氷 柱
さくさくと踏むたびに凍った雪が音を立てて崩れる。
冬の冷えた空気がそれに触れる頬に痛みを感じるほどぴんと張りつめていた。
寒行に入った寺院は静まりかえり、物音一つ聞こえては来ない。
三蔵もこの時ばかりは本廟に籠もり、笙玄も悟空の世話の時間以外は三蔵の傍らに座して、同じように籠もっている。
年に一度のこの時期は、悟空もただ黙って、ひっそりと静まりかえった寺院の中、寝所で大人しく同じように籠もっているのだった。
年が明けてから雪が降る日が多く、昨日の朝から降り続いた雪で外は一面の銀世界に彩られていた。
その日も暖かい部屋で寒行の始まる前に三蔵が買ってくれたスケッチブックに絵を描いて遊んでいた。
そんな悟空を呼ぶ聲が、窓ガラスを叩いた。
「…ぁ?!」
呼ぶ聲に顔を上げた悟空は窓を叩く風に気付き、その顔を綻ばせた。
世界を包む真っ白な雪は悟空の気持ちを俯かせてしまうが、三蔵と出逢ってから世界が白一色にはならないことを知った。
寒椿の赤、常緑樹の緑、空の青、太陽の金色、雪間に咲く名もない草の儚げな花の色、枯れ葉の茶色、甍の黒。 仄かな温もり、風の氷と柔らかさ、凍てつく星の微かな輝き、透明な空気、冷気。
そして、何より一人ではないこと。
振り返れば必ずそこに三蔵が居た。
だから、朧な暗闇に心が染まっても、ふさぎ込んでも、恐くても、顔を上げていることぐらいは出来るようになった。
盲目的に怯えることはないのだと、教えてもらったのだ。
悟空は窓を開け、風を招き入れた。
風は悟空の周りを纏い付くように吹き過ぎると、外へ悟空を誘った。
「…何?見せたいもの?」
風の誘いに悟空は小首を傾げた。
動かない悟空を急かすように風がまた、冷気を含んで悟空の身体に纏い付く。
「今から?」
風が悟空の背中を押す。
「でも…俺、雪、苦手だし…」
躊躇する悟空の手を引っ張り、大丈夫だからとまた、背中を風が押す。
「もう…分かったって」
根負けしたように悟空は頷いた。
それに風は嬉しそうに悟空の身体に纏い付き、悟空の身体をくすぐる。
「くすぐったいって」
悟空はくすくすと笑いながら上着を取ると、風の手に引っ張られるようにして外へ出たのだった。
冬枯れた木々の枝と冬でも青々と葉を茂らせる木々の間を抜け、悟空は雪に覆われた寺院の裏山の奥深くへ来ていた。
「何?何があるのさ」
何度、風に問うても、風は笑うばかりで応えてはくれない。
「…もう、ケチ」
悟空は軽く唇を尖らせて膨れてみせる。
が、風はそんな悟空を気にもかけず、先へ急げと悟空を急かす。
急かす風に引っ張られ、押されることへ悟空は諦めた苦笑を零し、歩く速度を上げた。
森を抜け、林を通って辿り着いた先は碧い淵だった。
周囲を高い岩壁と鬱蒼とした常緑樹の暗い森に囲まれ、淵は鏡面のように静まりかえっていた。
冬の凍てついた空気がちりちりと悟空のまろい頬を刺す。
それほどの静謐。
それほどの霊気。
「…ぇ……?」
風が悟空に淵へと下りることを促した。
悟空はしばらくその碧い淵を見つめて動こうとはしなかったが、ざわりと動いた周囲の木々と風が背中を押すのに負けて、淵へと下りるか細い道へ足を踏み出したのだった。
*****
淵の間近に立てば、身体を刺すほどの静寂が悟空を迎えた。
先程まで煩いほどに先へと急かしていた風もぴたりと止んで、動くモノのない世界が広がっていた。
水は碧く、底知れぬ深さを見せる。
水の中に動くモノの姿はなく、悟空はさざ波一つ立たな碧い水面を魅入られたように見つめていた。
どれほどそうしていただろう、悟空の周囲を覆う木々が梢を揺らした。
「…ぇ」
悟空ははっと、顔を上げ、周囲を見渡した。
「ぁ…うん…この先?…そう、わかった」
木々が梢を僅かに揺らして悟空を淵に沿って続く道の先へ行くように促す。
それに悟空は頷いて、茂った葉のお陰で雪のない道を歩き出した。
道は細い獣道で、枯れた葉や下草に覆われていた。
悟空はそんな道でも気にすることなく、碧い淵の水面を右手に見ながら、先へと進んでゆく。
「ここ…?」
ぐるりと淵の外縁を三分の二ほど歩いた先で、悟空は歩みを止めた。
目の前には切り取られたような岩肌に出来た斜めに走る大きな裂け目が暗い口を開けていた。
「この中…に?」
岩肌にしがみつくように生えた木が梢を揺らして先へと促す。
悟空は決心を固めるように深呼吸すると、暗い裂け目へと入って行った。
裂け目の中は以外に明るく、外の刺すような冷気も幾分和らいだ感じがした。
悟空は朧な明るさを頼りに、不安定な足許を気にかけつつ奥へ、奥へと進んだ。
「…うわっ!」
両肩が岩肌に擦れるような細い場所を抜けた途端、差した眩しい光りに悟空は一瞬、目が眩んだ。
「な、何…?!」
手を翳して周囲を見回せば、そこは透明な氷に埋め尽くされていた。
しばらくして目が慣れた悟空が改めて見回したそこは、鍾乳洞と見紛うような場所だった。
そして、眩しいと思ったのは、天井に出来た岩の裂け目から差す冬の太陽の光が、氷に反射した所為だった。
「…すっげぇ…」
悟空は氷の中へそっと足を踏み入れた。
靴底に付いた砂が氷と擦れて微かに軋んだ音を上げる。
それ以外は無音で、悟空の息づかいしか聞こえない。
「透明…だ」
手近な氷に触れて、向こうを透かせば、ガラスのようにはっきりと向こうが見えた。
見上げれば巨大な氷柱が下がり、或いは地面と繋がり、以前三蔵が教えてくれた鍾乳洞を連想させた。
「これを見せたかったんだ…」
悟空の呟きに微かな風の聲が嬉しそうに頷くのが聴こえた。
悟空は小さく笑って、氷柱の間を奥へ向かって歩いた。
小さな椅子のような形になった石筍のような氷の固まり、巨大な氷柱、円形の柱のような氷。
凍てつく空気を吸うたびに胸が痛むような温度にも構わず、悟空は氷の鍾乳洞の中を長い間歩き回った。
*****
「面白かったぁ…」
真っ赤に鼻の頭と頬を染めて悟空が裂け目から出てきたのは、日暮れ間近だった。
裂け目から出てきた悟空を淵の周囲の木々が出迎え、寒かっただろうと労う。
それに、悟空は頭を振って、大丈夫だと答えた。
「ありがと。今度、三蔵を連れて来てもいい?」
問えば、ざわざわと木々がざわめいた。
「ダメ?」
不安そうに悟空が言えば、木々は慌てたように連れてきて良いと頷いた。
その途端、悟空は花が綻ぶような笑顔を見せ、大きく頷いた。
「ありがとう!」
悟空の笑顔と嬉しそうな声に木々は梢を揺らして笑った。
来た道を辿り、悟空は風と連れだって帰って行った。
そして、裏山の入り口で寒行の終わった三蔵が、駆け戻ってくる悟空を出迎えた。