「なあ、笙玄、三蔵は?」
「えっ、今し方そちらで休憩なさっていらっしゃいましたけど?」
「居ないよ」
「逃げましたね」
「へっ?」
「今日はこれから皇帝陛下の勅使がお見えになられるんです」
「ちょくし?」
「皇帝陛下のお使いの方をそう呼ぶんですよ」
「ふーん。でも何で三蔵、逃げるんだ?」
「今日のお使者の方は、ヤモリのようなお顔のねばぁっと糸を引くような話し方をされる方で、その上三蔵様に色目をお使いになるそうです」
「い…色目?」
「はい、好きですよーって、視線を三蔵様に向けられるんです」
「何かヤだ」
「でも、そう言う方であってもお会いになって、お話をするのが三蔵様のお仕事なのです。悟空はわかりますよね」
「うん、わかる。仕事はさぼったらダメなんだよな」
「はい。ですから悟空、三蔵様を一緒に捜してくれますか?」
「うん、一緒に探してやる。俺も三蔵に見せたいモノがあるから」
「では、お願いします」
「おお、まかしとけって!」それは、とある日のとある断片。
「三蔵様は、いかがなされた?今日の謁見は、ずいぶん前よりのお約束ではないか」
「なにぶんにもお忙しいお方故、約束のお時間まではご公務が詰まって降りますれば…」
「では、三蔵様の執務室へ案内願いましょう程に」
「そ、それはなりません。皇帝陛下ですらそのようなことは御仏の冒涜に当たると仰られて、三蔵様がお出ましなさいますのをお待ち下さいますのに、ご無理でございます」
押しとどめる僧正達は困り果て、笙玄を呼びに走らせた。
だが、使いに出た僧侶はいっかな戻ってこない。
この、三蔵贔屓の勅使は、意のままにならないと知るや難癖を付けて来ることで有名だった。
その勅使が、約束の時間より一時間も早く訪れるなんて、僧正達には悪夢としか言いようがなかった。
そんなことになってるとも知らず、知ったからといって素知らぬふりを決め込んでいるだろう件の三蔵法師は、寺院の最奥の祠の後ろで、のんびりと煙草をくゆらせていた。
「誰が、見つかるかよ…」
ぷかぁっと煙草を美味しそうに吸いながら、三蔵は笙玄の目を盗んで逃げ出した己の行為を楽しんでいた。
あの声を聞くまでは───
「さんぞ、みーつけた!」
「何でここにいる?」
「え、何でって、さんぞが居るから」
「…猿」
「猿ってゆーな」
「じゃあ何だ?」
「悟空だ。ご・く・う」
「悟空って種類の猿だな」
「猿じゃないーっ!」
「んじゃぁ、ガキ」
「ちがうもん」
「で、何しに来た?」
「へっ?」
「何しに来たんだ、お前は?」
「あ、うんと…笙玄がお仕事さぼって逃げた三蔵を探してってゆったから」
「……」
「仕事さぼったらダメだってこないださんぞ、ゆったぞ。だから、さぼっちゃダメ……んっ…」
「俺は、いいんだよ、サル」
「そんっ…ん…ふぁ…やぁ」
「楽しませろよ」
「…やっ…さんぞの…んっ…エロぼーず…」
「うるせぇ、黙ってろ」
「きゃうっ…!」
笙玄は経堂の前で深呼吸を一回すると、恭しく扉を開けた。
途端に香るきつい香水の香り。
経堂に籠もるその匂いと、勅使のは虫類を思わせる相貌が、笙玄を不快な気分にさせた。
これは、三蔵様の嫌がるお気持ちもわかりますねぇ…
叩頭する胸の内で、謁見を逃げた三蔵に少しだけ同情する。
勅使は、経堂に入ってきた笙玄を認めて嬉しそうに声を掛けた。
「笙玄、三蔵様はどうなされた?」
「まだ、お約束のお時間に間がございますので、ご公務をなさっておいでです」
「そうか。じゃが、私がこうして来たのだ、早々にお目通りを頼むほどに」
身を乗り出す勅使に、笙玄は困った、思案に暮れた顔を見せた。
「それは…」
「どうした?」
言いよどむ笙玄に、勅使も顔を曇らせる。
「はい、先程、三仏神さまからのお呼び出しがございまして、急ぎ斜陽殿へお出かけになられたのでございます」
「何、斜陽殿へと?」
「はい。ですので、今日のご面会は…」
「よい!待つ」
「しかし、どれ程お待たせするかわかりませんが──」
「構わぬ」
「では、お戻りになられましたらすぐに、お連れ致します」
「頼む」
笙玄は、深く叩頭すると、経堂を辞した。
そして、足早に寝所へ向かいながら、三蔵の行きそうな場所へ考えを巡らせる。
悟空を行かせたのは間違いでしたねぇ
悟空なら三蔵がどこにいても見つけられるはずだと、わかっていたので三蔵探しを手伝ってもらったが、戻ってこないところを見ると、ミイラ取りがミイラになったようだった。
こうなったら、意地でも探し出して、三蔵が毛嫌いしている勅使と接見してもらうと、堅く笙玄は誓うのだった。
「あ、そーだ!」
三蔵の腕の中で微睡みかけていた悟空が、何か思い出したのか、大きな声を上げた。
「何だ?」
腕の中の悟空を見やれば、ごそごそとシャツのポケットから何かの欠片を取り出した。
「はい」
嬉しそうに差し出すそれは小さな琥珀の欠片。
「三蔵の色の石。綺麗でしょ?」
嬉しそうに笑う。
陽の光を受けて、柔らかな金色に光る。
その光の中に三蔵は、愛しい人の色を見る。
透明で汚れのない、暖かな金色。
何よりも愛しい存在。
「ああ、そうだな」
「裏山で見つけたんだ」
そう言って、日にかざす。
三蔵はその欠片ごと悟空の手を握り込むと、そっと口づけた。
「さん…ぞ?」
戸惑った悟空の声に三蔵は、ふっと口元を緩めると、
「首からかけられるようにしてやるから、失くすなよ」
と、笑った。
「うん!」
その言葉に、輝く大輪の笑顔の花を咲かせた悟空の上に、羽のような口付けが舞い降りた。
「悟空を見かけませんでしたか?」
奥の院で仕事をする僧侶に、笙玄は悟空の行方を尋ねてまわった。
だが、皆知らないと首を振るばかりで、埒があかない。
「では、三蔵様は?」
と、問い返せば、ちらりと奥の祠の方へ行く姿を見かけたと、返事が返ってきた。
笙玄は、ガッツポーズを心密かにすると、その僧侶に礼を言って、奥の祠を目指した。
息も荒く祠に着いて見れば、人の気配はない。
ぐるりと周囲を回れば、祠の後ろに見慣れた吸い殻が何本か捨ててあった。
「三蔵様、悟空…」
ため息を吐くと、二人の行きそうな場所を改めて、考え始めた。
しかし、勅使を待たせるのもいい加減そろそろ限界に近い。
あと、小一時間ほどの間に探し出せないと、大変な事になるのは目に見えていた。
今回の勅使は、本当に困ったお方で、三蔵と会えなければへそを曲げて、あることないことを皇帝陛下に奏上する癖がある。
そんなことにでもなれば、ただでさえ風当たりの強い悟空にまた、いらぬ傷が付いてしまう。
それだけはさせるわけにはいかない。
可愛い小猿が、傷付いて泣く姿など見たくない。
ならば、保護者である三蔵にがんばってもらわなければ…。
笙玄は握り拳一つ、気合いを入れると、悟空がよく行く裏山へ踵を返した。
結局、裏山にも二人の姿はなく、どうやって勅使の機嫌を損ねないように宥めて、返すか、きりきりと胃が痛むのを覚えながら、笙玄は勅使の待つ経堂に向かった。
深いため息を一つ吐いて、恭しく経堂の扉を開けた。
一礼して顔を上げた笙玄は、誰も居ない経堂に、浅黄色の衣を纏い、金色の袈裟をつけた三蔵が、傍らに悟空を侍らして、座っているのを見つけた。
「さ…んぞ…う…さま?」
あまりな驚きに声も出ない。
「なんて顔、してやがる」
楽しそうな三蔵の声に、笙玄は我に返った。
「ど、どうして…あの…」
「別に、サルがさぼるなと煩いから、来てやったまでだ」
「勅使の方は…」
「帰ったよ。んとぉ、三蔵の手握って、ほっぺたにすりすりして、ちゅうまでして帰ってった」
怒った悟空の声に、笙玄は頷くしかない。
「すりすりにち、ちゅうですか…?」
「そ。俺すっごくヤだったから、あいつ帰ってすぐ三蔵の手、消毒したんだ」
「消毒?」
「うん」
そう言って、悟空は三蔵の手を取ると、自分の服の裾で手を拭き、その手にすりすりすると、口づけた。
一連の行為を黙って見ていた笙玄は、気のせいではない頭痛を感じた。
「笙玄」
三蔵が呼んだ。
「は、はい」
慌てて返事をすれば、
「明日は休みだ。いいな、何があっても休みだ。わかったな」
「や、休みって…三蔵様」
「休みなの。俺との約束なの」
「ということだ」
あっけにとられた笙玄に、三蔵は楽しそうな笑みを向けた。
その笑みを見た途端、笙玄は全てを理解した。
はめましたね、三蔵様。
ということだ。
良いでしょう、でも、貸し一つです。
「わかりました。でも、明後日からはどうなっても私、責任を取りかねます」
「好きにするさ」
三蔵はそう言うと、悟空を促して立ち上がった。
そして、衣と袈裟を脱ぎ、笙玄に渡すと、悟空と共に経堂を出て行った。
翌日、宣言通りに休みになった三蔵だったが、その次の日からしばらく、寝る間もないほどの仕事に追われることとなった。
世は全て事も無し…?
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