「なあ、スープできたよ」
「なら、どんぶり持ってこい」
「うん」両手に一つずつどんぶりを持って、悟空はガスレンジの前に立つ三蔵のもとへ行く。
「よし、そこへ置け」
「大丈夫かよ」
「大丈夫だ」
危なっかしい手つきでゆでた麺を鍋から上げ、湯切りもそこそこに悟空が置いたどんぶりに入れる。
「よし、具を取れ」
「わ、わかった」
調理台に戻り、先程三蔵と二人で切り分けたチャーシューやネギ、ナルトなどの入った皿を持って、戻ってくる。
その具を適当に半分ずつどんぶりに投げ入れ、見た目はまあ、綺麗とは言い難いが、ラーメンが二つできあがった。
棚の上に置いてある盆を取り出し、それらを載せて悟空には水と胡椒と何故かマヨネーズを持たせて、居間に戻った。
食卓に並べ、それぞれが椅子につく。
「いっただきまーす」
悟空が元気に手を合わせて、ラーメンに胡椒を入れ、食べ始めた。
三蔵も手を合わせ、徐にマヨネーズを取り、ラーメンに入れると食べ始めた。
その様子を何とも言えない表情で悟空は見ていたが、三蔵の視線を感じて慌てて意識をラーメンに戻すと、黙々と食べ始めた。
三蔵と二人、こうやってラーメンを食べるのは一体何日目だろうか。
笙玄が三蔵とケンカして出て行ったのは、いつだったか。
原因は些細なことだった。
そう、確か三蔵の食癖だったと思う。
この目の前でマヨネーズ入りのラーメンを美味しそうに食べている最高僧の食癖の所為だ。
三蔵は以外に好き嫌いが激しい上に、結構な美食家だったりする。
でも、あんこが好きで、のびたラーメンが好きで、ラーメンにマヨネーズを入れて食べたりする妙なところで悪食も持っていたりする。
悟空は三蔵のそういった食癖はそんなものだろうと思っていたが、世間一般では悪食と言うらしい。
それを先日出掛けた街の食堂で三蔵がやらかした。
見かねた笙玄がやんわりと諫めたのだが、どうもそれが三蔵の逆鱗に触れたらしく、売り言葉に買い言葉、結局まるで夫婦喧嘩のようだと回りの人間も悟空も思ったほどの様相を呈し、珍しくキレた笙玄が、
「実家に帰らせて頂きます」
と、叫んで食堂から立ち去ってしまった。
間に挟まれた悟空は、どちらの味方もできずにうろうろしてしまい、結局、笙玄を止めることができずに、その背中を見送ることとなった。
寺院へ戻ってみれば、本当に笙玄は何処かへ姿を消していて、以降、同じようにへそを曲げてしまった三蔵と共に、貧しい食生活を強いられている悟空であった。
いい加減、まともなモノが食べたい悟空はその夜、三蔵の機嫌がどんなに悪くなろうと、笙玄に戻ってもらうように説得するつもりで、食べ飽きた味のラーメンをすすっていた。
食べた食器を片付けた悟空は、新聞を読んでいる三蔵の前に立つと、目の前に広げられている新聞を力任せに奪った。
「なにしやがる!」
不機嫌な地を這う声が、すかざず返ってくる。
普通の人間ならそれだけで竦み上がってしまうが、悟空にそんな効果は全くない。
それよりも三蔵を見下ろす悟空の眼差しの方が、危険を孕んでいるかも知れなかった。
「三蔵、笙玄に謝ってきなよ」
「何だと?」
「だって、三蔵が悪いんじゃんか。ここでは止めてくれって言う笙玄の頼みを聞かなくて、怒らせたんだろ。だから三蔵が謝るの」
「おい、サル、てめぇ誰に向かって言ってやがる」
「分からず屋の三蔵」
「何?」
「三蔵がラーメンに何入れて食べようと三蔵の勝手だけど、場所柄はわきまえた方がいいって俺も思うから、だから、笙玄が怒ったのに賛成する」
「そうか、てめぇは笙玄に味方するってんだな」
三蔵の纏う空気が不穏な色に染まる。
悟空はピリピリとそれを肌で感じながら、それでもまともな食生活のためにと、腹に力を入れた。
「怒ったって無駄だかんな。悪いことは悪いって、悪いことをした時は自分で分かれって三蔵、いつも言ってるじゃんか。今回は、俺、ぜってー三蔵が悪いと思う。だから、笙玄に謝るのは三蔵」
ぎゅうっと、拳を握り締めて、微かに潤んで怒りに染まった悟空の瞳に見つめられて、三蔵は己の視線を僅かに悟空の瞳から逸らした。
何年経っても三蔵は悟空の潤んだ瞳に弱い。
まして、今回は自分も大人げなかったと狭い心の片隅に罪の意識があるから尚のこと悟空の視線が痛かった。
言葉も結構、それなりに胸に刺さる。
だが、一度張ってしまった意地の引っ込め方を知らない、うまく引っ込めることができないのも事実で。
三蔵は居心地の悪い想いを抱いて、悟空の前に座っていた。
「三蔵がちゃんと笙玄を連れ戻してくれるまで、俺、三蔵と一緒に寝ない。抱き枕もしないかんな」
そう言って、三蔵の返事を聞くことなく、悟空は寝室に入って行った。
寝室に消える悟空の背中を呼び止めようと、口を開きかけた三蔵だったが、言葉は出てこなかった。
大きなため息を吐いて、三蔵は長椅子に横になった。
「…ったく…」
天井を見上げながら、三蔵は笙玄のことを考えた。
最初は、その扱いに困った。
次に、悟空を可愛がるそのことに苛立った。
今は、色々なことに対して、居てもらわねば困る。
そんな存在が、笙玄。
いつの間に、気持ちの中に入り込んで、知らぬ内に住み着いたやっかいな存在。
それが笙玄。
三蔵は、穏やかな笙玄の顔を思い浮かべながら、彼の実家のことを想いだそうとして気が付いた。
そうだ、笙玄に親は居ない。
当然、”実家”と呼ばれるモノは存在しないのだ。
では、何処に笙玄は帰ったというのだろうか。
笙玄が姿を消して、かれこれ半月が経とうとしていることに、ようやく三蔵は思い至った。
がばっと、身体を起こすと、三蔵は居間を慌てて出て行った。
笙玄は、別院の綜郭のところにいた。
笙玄の突然の来訪にも綜郭は驚かず、柔らかな笑顔で笙玄の迎え入れてくれた。
憤懣やるかたない笙玄の話に、綜郭は楽しそうに耳を傾け、
「そなたの気が済むまでここに居るといい」
と、笙玄の滞在を許してくれた。
しばらくは、綜郭の世話を手伝ったり、別院の僧侶達の仕事を手伝ったりと忙しくしていた笙玄だったが、寺の庭先に遊びに来ている悟空と同じ年頃の子供の姿を認めて、ようやく二人のことが心配になった。
三蔵は縦のモノを横にもしない面倒くさがりで、仕事の配分をきちんとしないと仕事をしないか、仕事をしすぎてしまう。
その上、促さないと食事を摂ることをしない。
夕食は悟空との約束だからちゃんと食べてはいるだろうが、朝食と昼食は取っていないかも知れない。
ただ、そんな三蔵でも悟空の世話は、きちんとする。
だから、あの万年欠食児の悟空の食事も外食が多いだろうが、ちゃんと食べさせていると、笙玄は信じていた。
実際は、仕事が立て込んでろくなものを悟空は食べさせてもらってはいないのだが、それは笙玄の知るところではなかった。
「悟空は元気でしょうか…?」
小さくため息を吐くと、笙玄は庭先の掃除を再開した。
結局、三蔵が思いついた笙玄の行きそうな場所は、別院の綜郭僧正の所だった。
甚だ不本意に悟空に説教された三蔵は、笙玄が身よりのない人間だと言うことを思い出した。
慌てて僧侶達の履歴簿を覗きに書庫へ行った三蔵は、そこで初めて笙玄の生い立ちを知ることとなった。
その境遇は、どちらかというと三蔵の境遇に近いものがあったが、育った環境には雲泥の差があった。
何より、性格が三蔵と笙玄では天と地ほどの差がある。
不遜な三蔵と人当たりの良い笙玄では、自ずと対する人の言動は違ってくる。
だが、あの人の良い笑顔の下に隠されたもう一つの顔を垣間見る時、その生い立ちに納得する三蔵だった。
午後からの仕事を投げ出して、三蔵は綜郭の住む別院の寺院風紋院に向かった。
昨夜の勢いから、ここまで来たが、風紋院の門が見えたそこで、三蔵の足はぴたりと止まって、動かなくなった。
あの時、笙玄を怒らせたのは、自分が悪いと自覚はある。
悟空に言われるまでもなく、わかってはいたのだ。
だが、一度張った意地のたたみ方を三蔵は知らない。
大抵は、相手が堪りかねて例え不本意でも折れてきていたので、経験が乏しいのだ。
まして、気の利いた言葉も思いつかない三蔵だから、どんな風にして切っ掛けを掴んで、謝ればいいのか皆目見当が付かなかった。
門の傍で、立ちつくす三蔵に、陽ざしは暖かく降り注いでいた。
三蔵の気分とは裏腹に、いっそ憎らしいほど、爽やかな天気だった。
「これは三蔵様、こんな所で如何なされた?」
突然、かけられた声に、文字通り飛び上がって振り返った三蔵に、声をかけた人物はにこにこと、笑いかけた。
「綜郭…」
はあっと、ため息を吐く三蔵に、綜郭は笑みを深くすると言った。
「笙玄なら庭掃除をしているはずですぞ」
その言葉に、三蔵の紫暗が見開かれた。
「迎えにこられたのですか?」
「い、いや、こちらに用があってたまたま、前を通りかかっただけだ」
「そうでございましたか。もう、ご用がお済みでございましたらこの年よりの茶の相手などしていただけませんかの?」
柔らかな綜郭の言葉に、三蔵は少し逡巡した後、頷いた。
それに綜郭は嬉しそうに笑うと、三蔵を促して山門を潜った。
笙玄は庭先を掃いていた手を止めて、我が目を疑った。
そう、三蔵が綜郭と共にこちらに歩いて来るではないか。
喧嘩して別れて以来、半月ぶりの再会だった。
綺麗に輝く金糸、不機嫌な光を宿す紫暗の瞳、白い法衣、双肩の経文。
何もかもが酷く懐かしく思えてならなかった。
綜郭と連れだって近づいてくる三蔵を見つめながら、笙玄は動くことができなかった。
綜郭の少し後ろを歩いていた三蔵は、庭に佇む笙玄の姿を認めた。
どんな顔をしたらいいのか咄嗟に思いつかない三蔵は、不機嫌な表情をことさら作って、何気ない振りをしながら笙玄の前を通り過ぎた。
綜郭と三蔵の姿を見送った笙玄は、持っていた箒にすがるようにしている自分に気が付いて、困ったような笑顔を浮かべた。
と、綜郭付きの僧侶が、笙玄を回廊から呼んでいるのに気が付いた。
「何でしょう?」
箒を持ったまま近づけば、
「三蔵法師様がお見えで、綜郭様と一緒にお茶を召し上がるのだそうだが、私には三蔵様がどのようなお茶を好まれるのか、加減がわからないから、お前に頼みに来たのだよ」
「…でも」
「三蔵様は気難しいお方だと聞いているから、傍仕えをしているお前に頼むのだよ」
そうまで言われれば断り切れず、笙玄は頷いた。
「わかりました」
「ああ、頼む」
僧侶はほっと、胸をなで下ろして頬笑むと、他に仕事があるからと何処かへ行ってしまった。
笙玄は、箒を片付け、三蔵と綜郭に茶を入れるべく、綜郭の自室に向かった。
三蔵は何となく落ち着かない気分で居た。
笙玄を迎えに来たはずなのだが、どこで間違ったのか綜郭と茶を飲むことになった。
その上、気持ちに踏ん切りが付いているようで付いていない内に、笙玄の顔をみてしまったのだ。
当然、気持ちに余裕など欠片も残っていない。
いや、余裕など最初から無いのだ。
綜郭は、目の前で落ち着かなげに視線を彷徨わせている三蔵の姿を、微笑ましく思っていた。
寺院に着任した頃は、誰も傍に寄せ付けない頑なな態度と眼差し。
全身をトゲの鎧で覆って一人でいようとしていた。
悟空を連れて寺院に戻ってきてから、張りつめた糸は弛み、トゲの鎧はなりを潜めた。
だが、悟空以外は傍に寄せ付けない頑なな態度も眼差しも変わらなかった。
そして、笙玄が二人の傍に居るようになって、ようやく頑なな態度が和らいできた。
それはきっと、味方ができたからなのだと、そう思いたかった。
悪意ばかりを向けられる生活の中で、頼れるモノはお互いしか居ないそう信じていた二人の前に、笙玄が手を差し伸べた。
あの生真面目で、まっすぐな笙玄の純粋な想いが伝わったのだと、そう思いたかった。
いや、そう思っている。
現に、笙玄と喧嘩して、時間はかかっても己の非を認めてこうしてここへ自ら出向いてきたのが証拠だろう。
その背中を押したのが、あの可愛い小猿だとしてもだ。
綜郭は二人が連れ立って、寺院へ帰って行く姿を想像して、笑みを深くした。
と、扉が静かに叩かれ、笙玄が茶を運んできた。
お互いに顔を合わせないようにしながらお茶を受け取っている。
「三蔵様、ちょっと失礼致しますぞ」
「僧正様?」
「年をとると、近くなって困ります」
「はあ…」
綜郭はそう言うと、自室を後にした。
綜郭の言った意味がわからず、怪訝な顔をする三蔵に、笙玄はそっと告げた。
「トイレでございますよ」
「ああ、そうか」
ほっと、息を吐く三蔵に笙玄は笑いかけた。
「なら、戻って来られたら帰るぞ」
「えっ?」
「何て顔をしてる。一緒に帰るんだよ」
「あ…でも…」
三蔵の突然の言葉に笙玄は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をする。
三蔵はその顔にちらと視線を投げた後、
「悪かったから……以後、気を付ける」
と、消え入りそうな声で笙玄に告げた。
一瞬、笙玄は瞳を見開いたが、目の前の三蔵が耳まで真っ赤にしている姿を見てしまえば、嫌も応もない。
「はい。三蔵様」
満面の笑顔で頷いた。
たまには喧嘩もいいけれど、一番迷惑を被った悟空は、今か今かと笙玄の帰りを待ちわびていた。
|