何処までも広がる海。 「広いねぇ…」 砂浜に立って体中に海からの風を浴びる姿に、三蔵はその紫暗を細めて見入っていた。 夏の初めの海は、限りなく蒼く、映る空は果てしなく青かった。
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滄 海 |
海の絵本をベットの上に広げて、悟空は舌足らずな言葉で三蔵に話して聞かせる。 「さんぞ、これが海」 得意になって三蔵に告げるその黄金の瞳は、きらきらと好奇心に輝いていた。
三蔵の幼なじみの悟空は、生まれつき心臓に病気を抱えている。 走ることは無論、歩くことすらろくに出来ない。 日に焼けない身体は透き通るように白く、大地色の髪も陽の光が似合うであろう黄金の瞳も外の世界に触れることもない。 実際に触れて、感じて、呼吸して、そんな体験が出来ればどれほど素晴らしいことか。 悟空が話す海の話に、三蔵は求めても叶えられない望みをつい抱いてしまうのだった。
「ねえ、さんぞはホントの海、見たことある?触ったことある?」 悟空の質問に三蔵は、その瞳をびっくりしたように見開いた。 「ねえ…ないの?」 三蔵の返事に悟空はそれは嬉しそうに笑った。 「じゃあ、じゃあさ、ホントにこんな色してた?」 矢継ぎ早の悟空の質問に三蔵は答えながら、悟空の顔がだんだん曇ってくることに気が付いた。 「どうした?」 俯いてしまった悟空の頭に手を置けば、小さく肩を揺らして、 「………たい…」 と、答えた。 「元気になったら連れてってやる」 禁句を登らせていた。 「…つ?」 上げた顔に伝わる透明な真珠に、三蔵は自分が何を言ったのかようやく自覚する。 「悟空…」 三蔵のシャツに縋りついて、悟空がいつにない激しさで三蔵に詰め寄る。 「教えてよ、三蔵、さ、んぞ…」 訴える唇が見ている間に紫に変わり、顔色が紙のように白くなる。 「…大、丈夫…すぐ治るから…だ…じょ…」 痛みに歪む顔を無理にほころばせて、悟空は三蔵に笑いかけた。
「何、してんの?」 ひょいっと、三蔵の前に顔を差し出して、悟空は不思議そうな表情を見せた。 「いや…」 小さく笑って答えれば、悟空は、 「変なの…」 と言って、肩を竦める。 「なあ、裸足になって海に足浸けてもいい?」 いたずらを思いついた子供のような表情で、三蔵に尋ねる悟空へ許可を出す。 そうだ、自分は悟空の病気を治すためだけに医者になった。
───俺ね、広い空の下をね、思いっきり走るのが夢なんだ
海が見たいと、三蔵ばかりが見るのは狡いと泣いたあの日。 その少し後で、悟空と交わした約束。 死の背中をいつも見て、死の吐息をいつも感じて、それでも笑うから。 何もかも振り捨てて、何もかもを掛けてひたすらに、医者を目指した。
───三蔵が好き…大好き……
留学が決まったその日、悟空が告げてきたその言葉。 子供だと思っていた。 旅立つ前の日、その痩躯を抱いた。 薄いガラスで出来たこの世の宝石。
願う奇跡は、その身に。
打ち寄せる波と戯れる姿に、三蔵は愛しさを募らせる。 まだ、普通に暮らすには越えなければならないハードルがたくさんある。
あと少し────
もうすぐ約束は果たされる。
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