何処までも広がる海。
初めて見る海原は、悟空の心を捉えて離さない。

「広いねぇ…」

砂浜に立って体中に海からの風を浴びる姿に、三蔵はその紫暗を細めて見入っていた。

夏の初めの海は、限りなく蒼く、映る空は果てしなく青かった。



滄  海
海の絵本をベットの上に広げて、悟空は舌足らずな言葉で三蔵に話して聞かせる。

「さんぞ、これが海」
「で?」
「えっと…サカナがたくさん泳いでて、とっても深くて広くて、そんで塩辛いんだって」

得意になって三蔵に告げるその黄金の瞳は、きらきらと好奇心に輝いていた。




三蔵の幼なじみの悟空は、生まれつき心臓に病気を抱えている。
治療手段の極端に少ない病気は、悟空の命を削っていく。
いつ死んでも可笑しくないほどに、疲弊している悟空の心臓。

走ることは無論、歩くことすらろくに出来ない。

日に焼けない身体は透き通るように白く、大地色の髪も陽の光が似合うであろう黄金の瞳も外の世界に触れることもない。
白い病院のベットと家の中しか知らない子供。
その白い心に刻まれる知識は、両親や兄弟が買い与える絵本や本、テレビから与えられるモノばかり。
それ以外では、三蔵の語る日常と家族が語る季節の移ろいと共に、四角く切り取られた窓からの景色だけ。

実際に触れて、感じて、呼吸して、そんな体験が出来ればどれほど素晴らしいことか。
どれほどこの子供が喜ぶか。

悟空が話す海の話に、三蔵は求めても叶えられない望みをつい抱いてしまうのだった。




「ねえ、さんぞはホントの海、見たことある?触ったことある?」

悟空の質問に三蔵は、その瞳をびっくりしたように見開いた。
その三蔵の表情に、悟空も驚いたように瞳を見開く。

「ねえ…ないの?」
「…いや、ある」

三蔵の返事に悟空はそれは嬉しそうに笑った。

「じゃあ、じゃあさ、ホントにこんな色してた?」
「綺麗な蒼い色だった」
「塩辛かった?」
「ああ」
「深かった?」
「沖へ行けばな」
「サカナいっぱい居た?」
「居たな」

矢継ぎ早の悟空の質問に三蔵は答えながら、悟空の顔がだんだん曇ってくることに気が付いた。

「どうした?」

俯いてしまった悟空の頭に手を置けば、小さく肩を揺らして、

「………たい…」

と、答えた。
はっきりと聞こえない声に、三蔵は悟空の気持ちを思う。
そして、

「元気になったら連れてってやる」

禁句を登らせていた。

「…つ?」
「あっ?」
「いつ治るの?ねえ、いつ元気になるの?」

上げた顔に伝わる透明な真珠に、三蔵は自分が何を言ったのかようやく自覚する。

「悟空…」
「いつ海が見れるの?いつ外へ行けるの?ねぇ三蔵!」

三蔵のシャツに縋りついて、悟空がいつにない激しさで三蔵に詰め寄る。
感情の激高も悟空の心臓には、負担が大きくて。

「教えてよ、三蔵、さ、んぞ…」
「悟空!」

訴える唇が見ている間に紫に変わり、顔色が紙のように白くなる。
走る痛みに悟空は、胸の辺りを握り締めて、ベットに踞った。
慌ててナースコールを押そうとする三蔵の手を震える悟空の手が、遮った。

「…大、丈夫…すぐ治るから…だ…じょ…」

痛みに歪む顔を無理にほころばせて、悟空は三蔵に笑いかけた。
その笑顔に三蔵は何も言えず、何も出来ず、ただ、悟空の発作が治まるのを見ているしかなかった。
















「何、してんの?」

ひょいっと、三蔵の前に顔を差し出して、悟空は不思議そうな表情を見せた。
風にあたる悟空の姿を見つめながら、いつの間にか初めて悟空が三蔵に当たった日のことを思い出していたらしい。

「いや…」

小さく笑って答えれば、悟空は、

「変なの…」

と言って、肩を竦める。

「なあ、裸足になって海に足浸けてもいい?」

いたずらを思いついた子供のような表情で、三蔵に尋ねる悟空へ許可を出す。
すると悟空は、待ってましたとばかりに靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ捨てると、波打ち際へ走って行った。
走る背中に、思わず三蔵は「走るな」と言いかけて、悟空の病気が治ったことを思い出し、喉を鳴らして笑った。

そうだ、自分は悟空の病気を治すためだけに医者になった。
あの日の約束を果たすためだけに。



───俺ね、広い空の下をね、思いっきり走るのが夢なんだ



海が見たいと、三蔵ばかりが見るのは狡いと泣いたあの日。
”元気になったら”が、禁句だった日々。

その少し後で、悟空と交わした約束。
するつもりなんて無かったはずの約束。

死の背中をいつも見て、死の吐息をいつも感じて、それでも笑うから。
綺麗な笑顔を見せるから。

何もかも振り捨てて、何もかもを掛けてひたすらに、医者を目指した。
学んだ知識を与えられるチャンスを、掴める奇跡を信じて。



───三蔵が好き…大好き……



留学が決まったその日、悟空が告げてきたその言葉。
幼なじみの近所のお兄ちゃんではなく、一人の人間として、恋愛の対象として告げられた言葉。

子供だと思っていた。
思いこもうとしていた自分の気持ち。
その気持ちに、最早嘘は付けなくて。

旅立つ前の日、その痩躯を抱いた。
最初で最後だと、自分に言い聞かせて。

薄いガラスで出来たこの世の宝石。
失いたくない金色の宝石。









願う奇跡は、その身に。
叶う願いはその心に。









打ち寄せる波と戯れる姿に、三蔵は愛しさを募らせる。

まだ、普通に暮らすには越えなければならないハードルがたくさんある。
それでも、こうして遠出も出来るようになった。
走れるようにもなった。




あと少し────




もうすぐ約束は果たされる。




end

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