still time




良い地酒を手に入れたと、八戒が嬉しそうに宿の部屋に戻って来た。

その日は悟浄も遊びに行った先での実入りが良かったのか、美味そうなつまみと酒瓶を抱えて帰ってきた。
悟空と宿に残っていた三蔵を誘って、必然、酒盛りとなる。




四人部屋の窓際の床に、三蔵、悟浄、八戒は座り込んで、夜更けの酒宴を開いた。




比較的大きな窓から十三夜の月が、青年達の楽しそうな姿を見下ろしている。
そのすぐ傍の寝台では、青年達が愛して止まぬ少年が、静かな寝息をたて、白い翼竜がその枕元で丸くなって眠っていた。




静かな時間。
戦いに明け暮れる生活の中で訪れた緩やかな時間。
口を開く事もなく、お互いに酒を酌み交わしながら穏やかな時間は過ぎてゆく。




と、何かを思いついたように八戒が口を開いた。

「一体…何がいいんでしょうねぇ」
「あ?」

八戒のため息混じりの声に、悟浄が怪訝な顔をする。
その顔に柔らかく笑いかけ、八戒は視線を傍らで眠る悟空へと流した。

「サル?サルがどーかした?」

八戒の視線の先で幸せそうに眠る悟空を見やって、悟浄は訳がわからんと首を捻る。
三蔵はちらと、視線を二人に投げただけで、湯飲みの酒を空ける。

「悟空の傍に居ると気分が楽になるんですよ。あの笑顔の所為ですかねぇ」

くつくつと八戒が、面白そうに笑う。

「さあな。ま、アイツが笑ってっと、こっちの気分までも軽くなるのは事実だけどよ」
「でしょう?」

八戒がいつになく嬉しそうに笑う。




本当に悟空の笑顔は不思議だ。
刺客達に襲われて疲れ切っていても、あの明るい笑顔に奮い立つ。
昔の古傷が痛んでも、あの笑顔を見れば、痛みが退いてゆくのだ。

大地に愛され、慈しまれた存在。
この世に唯一無二の存在。

くるくると一時も同じ表情をしていない幼い容。
その幼い顔の殆どを占領している大きな金晴眼。
しなやかで強い身体と透明で何よりも強靱な心。

何気ない一言が、暗い闇に閉ざされた心に光を与える。
まっすぐな光。
それが、悟空。




「…ガキだけどよ、時々すっげぇ大人びるだろ。やっぱあれかねぇ…一人で岩牢に何百年も入れられてたからか?」
「そうですよね。僕らがびっくりするほど、老成した表情を偶に見せますよね」

空になった悟浄の湯飲みに酒を注ぎながら、八戒が頷く。
そんな二人に三蔵は、小さく鼻を鳴らした。

「三蔵?」
「サルの大人びた表情は、諦めなんだよ」
「諦めぇ?あの人一倍諦めの悪いヤツが?」

驚く悟浄を横目に、三蔵は頷く。

「諦めるって…何をですか?」
「…全て……をだよ」

答えながら悟空を連れ出した頃のことを三蔵は、思い出していた。




全てを諦め、求めることを止めた生気のない黄金の瞳。
身体に感じる刺激も欲求も何も感じなかった。
生きるという意欲が、欠片もなかった。
ただ、岩牢から自分を出した三蔵を鳥の雛が動くモノを最初に親と認識するようなそんなすり込みで求めていた。
寺院へ連れ帰るその旅路で、欠けたモノを埋めるように、諦めたモノをもう一度手にするように、三蔵を求め続けた。
本当に、今の悟空が信じられないほどに。




「──生きると言うことをどこか放棄していたしな」




何にでも興味を示し、何でも知りたがる悟空。
自分の感情を素直に吐露する悟空。
一時も同じ表情をしない、楽しいほどにころころと変わる悟空の表情。
人の何倍も食べては、すぐに空腹を訴える悟空。
強請り上手で、意地っ張りで。




八戒も悟浄も想像すら出来ない。
出逢った時、悟空はもう今の悟空だったから。

「想像…できませんね」
「…だな」

お互いに顔を見合わせる八戒と悟浄に、三蔵は薄く笑うと湯飲みの酒を一気に呷った。

「てめえらだって、俺だって似たような時期があっただろうが」

差し出す三蔵の湯飲みに酒を注ぎながら、八戒は曖昧に頷き、

「言われてみればそうですが、最近、忘れてますねぇ」

にっこりと、笑顔を浮かべる。

「色々、忙しかったし、そーいや忘れてたわ」

にっと、笑う悟浄に、

「簡単な頭だな」

と、揶揄する。

「なら、てめえはどうなんだよ、三蔵サマ」
「…ふん」

三蔵の返事に、

「忘れてたんですよね」

と、八戒が頷く。

「喧しい」

顔を顰めて、三蔵は酒を口に運んだ。











月が中天を過ぎ、時間も夜中を過ぎた頃、三人の静かな宴はまだ続いていた。




と、悟空が寝台に身体を起こした。
その気配に三人が顔を向けると、なんとも気の緩んだ幸せそうな笑顔を浮かべる。
八戒が小さく呼びかけると、

「…おしっこ…」

そう言って、もそもそ寝台から出て行った。

「寝ぼけてます?」
「てるよな…」
「…ああ」

宿の洗面所に向かった悟空の姿を思いながら、三人は悟空が戻ってくるのを何故か、固唾を呑んで待った。
程なくして洗面所から水の流れる音が聞こえ、半分寝こけた悟空が危なっかしい足取りで戻ってきた。
そして、そのまま寝台に戻るのかと思いきや、三蔵の傍らに来ると糸の切れた人形のように三蔵の腕の中に倒れ込んだ。

「お、おい…」

慌てて受けとめる三蔵の手から酒の入った湯飲みが転げ落ちる。
悟空は三蔵の狼狽を知らず、そのまま三蔵の膝に丸くなると寝息を立て始めた。

「寝ちまったぞ」

悟浄が悟空の顔を覗き込んで、呆れた顔を八戒に向けた。
その顔に八戒は、困ったような顔を向けて息を吐き、

「本当に、悟空は三蔵の傍がいいんですねぇ」

と、羨ましげな声を上げるのだった。

「しかたないっしょ、サルにとってこんな坊主でも太陽なんだそうだから」
「喧しいっ」

三蔵の悪態に肩を竦め、悟浄は転がった三蔵の湯飲みを拾う。
それに酒を注ぎ直し、三蔵に差し出した。
その間に三蔵は、膝の上の悟空を抱きやすいように位置を変え、悟空の寝心地を確かめている。
そんな三蔵の様子を八戒は、何とも言えない表情で見つめていた。

「…太陽っていうか、生きる支えって感じでしょうか」

悟浄の言葉に、八戒が呟く。
その呟きに、三蔵は小さく喉を鳴らして笑った。

「何よ?」
「三蔵…?」

三蔵の笑い声に、悟浄と八戒は訝しげな視線を投げる。

「俺は太陽なんかじゃねぇよ。太陽はコイツだ。真っ直ぐで、どうにも綺麗なヤツだ」

初めて聞く三蔵の言葉に、翠と紅い瞳がゆっくりと見開かれる。
それに気付かない三蔵は、空いた片手で悟空の髪をゆっくりと梳きだした。
見つめる紫暗は何処までも穏やかだ。

「…いつでも手放せる気でいたんだが…結局、居着いちまった」
「居心地…良かったんですよ」
「なわけ、ねえだろうが」
「寺じゃなく、三蔵サマの傍がって?」
「だと、思いますよ」

悟浄の言葉を肯定する八戒に、三蔵は吃驚した視線を向ける。

「見てればわかりますよ」
「ほーんと、見てればな」
「……ふん」

ふいっと三蔵はにやつく二人から視線を外すと、湯飲みを呷り、空になった湯飲みを差し出す。
それに悟浄が、口の端に笑いを浮かべたまま、酒を注いだ。

「いいんでねぇの?自分で自分の居る場所を決めて、自分の意志で傍に居るのならさ」
「ですよ、三蔵」

愛しい小猿は、三蔵以外は眼中になく、小猿を一喜一憂させている自覚のないこの恋人兼保護者は、そんな思いをどう思っているのだろう。
八戒は、空になっては差し出される三蔵の湯飲みに酒を注ぎながら、それとはなしに話を振ってみた。
聞いてみたかったのだ。
三蔵の口から、例え酒に酔った勢いでも。

「悟空って、本当に三蔵が世界の全てですよね」
「…だから、困る」

八戒の言葉にすかさず返ってきた返事に、八戒はもとより悟浄までがまじまじと三蔵の顔を見返してしまった。

「何が困るってぇの?」
「悟空は自由なんだよ。何にも誰にも縛られることのない自由な存在なんだよ。俺の傍で、俺の感情にがんじがらめになる必要は、何処にもねぇ。岩牢から出てしばらくは仕方ないとも思ってたが…」
「でも、あなたと悟空はその…」
「そんなもの、何の理由にもなりゃしねぇし、何の束縛の力もねぇよ」




初めて知る三蔵の気持ち。

三蔵にとって悟空は、その魂の半身のような存在なのだと、手放すつもりだと語る言葉の端々から感じられる。
この美しく気高い魂の持ち主は、本当に己の欲望に関しては臆病で、ストイックで。
その手の中で無防備に眠る存在を見つめるその瞳の色に、その光に自覚がないのが、三蔵らしい。




八戒はそっと、悟浄に視線を送った。
長年の同居人は、八戒の意図を正確に読みとって、大きく伸びをした。

「ちょうど酒もなくなったし、お開きにすっかね」
「そうですね。明日も早いですし」

八戒が湯飲みを置き、三蔵を見やった。
と、つい今し方まで話していたはずの三蔵が、窓の下の壁に寄りかかって寝息を立てていた。

「…おやまぁ…」

八戒の声に悟浄は、三蔵の顔を覗き込み、

「お互い様だって気づきゃ、もう少し楽になるのにねぇ」

と、笑った。

「そうですが、そこが三蔵で、だから三蔵なんですよ」
「かもな」

悟浄は傍らの寝台から毛布を剥ぐと、三蔵と悟空に着せかけた。

窓から見える月は、もうすぐ西の空にその姿を隠してしまう。
夜明けまで、数時間。

八戒は散らかったモノを粗方片付けると、もう一度新しい湯飲みと、残った酒瓶を自分と悟浄の前に置いた。

「飲み直しましょうか?」
「お熱い二人を肴に?」
「ええ」
「じゃぁ、悟空の一途な思いと」
「三蔵の屈折した思いに…」

かちっと、湯飲みを合わせて、

「乾杯」

二人の囁く声が、夜明け前の夜空に消えた。




end




リクエスト:旅の途中、三人(三蔵、八戒、悟浄)で呑みながら、普段は素直に話さない悟空への気持ちを語る三蔵。
8888Hit ありがとうございました。
謹んで、みきまま 様に捧げます。
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