いわし雲
三蔵はまだまだ日中は暑い中、秋の彼岸会の準備のための山のような書類と雑多な打ち合わせに追われていた。
「笙玄、こんなどうでもいいやつまで持ってくるな」
笙玄から受け取った書類を見るなり、三蔵は突き返す。
それを受け取りながら笙玄は机の上の灰皿に山積みになった煙草の吸い殻を見て、ため息を零した。
朝から一体何本、いや何箱の煙草を消費したのか。
忙しい時の三蔵は、全身の針を逆立てたハリネズミのように殺気だって、必要以上にピリピリしている。
三蔵の空気抜きの役割を果たす養い子も、三蔵の苛立ちと八つ当たりを敬遠しているのか、仕事中は執務室に近寄っても来ない。
ちょっと悟空が顔を見せてくれると少し、苛々も収まるんですけどねえ……
決裁の済んだ書類を揃え、灰皿の中身を綺麗にして、三蔵の刺々しい様子にまたため息を吐きながら、笙玄は執務室を後にした。
*****
悟空はざわざわと忙しい喧騒の中、僧庵の屋根の上で流れる雲を見つめていた。
空の青さが透明になってゆくのを見つめながら、ずいぶんと三蔵の顔を見ていないことを思う。
本当は見ているのだけれど、ちゃんとお互いの顔を見て、ちゃんと目を見ていない。
話もしていない。
いつも悟空が起きる前に仕事に出掛けて、悟空が眠った後に帰ってくるから。
夕食の時間が取れないのなら、昼食ぐらい一緒に食べられるようにと、笙玄が時間のやりくりをつけてくれても、結局、会議だ、来客だと、三蔵は席を立ってしまい、そんな時間も無くなってしまうのだ。
振り返る裏山は深い緑に覆われて秋の気配などまだまだほんの微かだけれど、確かに季節は秋へと移っていた。
「ちょっとくらい一緒にっていうか、休めばいいのに…」
まろい頬をふくらませて、悟空は呟いた。
「忙しいとさ、機嫌悪いし、八つ当たりされるし…つまんねぇよなぁ」
周囲に集まってきた小鳥たちにぶつぶつと呟きながら悟空は、屋根の上に寝ころんだ。
小鳥たちは寝ころんだ悟空の腹の上、頭や周囲を飛び回り、遊ぼうと悟空を誘う。
それに悟空はくすぐったそうに小さく笑った。
と、三蔵が悟空を呼ぶ声を聞いた。
ぴょんと飛び起きた悟空に驚いて小鳥たちが一斉に飛び立った。
小さくゴメンと、悟空は謝ると、自分を呼んでいる三蔵の元へ走り出した。
*****
笙玄は昼食の後片付けの後、彼の仕事部屋に山のような書類を持ってきた事務方の僧侶を見て、大きなため息を吐いた。
「凄いですねえ…」
「すみませんねえ…今日の分はこれで終わりですので」
「でも、これ、今日中には終わりませんよ?」
「はぁ…そう言われましても、今日中にと申し使っておりますので」
笙玄がにっこり笑えば、事務方の僧侶は伺うような視線を笙玄に向けてくる。
「そうですか…でもねえ…三蔵様は相当お疲れなんです。だからこれ、明日に廻して頂いてもよろしいでしょう?」
「私の…一存では…」
「では、この書類の山は、あなたが三蔵様の元へお届け下さい」
「へっ?!」
「あんなにお疲れの三蔵様へこの書類の山をお届けして、今日中に決裁下さいと、あなたが三蔵様に申し上げて下さいと、お願いしているんです」
柔らかな笙玄の笑顔の後ろに、黒い影を見てしまった僧侶の顔から血の気が引いた。
多忙な時の三蔵の機嫌がすこぶる悪いことは、事務方の僧侶の間では周知の事実で。
そんな三蔵の元へ、火に油を注ぐような真似をする勇気は持ち合わせてはいない。
「わ、分かりました。そ、そのようにお計らい下さい。勒按様には私からお伝え申し上げておきます」
「ありがとうございます」
わたわたと頭を下げると、僧侶は笙玄の仕事部屋を逃げるように出て行った。
さて、今日の分は、今、三蔵様のお手元にある分だけですので、早く終えて頂けるでしょう。
笙玄は一人頷いて、決裁された書類を受け取りに席を立った。
*****
笙玄が執務室を出て行ったすぐ後、三蔵はくわえていた煙草を揉み消すと、立ち上がった。
「…うるせぇ……」
小さく呟く三蔵の口元が微かに綻んだ。
いつも仄かに三蔵の頭の隅で微睡んでいる悟空の聲が、仕事が忙しくなった頃から、聴こえなくなっていたのだ。
仕事の量の多さにも苛ついてはいたが、常にあるものが無いことが三蔵を何より苛立たせていたのだ。
それが、ようやく我慢がきかなくなったのか、煩いほどに三蔵を呼ぶようになった。
「我慢なんからしくねぇんだよ…サル」
三蔵は笙玄が息抜きにと差し入れてきた菓子を奉書紙ごと掴んで懐にいれると、執務室を出て行った。
*****
吹く風がいつの間にか乾き始めていた。
そらも高くなり、青い色が透明になってゆく。
山々の色もほんのりと色付いているような気さえしてくるのが不思議だ。
「さんぞ───っ!!」
丘の上、そびえる広葉樹の小さな林の入り口で、悟空が手を振っている。
三蔵は上り坂の途中に立ち止まって、呆れたため息を零した。
……ったく、元気な奴…
小さく口角を上げて、三蔵は後ろを振り返った。
夏の色を濃く残す緑の森の向こう、悟空と身を寄せる寺院の甍が見えた。
笙玄に黙って抜け出してきたことを思い、彼が無人の執務室を見て、あの優しい顔を困った色に染めていることを描く。
また…当分、休みはねぇな…
三蔵はもう一度、今度は大きく息を吐くと、林の入り口で待つ悟空に向かって歩き出した。
「三蔵、早く、早くってばぁ」
満面に笑みを浮かべて手を振る悟空の後ろに、秋の兆しのいわし雲が見えた。