何がどうしてそうなったのか、既に記憶はないけれど、ただ、いつも自分をからかってくる紅い髪の男に言われた言葉が、胸を刺す棘になった。

「そんなことない…ぜってぇ…」

いつの間にか口論となって、売り言葉に買い言葉で、宥める翡翠の瞳の優しい人の言葉も聞こえないまま、飛び出してきてしまった。
きっと、心配しているだろうとか、あとを追いかけて来るかも知れないとか、そんなことに頭は廻らない。
ただ、言われた言葉がちくちくと、悟空の胸を傷付けていた。

「…ちゃんと…言ってくれてる…」

痛む胸に言い聞かせるようにこぼれる言葉は、不安に揺れて、涙の色が滲んでいた。



好きと言って…
じくじくと痛む胸を抱えたまま、帰り着いた寺院は、まだ、三蔵の生誕祭で賑わっていた。
参道の左右に並んだ出店、人々の喧騒、門を潜れば、煌びやかな五色の垂れ幕に覆われた回廊、水路には造花が浮かべられ、燈籠にまで花が飾られていた。
夕暮れを迎えてなお、大雄宝殿前の庭に人が溢れ、壇信徒からの祝福を受けるために今日最後の三蔵法師の登場を待っている。
その溢れかえる人々を避けるように、垂れ幕の陰を通って、寺院の奥、三蔵と暮らす寝所へ戻ってきた。

扉を開けて、部屋の中を覗いても三蔵が居るはずもなく、部屋の中は今朝、悟空が出掛けた時のまま、夕暮れの光に染まっていた。
悟空は一つ、ため息をつくと、部屋に入り、窓際に重ねたクッションの海へ、埋もれるように膝を抱えて座った。

胸はまだ、痛い。

三蔵と暮らすようになって両手で数えられない程の時間が過ぎた。
いつもいつも馬鹿だ、アホウだ、サルだと、容赦ないけれど、でも、三蔵は悟空を寺院の僧侶達がするような酷い扱いをしない。
ちゃんと、悟空のことを見ていてくれて、一人の自立した人間として扱ってくれる。
自分に厳しい人だから、悟空にも厳しい所もあるけれど、悟空が三蔵の手を必要としている時は、何も言わずに手を貸してくれる。
見えにくいけれど、確かな愛情を持って傍にいてくれる。

そして、何より三蔵は今、出逢った頃よりももっと、もっと世界のどんなものよりも悟空の一番大事な大切な存在になった。

だから、不安に思うことは何一つ無いはずなのに…。
なのに───

「…大丈夫…」

信じたいのに…。

信じたい。
けれど、三蔵のことを思い出せば出す程、その自信が揺らいでしまう。

三蔵は無口だから。
三蔵は言葉が足りないから。
三蔵は何も言わないから。

でも───

三蔵の瞳は何でも言ってくれるから。
三蔵の態度ははっきりしているから。
三蔵の温もりは確かだから。

疑うことは何もない。
ちゃんとわかっているのに。

「…悟浄のバカやろ…」

悟浄があんなことを言うから。

───お前、三蔵サマに好きって、愛してるって、ちゃんと言ってもらってるのか?

なんて言うから。

「バカやろ…」
「何がバカ野郎なんだ?」

こぼれた呟きに問いが返されて、悟空は驚いて顔を上げた。
そこには、自分の生誕祭の行事を終えた三蔵が、不思議そうな顔をして悟空を見下ろしていた。

「…さんぞ」

三蔵を見上げる悟空の金瞳が潤んでいることに、三蔵は気付いたらしく、眉間に微かに皺が寄った。

「どうした?」

金冠を脱ぎ、銀と紫の糸で織られた七条袈裟を脱ぎ、けぶるような薄紫に染められた衣に手をかけた三蔵が問うた。

「…何でも、ない…」

首を振って、笑ったはずだった。
けれど、三蔵の眉間の皺が深くなるから、誤魔化せななかったことに悟空の胸の痛みが増す。

「何でもないって顔じゃねえぞ」

ふわりと、三蔵の側仕えが衣に焚きしめている香の香りが悟空を包んだ。
三蔵が悟空の目の前に膝を付いたからだ。

「悟空?」

名前を呼ばれてしまえばもう、我慢はきかなかった。

「三蔵!」

それは一瞬。
三蔵を呼んだその勢いのまま、悟空は三蔵に飛びついた。

「なっ──!?」

悟空の萎れた様子に顔を覗き込もうとしていた三蔵はその不意打ちに、悟空の身体を支えきれず、悟空に押し倒されるように床に転がった。

「何しやが…」
「三蔵!」

三蔵が声を上げるそれよりも大きな声で悟空が三蔵を呼ぶから、三蔵は紫暗を見開いて、自分の上に乗った悟空を見やった。
綺麗な紫暗の瞳に必死で、今にも泣き出しそうな悟空の顔が見える。
それに気付かないふりをして、驚く三蔵に構わず、悟空は三蔵の太股を跨ぐように座り、三蔵の身体の両側に手をついて、三蔵に迫った。

「三蔵!俺のこと好きだよな?」

その必死な様子に思わず三蔵は頷く。
三蔵の頷きに、一瞬、悟空は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
が、すぐにそれを引っ込め、また三蔵に迫る。

「だったら…好きだったら好きって言って!」

その迫力に三蔵は紫暗を見開いたまま何も答えられないのか、答えをくれない。

「なあってば!」

ずいっと、三蔵に自分の顔を近づけて悟空は答えて欲しいと迫った。
その強引だけれど、悟空の何か思い詰めた様子が、三蔵の琴線に触れる。

一体何があったと言うのか。

今朝はいつも通り、どこも変わった様子は無かった。
むしろ楽しそうですらあった。
クソ忌々しい自分の生誕祭に三蔵が出席している間、今年はとある事件で知り合った人間達の所へ遊びにいくのだと嬉しそうに準備をして、意気揚々と出掛けて行ったはずだ。
そして、帰りは三蔵の生誕祭が完全に終わった時間のはずで、こんなに早く帰ってくいるはずはない。

一体何があったのか。
何か言われたのか。
何かされたのか。

そこで、三蔵の思考は悟空へ引き戻された。

「なあってば、俺のこと好きって言って?」

どこか心ここにあらずだった三蔵の紫暗に光が戻るのを確認して、今度は悟空は三蔵に強請った。
迫っても拉致があかないと感じたからだ。
力ずくで「好きだ」と三蔵に言って欲しい訳ではないのだから。
ただ、悟浄に言われて目を覚ましたこの不安を三蔵の言葉で消して欲しいだけなのだから。
たった一言。
その一言で不安は消えるのだから。

「三蔵…好きって、俺のこと好きだって言って?」

小首を傾げ、まるで口付けでも強請るように三蔵に顔を近づける。

「好きって…言って?」

見上げる悟空の金瞳が潤んで、見下ろす三蔵の紫暗の色が深くなる。
そして、

「…悟空」

三蔵が名前を呼んだ。
それは悟空の大好きな、悟空しか知らない声音。
大好きな三蔵の甘く深い声。

「……ぁ…」

ぽろりと、不意に悟空の瞳から透明な雫がこぼれ落ちた。
ぱたりと、それは三蔵の衣に落ち、そこだけ色が濃くなる。
やがて、その雫はぱたぱたと衣に降る雨になり、その雨は小さな嗚咽を連れてきたのだった。

その声に三蔵は自分の身体を支えていた腕を離し、悟空の身体を抱き込むと床に寝転んだ。
悟空は三蔵に抱き込まれたまま、その胸に顔を埋めて嗚咽をこぼしている。
しばらく、ほんのしばらくして、悟空の嗚咽が止まった。

「…ったく…何やってんだ、お前は」

ため息混じりに問えば、腕の中の身体がひくりと震え、くぐもった声で答えが返った。

「何も…してない」

強がった返事に三蔵の口元が綻んだ。

「そうかよ」
「そうだよ」

三蔵の自分を呼ぶ声に我慢していた何かが切れて泣いて、そうして三蔵に縋ってしまえば、情けなくも弱い自分がいるのだけれど、だからこそ気付くことがこうしてまた増える。

そうだ。

三蔵はいつだってそうだ。
何も言わない。
言わないけれど、こうして悟空を抱きしめてくれる腕が、その温もりが、鼓動が、息づかいが三蔵の気持ちを伝えてくれる。
人を寄せ付けないけれど、とても優しい人の不器用で精一杯の愛情。

「さんぞ、好きだよ」

胸に顔を埋めたまま言えば、その声に応えるように三蔵が身体を起こすのがわかった。
そうして、耳元に触れる三蔵の吐息と───

「言わねえとわからねぇバカのためだからな」

くしゃりと、後ろ頭を掻き回され、つむじに三蔵が触れた。
だから、

「言わないとわかんないだって、三蔵は知ってんのか?」

言えば、

「お前限定だ、バカ猿」

そう言って、三蔵は悟空の後頭部を叩いた。

「………うん」

頷く悟空の見える素肌が朱く染まっていた。
それを見下ろす三蔵の頬も仄かに染まっていたことを悟空は気付かなかった。




end

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