激務な三蔵 (2003.12.5〜2004.1.29/寺院時代) |
月が変わって、師走、大晦(おおつごもり)、年の瀬。 寺院の中が、ざわめき出す。 すると、三蔵の仕事もあっと言う間に増えて、ただでさえ崩れそうな書類の山が、また高くなる。 「…すげぇ…」 執務机に積まれた書類の山を感嘆符付きで、悟空は見上げた。 「壁…だよなぁ…」 書類を置いて、書き込みや印鑑を押すために空けられた場所に頬杖をついて、空いた手を書類の壁に伸ばす。 「三蔵、死んじゃうかも…」 つんつんと書類の壁をつついて、今朝の三蔵の様子を悟空は思い出した。
「三蔵様?三蔵様、もう起きていらっしゃいますか?」 笙玄の声で目が覚めた悟空は、傍らの寝台を見やった。 「さんぞ?」 そっと呼んで、頬に触れても、三蔵が起きる気配はない。 「疲れてるんだ…」 悟空はぺたぺたと、戸口へ向かう。 「あのね、三蔵、すっごい目の下黒くて…あの…だから…」 言いよどむ悟空に、笙玄は黙って頷く。 「わかりました。まだ時間は、ありますのでぎりぎりまで寝かせて差し上げてくださいね」 笙玄の言葉に悟空は嬉しそうに頷いた。 「わかった。九時だな」 笙玄は柔らかな笑顔を悟空に向けた後、悟空に背を向けた。 「十二月なんてなくなっちゃえばいいのに…」 視線を移した窓の外は、冬の陽差しが煌めいていた。
「さんぞ、九時だよ…」 笙玄が三蔵をお越しに来てから二時間後、悟空は未だ起きない三蔵の身体を揺すった。 「…疲れてるんだ…でも、休めないって昨日、言ってもんな」 悟空はもっと三蔵を休ませてやりたいと思ったが、笙玄と約束もしたので、もう一度、三蔵を起こす。 「さんぞ、さんぞ、起きて、時間だよ、三蔵」 ゆさゆさと力を入れて三蔵の身体を揺さぶれば、煩そうな吐息と共に三蔵が目を覚ました。 「…大丈夫か?」 まだ、眠いのか何処かぼうっとしている三蔵の顔を悟空は、気遣わしげに見つめた。 「さんぞ…」 動かない悟空に三蔵は小さく笑いかけ、「大丈夫だ」と悟空の頭を軽く小突いた。
「美味しくなさそうに飯、食べてたし…」 疲れた影を色濃く落とす三蔵の顔を思い出し、悟空は大きなため息を吐く。 「逃げ出せたら良いのに…」 壁に見える書類を突っついて、悟空はもう一度ため息を吐いた。 「……誰?」 三蔵の執務机の椅子から降りた悟空は、小首を傾げたまま窓際へ近づいた。 「な、に…?」 悟空はキョロキョロと辺りを見回した後、何か気が付いたのか、執務室を後にした。
ゆらりと、回廊を歩く三蔵の身体がかしいだ。 「三蔵様!」 手に持った書類を投げ出し、笙玄が崩れ折れる三蔵の身体に手を差し出す。 「さ、三蔵様!」 倒れ込んだ格好のまま、三蔵を呼ぶが、三蔵は完全に意識を飛ばしてしまっているようだった。 「だ、誰か!」 その足音の主へ向かって、笙玄が叫ぶ。 「笙玄!」 返って来た返事は、悟空の声だった。 「悟空、三蔵様が!」 駆け寄ってきた悟空が、回廊に倒れた三蔵と笙玄の傍に駆け寄ってくる。 「……ご、くう…?」 意識が朦朧としているのか、紫暗の瞳は朧に霞んで見える。 「さんぞ…大丈夫?」 軽く頭を振って、意識をはっきりさせようとしている三蔵の顔を覗き込む。 「…あぁ……」 緩慢な返事に、悟空は笙玄を見やった。 「笙玄…三蔵が…三蔵が……」 泣きそうな声音で訴える悟空に、 「大丈夫だ。泣くな」 そう言って、三蔵は立ち上がった。 「悟空、寝所へ」 笙玄が散らばった書類を手早く集め、傾ぐ三蔵の身体を支える悟空へ指示を与える。 「わかった」 頷いて悟空は、笙玄と二人で足下が定かでない三蔵を寝所へと運んだ。 「三蔵…気持ち悪い?苦しい?」 悟空の不安に染まった問いかけに、三蔵は回廊で頷いたように大丈夫だと頷けない。 「さんぞ…」 夜着を着終えて立ち上がった三蔵の腰を支え、悟空は答えない三蔵の血の気の引いた顔を見上げる。 「三蔵!」 慌てる悟空に、三蔵はようやく、 「眠い…」 それだけを告げて、意識を手放した。 「……寝ちゃったの?」 傍らに立つ笙玄を振り返れば、笙玄が頷きを返してくれた。 「こんな三蔵、初めて見た…」 深々と吐いたため息に、笙玄は後悔を滲ませる。 「笙玄が悪いんじゃないでしょ?仕事が多すぎたんだからさ…」 笙玄の言葉に、悟空は改めて三蔵の疲れ切った寝顔を見やったのだった。 「どんな風に?」 聞き返す悟空の顔に、心配と好奇心の色が見える。 「お話はあちらでしましょうか?」 二人は死んだように眠る三蔵の傍から、離れたのだった。
「三蔵の様子がおかしかったって?何で?」 悟空が、小首を傾げて笙玄の顔を覗き込む。 「はい。普段ならこの時期、隙を見つけてはご公務をさぼろうとなさるのが、今回に限りやたらと精力的にご公務をこなしていらっしゃるのです」 この時期は三蔵が仕事をさぼって逃げ出すのが当たり前だと、笙玄は言っているのだ。 「良いんですよ。三蔵様がやる気を出して下さるのは。でもね、こんなになるまで働いて下さいとは、申し上げてはいないのです。ええ、年末が忙しいことぐらい分かっていますし、いつもより量が多いことも事実ですが、これほど詰め込むようなことを私は致しません。それなのに三蔵様は、急ぎの仕事以外でも持ってくるように仰って…」 堪っていたモノを吐き出すように、笙玄は話すと、唇を噛んだ。 「何か…あるのかな?」 悟空の問いに、笙玄はやたらキッパリと答える。 「じゃあ、三蔵が起きたら訊いてみる」 曖昧な笑顔を浮かべて、悟空は肩を竦めた。
三蔵の目が覚めたのは、年末も押し迫った三十日の夕方だった。 「過労で倒れた三蔵様にこれ以上仕事をさせて、そのお命を奪う気ですか?」 と言う、脅し文句付きでそれぞれの僧正達へと割り振られ、何とか片付けられていた。 悟空は傍にいたいのを我慢して、三蔵の眠りを妨げないように居間で寝起きをした。 「三蔵!」 飛び跳ねるように三蔵の腰に飛びついた。 「おい、今日は何日だ?」 その答えに、三蔵はしまったと言う表情になった。 「どうかしたのか?」 三蔵の腰から身体を離し、怪訝な顔で悟空は三蔵を見上げた。 「さんぞ?」 訳が分からない悟空は、その後を付いて寝室へと入っていった。
「おい、寝台の下にある鞄を出せ」 訳が分からない顔をして付いてきた悟空に自分の寝台の下を指さして三蔵はそう言うと、自分は慌ただしく着替えを始めた。 「う、うん」 悟空は言われるまま、三蔵の寝台の下を覗き込み、そこに小振りなボストンバックを見つけた。 「出したよ」 ボストンを持って振り返った悟空の顔に、コートとマフラー、手袋に帽子が投げられた。 「な、何?」 三蔵の急ぐ気配に悟空は言われた通り、コートを羽織り、マフラーを付け、帽子を被った。 「さ、んぞ…?」 驚いている悟空にボストンバックを取らせ、それを窓の外に投げ出すと、自分も窓の外に身を躍らせた。 「さんぞ?」 三蔵の行動にびっくりした悟空は三蔵に呼ばれるまま、窓から外に出た。 「行くぞ、サル」 と、踵を返した。
三蔵と悟空が手に手を取って逃げ出したことに笙玄が気付いたのは、その日の夕食を運んできた時だった。 「…三蔵様、悟空?」 いつもなら悟空が一人で居間にいるはずの時間。 「何も秘密になさらなくても良いのに…」 呟いて、笙玄は深いため息を吐く。 「言って下されば少しはお手伝いしましたのに」 青い顔をして仕事をする三蔵と寂しそうに居間にいる悟空の姿を思い出す。 「良いですけど…お帰りなった時、私は責任持ちませんからね」 今頃、悟空と楽しくやっているであろう三蔵に向かって笙玄は呟くと、部屋を片付け始めた。
翌日、笙玄から三蔵の体調はかんばしくなく、今年の晦日の行事も新年祭にも三蔵が出席するのは無理だと、寺院の幹部達に医者の康永の説明付きで報告した。 「で、三蔵様は?」 穏やかに笑顔を浮かべる笙玄の瞳は、欠片も笑顔を浮かべてはいなかった。
嬉しさ全開で三蔵の傍を前になったり、後ろを歩いたりして興奮しっぱなしの悟空を伴って三蔵が辿り着いたのは、長安から北へ離れた小さな保養地だった。 「さんぞ?」 横になった三蔵の顔を悟空が覗き込む。 「…暫く寝る。少ししたら起こせ」 きょとんとしながらも反射的に頷く悟空を確認すると、三蔵は敷き伸べられた布団の上でそのまま眠ってしまった。
二人が宿の仲居に起こされたのは、翌日、十二月三十一日の夕闇に染まる時刻だった。 「さんぞ、連れてきてくれてありがとうな」 それから三蔵が仕事で忙しかった間に、悟空が見つけたモノや体験を身振り手振りを交えながら悟空が話、それを肴に三蔵は盃を進めた。
夕食の後、二人は部屋に備え付けの露天風呂に入った。 除夜の鐘の音が微かに聞こえて来る頃、三蔵と悟空は運ばれた年越しそばを食べながら、少し前から降りだした雪を眺めていた。 「…雪、降ってる」 蕎麦を食べかけたまま、悟空はぼんやり窓の外でちらつく雪に見入っていた。 「積もるのかな?」 ふっと、吐息のような笑い声を漏らすと、悟空は残った蕎麦を食べ始めた。
翌朝、二人は昼前に目が覚めた。 雪が降ると気持ちが不安定になる悟空を宥めるつもりが、結局、その身体を抱くことになった。 「おはよ」 はんなりと笑う笑顔に返事を返せば、悟空も起き上がった。 「えっと…」 もそもそと寝乱れた浴衣を直し、悟空は三蔵の前に正座をする。 「三蔵、えっと…明けましておめでとうございます。んで、今年もよろしくお願いします」 ぺこっと、布団に両手をついて悟空はお辞儀をした。 「ああ、世話してやるよ、悟空」 三蔵の言葉が悟空の胸の内に落ちる前に、三蔵は悟空の唇に軽く触れ、小さく囁いた。 「今年もちゃんと傍に居ろよ」
正月三が日、三蔵と悟空は宿で過ごし、寺院へ戻ったのは新年も五日を過ぎた昼過ぎだった。 それから三蔵が逃げた年末年始の行事と仕事の付けが、逃げ出すことも敵わないほどのスケジュールで回ってきた。 今年も賑やかに過ぎてゆくらしい。
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