと零れた悪態。 「三蔵のバーカ」 もう一度、今度ははっきりと声に出して三蔵への悪態を呟けば、何となく気分が晴れた気がして、悟空はそのまま三蔵への悪態をはき続けた。 「三蔵のあんぽんたん、ハーゲ、意地悪、ケチ。それからわからんちんの仕事虫…えっと…」 少し考えて、 「エロ坊主、生臭坊主、オーボー坊主に節操なしの…んと…」 突然の声に、文字通り飛び上がって振り向けば、眉間に皺を寄せた三蔵が悟空を見下ろしていた。 「それから、何だ?」 怒りを含んだ声とは裏腹に、悟空を見下ろす紫暗の瞳は柔らかく頬笑んでいる。 「大好き!」 そう言って、三蔵に抱きついた。
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