夕 立




急に降りだした雨に、三蔵は小さく舌打つと、街道の側に立つ木の下へ駆け込んだ。
生い茂る深緑の葉と大きく張り出した枝のお陰で、木の下は幸いにも殆ど雨がかからないで済むようだった。

街道を挟んだ田畑の向こうの山並みが、雲に隠れて何も見えない。
泥を跳ね上げて降りしきる雨に、さっきまでのうだるような暑さが払われていく。
降りしきる雨を見つめながら三蔵は、幹にもたれて煙草をくわえた。

寺院に帰り着く予定が、幾分遅れるだろう。
寺院を出掛けて、一週間ぶりの帰着になる。
盆前の今、忙しくなる前にと、以前から依頼があったにもかかわらず先延ばしにしていた遠出の仕事を片付けに出掛けた。

真夏の早朝、養い子が眠っている間に出掛けてきた。
起きていれば連れて行けと、ひと騒ぎになっただろうが、眠っていれば大人しいもので、あどけない寝顔に行ってくると告げて、出掛けたのだ。
きっと、目が覚めた時、自分が養い子を置いて出掛けたことを知って、酷く怒って、むくれて、側仕えの僧を困らせただろう。
大きな金瞳を怒りに輝かせて、まろい頬をもっと丸くふくらませて。

しかし、側仕えの僧も慣れたもので、上手く子供を宥めてくれたはずだ。
納得いかなくても側仕えに伝えておいた理由は本当のことだから、きっと、あの聡い子供は頷いている。
納得している。
それでもむくれて、怒っているだろことは簡単に想像できた。
そして、二人が交わしたであろうやり取りも目の前に浮かぶようで、三蔵は口元を綻ばせた。





     *****





「…三蔵のバカ」

大きな金瞳が、潤んでいる。

「そんなこと言わないで、悟空」

椅子に座った悟空の前にしゃがんで、笙玄は今にも泣き出しそうな悟空の膝の上で握りしめられた手に自分の手を重ねた。

「…置いて行かないって約束したのに…」

ぎゅっと、唇を噛んで、笙玄の顔を睨む。

「お出かけになった先様は、とても色々煩い所ですので、仕方なかったのですよ」
「でも、でも、そうだったらそう言ってくれれば俺だってちゃんと留守番するのに」

笙玄の言葉に、悟空は目の前の笙玄の肩を掴んで訴える。

「そうですね。でも、早朝で、悟空はよく眠っていたので、起こすのは忍びないからこのまま出掛けると、そう仰って三蔵様はお出かけになったんですよ」
「……うん…でも…」

三蔵の気遣いが解っても、やはり納得できなくて。

「悟空、三蔵様はあなたが出先で辛い思いをして欲しくなかったのです。訪問先の寺院はそれは厳しい規律があって、例え供だと言った所で、三蔵様のお側にあなたは近寄らせてもらえないからと。まして、あなたが妖怪だと解れば、それは手酷い仕打ちが待っているだろうとも仰っていました。そんな目には絶対遭わせることは出来ないと…分かって下さいね、悟空。三蔵様もあなたを老いて行くのはお辛かったのだと」

笙玄の言葉に悟空はくしゃっと顔を歪めると、笙玄に抱きついた。
そして、小さく頷いたのだった。





     *****





雨脚は弱まる気配を見せない。
雨の滴が葉を伝い、思い出したように三蔵の肩に、髪に落ちてきた。
そして、雫が伝わる時の微かな音に、子供が以前、言っていたことを思い出す。



───雨の声は優しいんだ…



「雨の声は優しい…か」

子供の言葉を呟いて、三蔵はなるほどと、思った。

雨の降る時、思い出すのは血濡れた情景で、失った想いばかりが胸を苛んだ。
失くしてしまった。
守れなかった。
雨の音は、そんな自分を責める声に聞こえて、雨の滴は失くした人の恨みと哀しみの涙に思えて、何も出来なかった無力な自分が許せなかった。
雨が降るたび、世界は重くのし掛かり、潰されそうになった。

それが、あの太陽を宿した瞳の子供に出逢って変わった。
雨は、大地を潤し、傷を癒す。
雨は、優しいモノだと。
歌う声は優しく、微睡みへ誘う声だと、そう言って、子供が笑うから。
そう言って、自分を日だまりに導くから。
いつの間にか、心を苛む雨ではなくなっていたのかも知れない。
時折、疼く傷ではあっても、痛みを伴うほどでは無くなっているらしい。



お前は、不思議だな…



思い出すのは、はち切れんばかりの幸せな笑顔で。
三蔵の顔が、ゆっくりと綻ぶ。
足許に落とした視線を上げれば、雨はしのつく程度になって、切れた雲間から陽差しが差し込み始めていた。
陽の当たる場所が、雨に洗われて色鮮やかに光る。
三蔵は吸いかけの煙草を落として、踏み消すと、木の下から出た。

切れてゆく雲間から差す陽差しに、雨が銀糸になる。
この街道を抜ければ、寺院へと続く道に出る。
きっと、寺院に着く頃には、この夏の太陽も赤く色付き、稜線に沈みかけているだろう。
ぬかるんだ道を歩き出しながら三蔵は、夏の太陽より眩しく、温かな笑顔を思い出していた。



 

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