何がどうしてそうなったのか、既に記憶はないけれど、ただ、いつも自分をからかってくる紅い髪の男に言われた言葉が、胸を刺す棘になった。 「そんなことない…ぜってぇ…」 いつの間にか口論となって、売り言葉に買い言葉で、宥める翡翠の瞳の優しい人の言葉も聞こえないまま、飛び出してきてしまった。 「…ちゃんと…言ってくれてる…」 痛む胸に言い聞かせるようにこぼれる言葉は、不安に揺れて、涙の色が滲んでいた。
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好きと言って… |
じくじくと痛む胸を抱えたまま、帰り着いた寺院は、まだ、三蔵の生誕祭で賑わっていた。 参道の左右に並んだ出店、人々の喧騒、門を潜れば、煌びやかな五色の垂れ幕に覆われた回廊、水路には造花が浮かべられ、燈籠にまで花が飾られていた。 夕暮れを迎えてなお、大雄宝殿前の庭に人が溢れ、壇信徒からの祝福を受けるために今日最後の三蔵法師の登場を待っている。 その溢れかえる人々を避けるように、垂れ幕の陰を通って、寺院の奥、三蔵と暮らす寝所へ戻ってきた。 扉を開けて、部屋の中を覗いても三蔵が居るはずもなく、部屋の中は今朝、悟空が出掛けた時のまま、夕暮れの光に染まっていた。 胸はまだ、痛い。 三蔵と暮らすようになって両手で数えられない程の時間が過ぎた。 そして、何より三蔵は今、出逢った頃よりももっと、もっと世界のどんなものよりも悟空の一番大事な大切な存在になった。 だから、不安に思うことは何一つ無いはずなのに…。 「…大丈夫…」 信じたいのに…。 信じたい。 三蔵は無口だから。 でも─── 三蔵の瞳は何でも言ってくれるから。 疑うことは何もない。 「…悟浄のバカやろ…」 悟浄があんなことを言うから。 ───お前、三蔵サマに好きって、愛してるって、ちゃんと言ってもらってるのか? なんて言うから。 「バカやろ…」 こぼれた呟きに問いが返されて、悟空は驚いて顔を上げた。 「…さんぞ」 三蔵を見上げる悟空の金瞳が潤んでいることに、三蔵は気付いたらしく、眉間に微かに皺が寄った。 「どうした?」 金冠を脱ぎ、銀と紫の糸で織られた七条袈裟を脱ぎ、けぶるような薄紫に染められた衣に手をかけた三蔵が問うた。 「…何でも、ない…」 首を振って、笑ったはずだった。 「何でもないって顔じゃねえぞ」 ふわりと、三蔵の側仕えが衣に焚きしめている香の香りが悟空を包んだ。 「悟空?」 名前を呼ばれてしまえばもう、我慢はきかなかった。 「三蔵!」 それは一瞬。 「なっ──!?」 悟空の萎れた様子に顔を覗き込もうとしていた三蔵はその不意打ちに、悟空の身体を支えきれず、悟空に押し倒されるように床に転がった。 「何しやが…」 三蔵が声を上げるそれよりも大きな声で悟空が三蔵を呼ぶから、三蔵は紫暗を見開いて、自分の上に乗った悟空を見やった。 「三蔵!俺のこと好きだよな?」 その必死な様子に思わず三蔵は頷く。 「だったら…好きだったら好きって言って!」 その迫力に三蔵は紫暗を見開いたまま何も答えられないのか、答えをくれない。 「なあってば!」 ずいっと、三蔵に自分の顔を近づけて悟空は答えて欲しいと迫った。 一体何があったと言うのか。 今朝はいつも通り、どこも変わった様子は無かった。 一体何があったのか。 そこで、三蔵の思考は悟空へ引き戻された。 「なあってば、俺のこと好きって言って?」 どこか心ここにあらずだった三蔵の紫暗に光が戻るのを確認して、今度は悟空は三蔵に強請った。 「三蔵…好きって、俺のこと好きだって言って?」 小首を傾げ、まるで口付けでも強請るように三蔵に顔を近づける。 「好きって…言って?」 見上げる悟空の金瞳が潤んで、見下ろす三蔵の紫暗の色が深くなる。 「…悟空」 三蔵が名前を呼んだ。 「……ぁ…」 ぽろりと、不意に悟空の瞳から透明な雫がこぼれ落ちた。 その声に三蔵は自分の身体を支えていた腕を離し、悟空の身体を抱き込むと床に寝転んだ。 「…ったく…何やってんだ、お前は」 ため息混じりに問えば、腕の中の身体がひくりと震え、くぐもった声で答えが返った。 「何も…してない」 強がった返事に三蔵の口元が綻んだ。 「そうかよ」 三蔵の自分を呼ぶ声に我慢していた何かが切れて泣いて、そうして三蔵に縋ってしまえば、情けなくも弱い自分がいるのだけれど、だからこそ気付くことがこうしてまた増える。 そうだ。 三蔵はいつだってそうだ。 「さんぞ、好きだよ」 胸に顔を埋めたまま言えば、その声に応えるように三蔵が身体を起こすのがわかった。 「言わねえとわからねぇバカのためだからな」 くしゃりと、後ろ頭を掻き回され、つむじに三蔵が触れた。 「言わないとわかんないだって、三蔵は知ってんのか?」 言えば、 「お前限定だ、バカ猿」 そう言って、三蔵は悟空の後頭部を叩いた。 「………うん」 頷く悟空の見える素肌が朱く染まっていた。
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