初 雪
ふと、夜中に目が覚めた。
昨夜から冷え込んだ大気は、凍てついて張りつめている。
ふわり、ふわりと白い花が舞い降りてくる気配を感じて、悟空は薄く曇った窓を見やった。
「…雪?!」
ふるりと、身体を一度震わせて、悟空は寝台から抜け出した。
音も立てずに窓に近づくと、曇ったガラスを手で拭った。
額を付けて外を見ても暗い夜の帷が見えるばかりなのに悟空は小さく息を吐くと、寝室から出て行った。
微かな扉の閉まる音に、深く寝入っていたはずの三蔵の肩が揺れた。
ゆっくりと瞼が開き、紫暗の宝石が生まれる。
身体を起こした三蔵は、傍らの寝台に悟空の姿がないことに顔を顰めた。
「悟空…?!」
思わず口をついて出た名前に、三蔵ははっとした表情を浮かべ、慌てて寝台を出たのだった。
悟空は居間を通り抜け、素足に薄い夜着のまま、何かに呼ばれているような、行く先に誰かが待っているような様子で回廊を音もなく駆けてゆく。
悟空の呼気が白い霧となって、夜闇に解ける。
きんと、冷えた大気。
深夜の澄み渡る大気に大地の吐息は融けて悟空を包み込む。
悟空はそのまま回廊を抜け、寺院の裏山にその姿を消した。
*****
三蔵は裸足のまま居間を覗き、トイレを覗いたが、悟空の姿はなかった。
冷え切った床の冷たさが素足の熱を奪い、足許から冷気が這い昇ってくる。
と、きいっと、微かな風で揺らいだ扉の立てた音に振り向いた三蔵の瞳が一瞬、見開かれた。
開いたままの寝所の出入り口。
悟空の気配を探っても、近くにその気配はなく、三蔵は舌打った。
もうすぐ冬の色に染まるこの時期は、大地の気が最も深くなる。
悟空が魅入られ易い晩秋。
大地の御子を取り戻そうと、その手を伸ばす。
大地に対して、自然に対して無防備な悟空の心に紗をかけて悟空の心を絡め取り、想いを遂げようとするのだ。
「呼ばれやがって…」
三蔵は踵を返すと、寝室へ着替えに戻った。
そして、銃を懐に入れ、悟空を追いかけて外へ、大地の生む大気が肌を刺すように冷たく研ぎ澄まされ、誰の侵入も拒む初冬の夜へ駆けだして行った。
*****
悟空は裏山の奥深く、山の主たるブナの巨木の下に佇んでいた。
天に届けとばかりに張り出した梢の隙間からはらり、はらりと白い花片が時折舞い落ちてくる。
悟空はまた、ふるりと身体を震わせた後、そっとブナの幹に手を触れた。
冷えた掌に伝わる仄かな温もりに、僅かに悟空の口元が綻ぶ。
「…温かいね」
そして、そっと両腕で抱き込むようにして悟空はブナの幹にその全身で触れた。
幹に触れた箇所が仄かに温もってゆく。
「聲…聴こえるよ。うん…もうすぐ眠るんだ…」
頷いて見上げた梢はうっそりとして、夜闇に融けている。
その僅かな隙間から白い花びらが悟空の頬に舞い落ちた。
「…雪…うん、今年最初の雪なんだ…」
幹に耳を当てて、悟空はブナの聲を聴く。
その眠りに落ちる寸前の細い聲に、悟空は小さく頷き、笑った。
「大丈夫だって…え、また、それを言うの?」
ざわりと、梢が揺れる。
「還れない、還らないって……気持ちは変わらないよ」
仄かに笑うその笑顔は、普段悟空が見せるどの笑顔より儚く、どこまでも透明に夜闇に透ける。
「心配してくれてるって解ってるから……うん、うん、ありがと…」
年降り、ささくれた幹に口付けて、悟空は身体を離した。
そして、その根元へ膝を抱えて座った。
「俺を呼んだのは、それを言いたかったから?」
ふるふると葉ずれの音が柔らかな音を立て、枝が小さく鳴った。
「えっ…ん、眠るまでいるから、安心して。春になったらまた、会いに来るよ…うん…きっと……」
「おやすみ…」
背中を預け、悟空も目を閉じた。
寒さはもう感じない。
そして、ブナの木と共に悟空も眠りに落ちていった。
*****
三蔵は立ち止まっては、張りつめた大気の中に悟空の気配を探した。
いつもなら聴こえる聲が、今夜は聴こえない。
いや、聲は確かに三蔵の中に在る。
だが、その聲の持ち主の居場所を指し示すモノにはならない。
穏やかに微睡むだけで、三蔵を呼ばないからだ。
「取り込まれたのか?」
その呼ばない聲に三蔵は焦燥を抱く。
気配を辿りながらの道はなかなか先へと進まないのだ。
はらり、はらりと思い出したように舞い落ちていた雪の欠片の数がいつの間にか増え、音もなく降り積もり始めている。
温度の下がった大気に、三蔵の吐く息が白い霧となって融ける。
悟空…
呟くように名前を呼んで、三蔵は大気に溶け込んだ悟空の気配を辿る道を急いだ。
*****
温かな温もりとふわふわとした心地よさに、悟空の意識がまどろみの中から浮上した。
「…あ、れ…?!」
もそもそと起きた視線の先に、椅子に座ったまま眠る三蔵の姿があった。
金糸が明るい陽の光に輝いて、少し俯いた顔に影を落としている。
伏せた睫毛が頬に青い影を落としているのを見つけて、悟空の口元が綻んでゆく。
いつ見ても綺麗だよなあ…
自分が何故、寝室の寝台に眠っていたのか、全く考えもせず、悟空は寝台の傍らの椅子で眠っている三蔵の姿に暫く見惚れていた。
どれ程そうしていたのか、不意に寒さを感じて悟空は身体を震わせた。
次いで、くしゃんと、くしゃみが出る。
その声で、三蔵の瞳が開いた。
「……あ…」
気まずそうに三蔵を見つめる悟空の金晴眼と、はっとした三蔵の少し見張った紫暗の瞳が合う。
その途端、電光石火の速さでハリセンが振り下ろされた。
朝の澄んだ空気に乾いた小気味の良い音が響く。
同時に上がった怒声に朝の静寂は見事に破られたのだった。
悟空の気配を辿り、ようよう辿り着いたブナの巨木の根元。
そこで、降りだした雪をその華奢な身体に極薄くベールのように纏った姿で悟空は安心しきった顔を晒していた。
その姿に一瞬、三蔵は心臓が冷えた。
だが、緩く上下する胸の動きに生きていることを確認して、安堵で膝が砕けそうになった。
それと同時に湧き起こってくる怒り。
人を夜中に起こし、あまつさえこんな山の奥まで探しに来させたくせに、悟空は安らかな寝息をたてて眠り込んでいたのだ。
これが怒らずにいられようか。
三蔵は叩き起こしてやるとばかりに、悟空の傍へ近づこうとして見えない壁に弾かれた。
そこでようやく気付く。
いや、確信する。
悟空は呼ばれたのだ。
あれほど大地の呼ぶ聲に応えるなと、言い含めておいたにもかかわらず悟空は聲に応えたのだ。
夜中、無防備な心に滑り込んだ聲に悟空は無意識に応え、魅入られてここまで来たのだろう。
この目の前に存在する結界が何よりの証拠だ。
三蔵は舌打つと、結界に掌を向け、真言を唱え始めた。
渡さねえって、言ってるだろうが。いい加減、諦めやがれ
ふわりと三蔵の髪がその法力に舞い上がり、三蔵の周囲に仄かな白光が沸き立つ。
その白光は、三蔵の差し出され、結界に向けられた掌に集まり、収縮を始める。
そして、結界に向かって放たれるエネルギーに結界は簡単に弾け、三蔵は悟空をその腕に取り戻したのだった。
だが、頬を叩こうが、名前を何度呼ぼうが悟空は眠ったまま目を覚まさず、丸一日眠り続けた。
ようやく目覚めた悟空が寝台に半身を起こし、自分の顔を見つめている姿を見た時の安堵と気恥ずかしさ、そして何よりの怒りに、三蔵はハリセンを振るったのだった。
「てめぇ、あれほど応えるなって言っておいただろうが!」
「だ、だってぇ…」
「うるせぇ!!」
もう一度力一杯ハリセンで殴られ、その痛みに涙の滲んだ瞳で三蔵を見返せば、見下ろす紫暗は怒りよりも安堵に染まっていた。
その色に悟空はどれ程三蔵に心配をかけたか気付く。
痛む頭から手を離して、悟空はうなだれた。
「…ご、めん…」
呟いた声ごと、悟空は三蔵の腕の中にいた。
「さ、んぞ?」
呼んだ声に答える変わりに、抱き締められた腕に力がこもる。
「…ごめん…ごめん、さんぞ」
くぐもった悟空の謝罪に、三蔵はもう一度その腕に力を込めることで答えた。
「…還らないから…ずっと、傍にいるから…ちゃんといるから…ごめん、本当にごめんな」
悟空への三蔵の応えは、ずいぶんと経ってから、吐息にのせて返ったのだった。