降り積もる雪のようだとその花を見たとき思った。
そして、その白さに誰にも犯されない白く綺麗なあの人を想った。

もうすぐあの人と出逢った日が来る。



春の雪
今年は春の訪れが遅い。
いつもなら既に咲き終わっているはずの梅がようやく満開の時期を終え、今、沈丁花やコブシ、木蓮が盛りと華開いている。
そんな傍らで、椿の花がひっそりと咲き、レンギョウが黄色い花弁を揺らしていた。

まだ、冬の衣を色濃く纏う冷たい空気の中、悟空はようやく堅かった蕾が綻び、薄く色付いた桜の木を見上げていた。

「もうすぐ、だよな」

一杯に膨らんだ桜の蕾に笑いかけ、悟空は枝の隙間から見える蒼天に視線を移した。




悟空が三蔵と暮らし始めて何年経っただろう。
初めて三蔵と出会った時は訳が分からなかったけれど、あの宿屋の窓から見えた桜の薄桃色は忘れられない。

誕生日が欲しいと強請ったあの日、三蔵は悟空に誕生日をくれた。
何故その日なのか、何度訊いても教えてはくれず、結局理由は知らないまま、その日が悟空の誕生日になった。
いつも桜が咲く、春の真ん中の日だ。

それからたくさん、哀しいことも辛いことも、嬉しいことも楽しいことも、本当にたくさん三蔵の傍で経験した。
八戒や悟浄と出会い、世界はもっと広がり、西への旅で世界に果てはなくなった。

旅を終えて長安に戻ってからも、三蔵との生活に目に見える変化は訪れなかった。
ただ、異変を止めた偉功が三蔵を旅立った頃より多忙にさせていたが、悟空の身辺にさしたる変化はなかった。



そう、あの日までは───



自分の体調に無頓着で、無理無茶をしてきた三蔵の身体は、いつの間にか深く病に冒されていた。
最初、風邪か疲労による体調不良だと思っていた身体の怠さはいっかな治らず、微熱も続いて体調は悪化の一途を辿った。
それでも仕事をこなしていた三蔵は遂に倒れ、病院に担ぎ込まれた。

その病院で三蔵の身体を診察した医者に、手遅れになる寸前だと三蔵は酷く怒られ、その場で入院と相成った。
最初の治療に半年、病院の白い部屋とベットに括り付けられた甲斐あって、何とか寺院に戻るまでに回復はした。
けれど、もう無理の利かない身体になっていた。

三蔵が冒された病は治る見込みのあまり無い病気であった。
その事実を知ったとき、悟空は酷く怯えた。
すぐにでも三蔵が死んでしまうように思えたからだ。
しかし、当の本人である三蔵は自分の病状を知っても何も動じることもなく、ただ、「そうか…」と答えただけで、病に倒れる前と何ら変化のない姿でそこにいた。

寺院に戻ってから暫くして、三蔵は小さな僧庵に悟空とともに移り住んだ。
その庭には”白雪”という名前の桜の古木を中心に、様々な花木や草花が季節事に花を咲かせ、その期間が途切れないように植えられていた。
三蔵と悟空が移り住んだ季節は初夏で、卯木の花や紫陽花などが咲いていた。




秋には桜の紅葉を背景に秋に咲く草花が彩りを添え、冬には寒椿やサザンカの花が雪の白さに色を写した。

そして、迎える春。
蝋梅が春を告げ、梅が春を招く。
けれど、今年は本当にいつまでも寒さが続き、暦と季節がすれ違っているように思えた。

「三蔵、元気?」

寝台に半身を起こし、新聞を読んでいた三蔵を伺うように、寝室の戸口から悟空は顔を覗かせた。
そんな悟空の様子に三蔵は新聞から顔を上げ、幼さの多分に残る容に気怠げな返事を返し、三蔵はひらりと手を招く。
その招きに悟空は嬉しそうに笑うと軽い足取りでベットに身体を起こした三蔵の傍らに走り寄り、幼子のようにぱふんと、その膝に抱きつくように顔を埋めた。

「悟空…?」

名前を呼べば、悟空は顔を上げて、また笑った。
そして、上目遣いに自分を見下ろす三蔵を見上げて、体調を訊いてきた。

「今日は気分いい?」
「まあ、な」
「そっか、よかった」

三蔵の答えに悟空はふわりと笑って、身体を起こし、三蔵の寝台の足許に座った。

昨日までの温かさが嘘のように今日は冷え込んで、その冷え込みに三蔵は体調を崩し、寝台に伏せっていた。
季節の定まらない不安定な気候は三蔵の身体にはあまり良いとは言えず、三蔵は寝台にいることが多かった。
けれど、暖かくなり、気候が安定すれば三蔵の体調も安定してくるので、悟空は春本番が待ち遠しかった。
だから、庭の春の盛りを告げる桜の開花が待ち遠しいのだった。

「なあ、なあ、庭の桜…白雪っていうのが咲いて、満開になったら花見しような」
「ああ?面倒くせえ」
「いいじゃん、約束な。庭で弁当広げて、八戒達も呼んでさ。な、なっ?」

三蔵の膝に両手をつき、顔を覗き込むようにして悟空は三蔵に強請った。
そのあまりな熱心さに、三蔵は呆れたため息を吐き、

「ああ…もう、わかった。わかったから喚くな」

そう言いながらも頷いたのだった。






約束を交わした日から悟空は毎日、白雪の花がいつ咲くか、いつ満開になるかと、木の下に行っては蕾の様子を覗くようになった。
そして、そんな悟空を後押しするように、春は温かな陽差しと花達を連れてようやく訪れたのだった。






その聲は本当に嬉しそうに悟空を、大地の御子を呼んでいた。
その聲に早朝、起こされた悟空は明けたばかりの朝の帷を引くように庭に面した窓を開けた。
開け広げた窓の向こう、そこは一面の白い世界が広がっていた。

「……うそ」

寝ぼけた頭が一瞬で晴れ渡るが、その白が桜の花だと気付くまで暫く時間がかかった。
が、その白があの”白雪”の花だと理解した悟空の顔は見てる間に綻び、それは嬉しそうな笑顔を浮かべた。

ひやりとした空気の流れに三蔵は目覚め、隣で寝ているはずの悟空の姿が見えないことに気付いて、身体を起こした。
寝室の戸口を見れば扉は開け放たれて、悟空が出て行ったことが窺い知れる。
三蔵は小さく息を吐くと、寝台から置きだし、早朝から元気いっぱいに何かを始めたらしい悟空の姿を捜して寝室を後にした。

一通り僧庵の中を巡った三蔵は、庭に面した部屋の扉が開いて、白いものが舞い込んでいることに気が付いた。
その白さに、三蔵は、雪か?と小首を傾げつつ、部屋の中に入った。
そして、そのままその場に息を呑んで立ち尽くした。

視界を覆う真っ白な花。
その下に立つ悟空の姿は、儚げな一幅の絵のようで。
その姿は大地の祝福を受ける神聖なもののようで。

三蔵は声もなく、悟空と真っ白な花の景色を見つめていた。

と、気配を感じたのか悟空が三蔵の方を向いた。
途端、それは見慣れた子供と花の景色になり、先程までの儚さが嘘のように、生命に溢れた姿になった。
その姿に三蔵の口元に苦笑が生まれる。
三蔵の姿を認めるなり、悟空は三蔵を大声で呼んだ。

「さんぞ──っ!」

大きく手を振った悟空はまるで主人を見つけた子犬のように三蔵の傍に駆けてくると、三蔵の手を取った。

「咲いた。満開だよ、三蔵。ほら、こっち来て」
「……ぁあ」

三蔵は悟空に手を引かれるまま庭に下り、白い花を咲かせる木の下に立った。

「…白雪って名前、この花に付けられたんだな。な、桜なのに真っ白だ」
「ああ…」

悟空の言葉に頷きながら、三蔵はたわわに咲いた花の枝を見上げた。
雪のように白い桜の花。
時折、舞い落ちる花びらが、冬、空から降る花弁にも似て、三蔵はただその汚れのない白さに魅入った。

何も言わず木を見上げる三蔵の横顔を悟空は見やった。

病の所為で以前より痩せ、その存在の透明度を増したように見える。
何ものにも犯されない、汚されない、至高の存在。
あの日、あの春の日、岩牢で出逢って、世界をくれた悟空の太陽。
どんなことがあっても、何があっても傍に、傍らに居ると誓った約束は、今も違えられることなく共に在る。

「なあ…三蔵」

悟空の声に三蔵は夢から覚めたように何度かまばたき、悟空へ顔を向けた。

「あのさ、来年も再来年も…その次ぎも、さ、こうして二人でこの桜見てさ、そんで八戒や悟浄達とここで花見しような」

見返してくる金瞳は初めて出逢った頃から変わらずに真っ直ぐで、強く、真摯だ。
その視線と言葉に三蔵は紫暗を柔らかく綻ばせて、

「…そう、だな」

そう言って仄かに笑った。




遠からず別れはやってくることだろう。
けれどこの日、今この時、共に在るならば何を恐れるものか。
何を悲しむものか。

舞い落ちる白い花弁が、あの雪のように全てを覆い尽くそうとも─────

出逢った奇跡は揺るがない。






end

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