儚いガラス細工の心臓を持つ愛しい少年。
今年、寿命だと言われた年齢を超えて、十八回目の誕生日を桜の頃に迎えた。
そんなあいつを置いて、約束を果たすために単身海を渡った。その二度目の初夏。
南に向いた図書館の大きな窓から見える異国の青く澄んだ空と遠くに見える山々を見つめながら、三蔵はぼんやりとしていた。
気力が欠片もわかない。
呼吸することさえ鬱陶しいと思うほどに。
今書いている論文の提出が終われば帰国が決まっている。
悟空を置いて渡米して丸二年、脇目もふらず打ち込んできた。
まだ、経験も知識も足りないが、必ず治すという強固な意志と治りたいという願いに縋って。
あと少し。
望む結果に手が届くその間際、かかってきた一本の電話に三蔵は打ちのめされていた。
昨夜、疲れ切ってアパートの部屋へ帰り着いた三蔵にかかってきた一本の国際電話。
それが悟空に残された時間の少なさを三蔵に突きつけた。
『良く聞いてくださいね三蔵』
「何だ?」
それは悟空の下の兄、天蓬からだった。
いつも冷静な天蓬の声が震えていた。
『悟空に許された時間がもう無いそうです。成長する身体に心臓の機能が追いつかなくなっているとの検査結果が…今日出たんです。次、大きな発作が起きたらもう……』
「…何言って…」
受話器を握る手が冷や汗で滑った。
受話器の向こうの天蓬の声が、遠くに聞こえた。
『三蔵、三蔵…聞いてますか?』
「……あ、あぁ…悪い…」
答える声が自分でも異様に感じるほど震えた。
『悟空はこのことを知りません。でも、聡い子ですからきっとそう遠くはない間に、自分の身体の限界に気付くはずです。それでもきっとあの子は笑っているんです。僕たちに心配を掛けまいとして』
「…知っている。分かってる。天蓬」
『我が儘なのはよく分かっています。それでも、三蔵…』
縋りつくような天蓬の声に、三蔵は何のために天蓬が連絡を寄こしたか気が付いた。
だが、ここまできて最後を投げ出すわけにはいかない。
悟空の発作は、本当に今、こうして電話をしている最中に起こるかも知れない。
それほど危険な状態だと天蓬の言葉は三蔵に伝えていた。
「…すまない…天蓬」
『そう…そうですよね…』
落胆した天蓬の声に、三蔵は唇を噛みしめる。
「悪い…本当に…」
『いいえ…僕の我が侭です。あなたに不安を与えてしまっただけで…』
「いや、知らせてもらえてよかった。ありがとう、天蓬」
『三蔵…』
「悟空を頼みます」
『はい』
決心を固めた声音の天蓬の返事に三蔵は無言で頷き、受話器を置いた。
途端、立っていられないほど震えが三蔵を襲った。
悟空を失うかも知れない。
間に合わないかも知れない。
はっきりと突きつけられた事実を三蔵の精神も身体も受け入れることを拒絶する。
今すぐ、何もかも放り投げて日本へ、悟空の元へ飛んで帰り、華奢な身体をこの手で抱きしめ、その存在を確かめたい。
生きていることを確かめたい。
だが、ここまで来て全てを擲つことは、悟空との約束を反故にすることなのだ。
三蔵がここまで頑張ってきたのは、あの約束を果たすためだ。
何より、悟空が今まで生きてこられたのは、あの約束が果たされる日を楽しみにしていたからだ。
その約束を反故にすると言うことは、悟空の生きる支えを辛うじて繋がっている生命の糸を切ることに他ならない。
そんなこと殺されたってできはしない。
…悟空…悟空……
三蔵は震えの止まらない自分の身体を抱きしめ、カタカタと鳴る歯を食いしばって、己の衝動と恐怖と戦った。
それが昨夜。
一睡もせずに迎えた朝日が、酷く眩しかった。
重い身体を引きずるようにして出勤した。
何とかノルマをこなし、午後から図書館に詰めて。
だが、書きかけの論文を前に、気力が欠片も湧いてこなかった。
時間は容赦なく削り取られていくというのに。
「…悟空…」
「それは大事な人なのですか」
「…えっ?」
小さな呟きに声がかかり、三蔵は夢から覚めたような様子で振り向いた。
「教授…」
「憂い顔の美人が図書館にいると学生が噂しているので見学に来たんですよ」
柔らかな声と笑顔を三蔵に向けて、教授と三蔵が呼んだ人物が頷いた。
その人物は光明といって、悟空の抱える心臓病の新たな治療法を開発した心臓外科の世界的権威であり、研修の担当教授であった。
三蔵は穏やかな光明の姿に、何処か緩んで何処か張りつめていた気持ちが切れたようだった。
そして、光明に今にも泣きそうな頼りなげな顔を三蔵は見せた。
「…俺は…」
「あと少しですね。せっかく可愛い息子が出来た心持ちだったのに、残念です。母国で待っている人が居るなら諦めるしかないですねえ」
「……教授?」
「もっと一緒に居たかったんですよ、三蔵」
少し拗ねたような表情を光明は見せて、また、柔らかな笑顔を浮かべる。
「待っているのが貴方の大切な人なら尚更、引き留められないじゃないですか」
「……ぇ…あ、あの…」
「恋しくなったんでしょう?でも、らしくありませんよ。いつものように自信を持って、前を向いていなさい。でないと私が付け入って、貴方を攫っちゃいますよ」
「…き、教授?」
「そうされたくなかったら、母国で待ってる恋人のために頑張って下さいね」
「は…あ」
怪訝な表情を浮かべる三蔵の頬をするりと撫で、
「食べちゃいたいですねぇ」
と、笑って、光明はひらひらと手を振って図書館を出て行った。
その後ろ姿を三蔵はあっけにとられた表情に、ほんのりと頬を染めて見送った。
そのすぐ後から、三蔵はまた論文の執筆と残り少ない滞在時間を治療法の研究と臨床に費やした。
ただ、自分が帰るまで生きていてくれることを願いながら。
論文を提出し、研修終了の発表を終えたその日、三蔵は帰国の途に付いていた。
その強行軍に周囲の人間は呆れたが、光明だけは笑っていたのだった。
帰り着くまで、元気でいろ。
顔を見るまで笑っていろ。
俺が治すまで生きていろ。
悟空が入院している病院に着いたのは病院の消灯時間を遙かに過ぎた時間だった。
それでも、一分一秒でも早く顔が見たくて駆け込んだ病室に求める悟空の姿はなかった。
一瞬、胸を過ぎる不安。
だが、悟空の病室は今まで人が居た気配を残したままで。
三蔵は踵を返すと、悟空の姿を求めて寝静まった院内へ駆け出して行った。
病院中探して、やっと見つけた悟空は、屋上の片隅で自分の名を呼んで泣いていた。
渡米する前よりも小さくなった背中。
パジャマから見えるそこここは、夜目にも鮮やかなほど白く、その姿に三蔵は胸がざわついた。
風に乗って聞こえてくる悟空のか細い泣き声と自分を呼ぶ声。
その声に、生きていてくれたと安堵する。
間に合ったのだと、連日の不眠不休で堪った疲れが消えた気がした。
三蔵はゆっくりと息を吐き、ようやく自分らしさを取り戻したことを確認するように、煙草に火を点けた。
そして、もう一度、深く呼吸して、声を掛けた。
「相変わらず煩い奴だな、お前は」
いつもの呆れた声がちゃんと出た。
その声に悟空が、そろそろと振り返る。
柔らかな月光に濡れた黄金が光る。
その姿に三蔵は薄い微笑みが自然に浮かんだ。
「さ、んぞ…?」
信じられないと首を振る悟空に、三蔵はくわえていた煙草を落として踏み消すと、ゆっくり悟空の側に近づいていった。
「何してる?」
側によって問いかける三蔵へ、悟空は腕を伸ばすと倒れ込むように抱きついてきた。
その悟空の仕草に、三蔵は怪訝な声を上げる。
「悟空…?」
その声に答えることなく悟空は三蔵に抱きつく腕に一層力を込めた。
そこに居ることを確かめるように。
消えてしまわないように。
身体に伝わる悟空の微かな身体の震えと握りしめられたシャツに、三蔵は悟空がどれほど自分を待っていたか、どれほど不安だったのか知る。
抱き返す腕にゆっくり力を込め、今にも壊れそうな痩躯を胸に閉じこめた。
「…さんぞ…さんぞぉ…」
「悟空」
胸の中で悟空は何度も三蔵を呼び、三蔵もまた悟空を呼ぶ。
会えなかった時間を、触れなかった時間を埋めるように二人は解け合うほどに長い間、抱き合っていた。
「…悟空」
そっと身体を離そうとする三蔵に、悟空は嫌だとしがみつく。
それを柔らかな声で押しとどめ三蔵は、身体を離した。
「…あっ…さ、ん……」
怯えたように三蔵を見上げた悟空の声を三蔵は柔らかな口付けで掬い取った。
優しく、慈しむように降り注ぐ口付け。
その口付けに悟空の冷えた気持ちが、怯えた気持ちが暖かな光に解けてゆく。
悟空はその全身で、三蔵の光を浴びた。
三蔵は悟空に触れるたびにその温もりを感じ、その存在を確かめる。
追いつめられた気持ちが、不安がその温もりに消えてゆく。
三蔵は触れる全ての場所で悟空の命に感謝した。
ついばむように口付けられて、口付けて、二人の口付けが終わった。
「…おかえり」
はにかむ笑顔が、ようやく三蔵の帰還を迎えた。
日が決まった。
その日、三蔵は言った。
「俺に任すか?」
何をとは言わない。
ただ、「任すか?」とだけ、告げてくる。
悟空はじっと澄んだ黄金の瞳で三蔵をベットから見上げ、
「うん」
と、静かに頷き、そして、晴れ晴れとした笑顔を浮かべたのだった。
「行ってきます」
手術室に入る前、心配そうに見つめる家族に悟空は、まるで遊びに行くようにそう告げて笑った。
軽く手を振って、手術室に運ばれて行った。
ICUでたくさんのチューブに繋がれた痩身の姿に、三蔵は血が滲むほど唇を噛みしめた。
これで悟空は青空の下を走れるようになる。
そう信じて挑んだ。
だが、開胸してみた悟空の心臓は想像以上に疲弊していて。
その様子に三蔵は自分の顔から音を立てて血の気が引くのがわかった。
一縷の望みを繋ぐつもりで光明の顔を見やれば、光明の顔もまた悲痛な色に染まっていた。
「教授…」
「三蔵…ここまで疲弊していては…もう無理です」
「教授」
「メスを入れることは簡単ですが、それでは残った命まで削ってしまいます」
「教授!」
「時間を僅かにのばすことしかしてあげられないんですよ、三蔵」
「…教授」
光明の言葉に三蔵は小さく身体を震わせて、俯いた。
その姿に泣いているのかと、光明は眉を顰めた。
「三蔵?」
大丈夫かと問いかける光明に三蔵は頷いた。
ぐっと握った拳に一度力を入れて顔を上げた三蔵の顔から表情が消えていた。
そのガラスのような紫暗に閃く決意を見つけて光明はマスクの下で、口元を綻ばせた。
「少しでも身体が楽になるように最善を尽くします」
「いいでしょう。貴方の思うままに」
三蔵の願いに光明は柔らかな笑顔を浮かべると、神に等しいその手を三蔵と共に振るった。
立ちつくす三蔵の傍で、軽い空気の音を響かせてドアが開き、悟空の両親と兄達が姿を見せた。
その姿を視界の端に捉えて思わず三蔵は隣のベットのカーテンの影に隠れた。
手術の結果を未だ聞かされていない悟空の家族達は、この結果を知れば何と言うのだろう。
黙って受け容れて、今までのように笑っているのかもしれない。
大切な息子の身体を傷つけただけの三蔵に、感謝すらして。
罵ることもせず、透明な命を持った息子をその日まで見守り続けて行くだろう。
きっと、三蔵が思うよりも自然に、あるがままに受け容れていくのだ、
………悟空…
三蔵はその場に居たたまれず、姿を隠したカーテンの影から逃げるようにその場を去ったのだった。
「三蔵!」
一般病棟へ移ったその日、悟空が手術を受けてから三週間も経ったその日、三蔵は漸く、悟空の顔を見に病室を訪れた。
三蔵の姿を認めた悟空の顔が、嬉しそうに綻ぶ。
「三蔵、俺、やっと一般病棟に移れたんだ」
嬉しそうに報告する悟空の笑顔が三蔵の胸に刺さる。
手術の結果を悟空の両親と兄達に伝えたあの日、彼らは三蔵の想像した通りの表情を浮かべた。
そして、執刀した光明と三蔵に深い感謝を告げたのだ。
三蔵にすれば罵られた方が救われたかも知れない。
だが、生まれた時から失う覚悟を付けてきた肉親の深い愛情に、他人の三蔵が太刀打ちできるはずもなく、ただ無言で頭を下げるしかなかった。
あれから三蔵が悟空の顔を見るのは、悟空が眠ってからになった。
そう、起きている悟空に逢う決心がつかなかったのだ。
普通に元のように話が出来るまで、気持ちの立て直しが出来るまで逢わないと決めたのだ。
それでも、その姿を日に一度は確認しないと落ち着かない自分。
だから、眠っている悟空の姿を見つめることとなったのだった。
だがそれも何とか折り合いが付いた。
三蔵は悟空が一般病棟に移ったことを切っ掛けに悟空と向き合う決心がついたのだった。
どう言っても悟空の主治医は、手術の日から自分なのだから。
そして何より、悟空の傍に少しでも長く居たいと願う自分が居たから。
いつもの仏頂面で病室に入って来た三蔵に手を振って、悟空は笑った。
「知ってる。俺が許可したんだよ」
くしゃっと悟空の髪を掻き混ぜれば、悟空は「そっかぁ」と、くすぐったそうに首を竦めた。
「おら、横になれ。回診だ」
「うん」
素直に悟空は横になるとパジャマの前をくつろげた。
白い、肋骨の浮いた薄い胸。
赤く走る手術痕。
三蔵は聴診器をその胸に当て、心臓の鼓動を確かめる。
悟空の命の灯火の残りを数えるように。
「よし、異常ない。体温と血圧も正常だな」
看護士が差し出す検温表を見ながら三蔵は頷いた。
綱渡りの日々が続く。
壊れた心臓を騙し騙し、悟空にそれと気付かれることなく、季節は巡る。
すこぶる健康な笑顔を見せたその次の日には、死線を彷徨うような発熱。
か細い身体がふっくらと丸みを帯びるのは、薬の副作用。
それでも自分は治りつつあるのだと、信じて揺るがない黄金に、三蔵は胸を刺し貫かれて。
三蔵は態度を変えない。
やがて、季節は冬の外套を広げた。
「ねえ、雪、降るかな?」
仕事を終え、悟空の病室で遅い夕食を摂る三蔵に向かって、悟空が問いかけた。
「何だ?」
見やれば窓に張りついて、熱心に夜空を見上げている。
その姿に三蔵は小さな笑いを零すと、その傍らに立った。
「雪…降るかな?」
「さあな。ずいぶん冷えてきているから今夜あたり降るかもな」
「そっか…だったら明日、積もってるかな?」
「そんなわけあるか」
「なあんだ…つまんね」
三蔵の言葉につんと唇を尖らせて、悟空はベットに戻った。
その姿に三蔵はまた、小さく笑うと、三蔵も戻って食事の続きを再開する。
「なあ、もし雪が積もったら、屋上に連れて行ってくれよな」
「何?」
三蔵の箸が止まった。
「いいじゃん、最近、寒いからって散歩にも出してもらえないからさ」
「当たり前だ。昨日熱出していたのは誰だ?」
「えっと…俺?」
「解ってるなら、答えも解ってるだろうが」
呆れたため息を吐きつつ、三蔵が弁当のおかずを摘む。
そのおかずを悟空は取り上げると、口に放り込んだ。
「てめぇ…」
「何だよ、ケチ」
「悟空」
「だって、雪積もったのや降ってるの、傍で見たいんだもん」
もごもごと口を動かしながら、悟空は拗ねてみせる。
「元気になりゃ、いつでも見られるだろうが」
「解ってるよ…でも、今、見たいんだ。今、三蔵と…」
「悟空?」
そう言いながら俯いてしまった悟空に、三蔵は怪訝な顔をする。
冬になって、寒くなるほどに少しずつ弱っていく悟空。
治っているのだと嘘を吐きながら、増えていく薬を与える。
気付いてくれるなと願いながら。
「だって…時間ない…」
吐息のような悟空の呟きは三蔵の呆れたようなため息に消されて届くことはなかった。
「わかったよ。明日、積もったら屋上に連れて行ってやる」
「ホント?」
三蔵の言葉に悟空は今沈んでいたのが嘘のように、嬉しそうな顔を見せた。
「げんきんな奴」
「いいじゃん、嬉しいんだから」
「だったら、もう寝ろ」
「ええ〜」
「また、熱出したら当分外出は禁止。ついでに来週の外泊も却下」
「ひでぇ…」
「なら、医者の言うこと聞け」
「意地悪」
「お前のため」
「藪医者」
「悟空…」
ああ言えばこう言う悟空に三蔵は箸を握りしめる。
そんな三蔵の様子に悟空はやりすぎたと思ったのか、小さく「ごめん」と呟いて、布団に潜り込んだ。
「最初から素直にそうしてろ」
三蔵は布団に潜り込んで目だけ出して三蔵の様子を窺う悟空の上に、覆い被さった。
そして、口元を覆う布団を下げ、そっと唇に触れた。
「…さんぞ…」
「雪、積もるといいな」
「うん…」
柔らかく笑って悟空は瞳を閉じた。
その瞼にもう一度、口付けを落として、三蔵は微かに白いモノが舞い降りだした窓を見つめた。
翌朝、綺麗に晴れ渡った冬空をベットから見上げた悟空は、雪が降らなかったのだと落胆した。
それでも、諦めきれず、ひょっとしてと、小さな希望を抱きながら起き上がって、窓に寄って外を見た悟空は嬉しそうに顔を綻ばせた。
窓の外に広がるのは一面の雪景色。
検温に来た看護士に、面会に来た母親や兄達に、三蔵と一緒に屋上で雪を見るんだと逢う人に悟空はそれは嬉しそうに告げて回った。
お陰で、三蔵が出勤してきた時刻には病棟中の人間の知ることとなり、三蔵は仕事に入る前から重たい疲労感に打ちのめされた。
それでも悟空が笑っていると聞けば、安心する。
容態の安定が時間がまだあると、気持ちに余裕が僅かに生まれる。
「先生、悟空くん、楽しみにしてましたよ」
「雑用は僕がしておきますから、早く行ってあげて下さい」
「急がないと雪、溶けちゃいますよ」
「先生、回診まで時間は十分ありますから」
「この毛布お持ちになって下さい」
差し出された毛布を受け取って、ナースセンターの皆に背中を押されるようにして、三蔵は苦笑を浮かべて悟空の病室に向かった。
開け放たれた病室の入り口に立てば、小さな子供のように窓に張りついている悟空が見えた。
小さくなった背中。
細くなった腕、項。
白く透明になっていくその姿に、三蔵は我知らず毛布を握りしめる。
まだ、逝くなよ…まだ…
どれほどそこに立っていたのだろう、くいっと白衣を引っ張られる様子で三蔵は我に返った。
「何ぼうっとしてんの?」
声の方へ視線を投げれば悟空が不思議そうな顔で三蔵を見上げていた。
「いや…よく積もったと思ってな。それと小さなガキみたいに窓に張りついていたサルが珍しくて見とれていたんだよ」
「誰がサルなんだよ」
「誰だろうな」
「三蔵!」
むくれる悟空に三蔵は声を上げて笑いながら、手を差し出した。
「約束だ。行くぞ」
「うん!」
三蔵の差し出した手を掴んで悟空は大きく肯いた。
「うわぁ…」
すっぽりと毛布に包まれた悟空は三蔵に抱かれて、誰の踏み跡もない屋上に立った。
刺すように大気は冷たかったが、吸い込むその冷たさに三蔵はくすぶった気持ちが洗い清められる気がした。
悟空がもっと真ん中へと強請るのに頷いて、新雪に足跡を刻む。
「気持ちいい」
毛布から手を出して悟空は真冬の冷たい空気を掴むような仕草を繰り返した。
「何してる?」
問えば、
「綺麗だからここに貯めておくんだ。忘れないように」
「何だそれ」
訳がわからないと三蔵が鼻に皺を寄せれば、悟空はくすくすと喉を鳴らして笑った。
と、白いモノが悟空の鼻先に舞い降りた。
それに釣られて見上げれば、晴れた青空をバックに粉雪が舞い降りてくる。
「雪…降ってる…」
はらはらと音もなく白い粉雪の舞い落ちる様に、悟空は頬を染めて見つめる。
三蔵もまた悟空と同じように冬の太陽に照らされながら舞い落ちる粉雪を見つめた。
その視線の先に真昼に昇った月を見つける。
「悟空、月だぞ」
「え…?」
三蔵の示す方へ小首を傾げながら悟空は瞳を向け、小さな声を上げた。
「ホントだ…」
こくりと息を呑む様子に三蔵は悟空の軽い体を抱き直し、そっと呟いた。
「贅沢だな」
「何で?」
「晴れた青空と雪、降る雪に月。まとめて見られるなんざ贅沢だ」
「…うん、そ、だね」
悟空は頷きながら三蔵の肩に頭をもたせかけた。
そして、大きく息を吸う。
「悟空?」
腕の中の身体の揺らぎに三蔵が見やれば、悟空はゆっくり息を吐きながらはんなりと笑った。
悟空の吐く吐息が白い固まりになって冷えた空気に溶ける。
「約束、守ってくれてありがと」
「ああ…」
「うん、大好き…」
「ああ」
「…ありが、と…」
そう言って悟空は満ち足りた笑顔を三蔵に見せた。
それに三蔵は触れるだけの口付けで応えてやる。
「満足したなら戻るぞ」
「…うん…」
返る返事は眠たげで。
「悟空?」
「すごく気になって早く目が覚めたっていうか、よく寝られなかったから…雪見たら安心して…眠い…」
「ガキ…」
「嬉しかったんだから…いい…」
三蔵のからかいに半ば眠りに落ちながら言い返し、悟空はことんと眠りに落ちた。
三蔵は解けかけた毛布をかけ直し、しっかりと悟空を抱いて屋上を後にした。
その後ろ姿を太陽と舞い落ちる粉雪、そして蒼天に昇った月が見送った。
やがて来る嘆きを見つめて────
end
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