寺院の中に白クマが一頭。 金髪に紫暗の瞳のそれは美しい白クマが、広い部屋の中を行ったり来たり。 愛しい幼子の帰りを待ちわびている。
ただいま!
子供が街への道を駆けて行く。
ことの発端は些細なことだった。
悟空を寺院に連れ帰って、かれこれ二年が経とうとしていた。 その間、寺院の近く以外へは出さずに来た。
そんなある日、三蔵は手持ちの煙草が切れたことに気が付いた。 未成年者のくせにこの頃にはいっぱしの喫煙者に、三蔵は成り下がっていた。 そこへ悟空が入ってきた。 仕事をしているはずの三蔵が寝所にいることに驚いて大きな瞳を一瞬見開いたが、すぐに零れんばかりの笑顔を浮かべて走り寄ってきた。 「さんぞー」 その声に振り向けば、悟空がすぐ傍で嬉しそうに笑っていた。 「なあ、なあ、仕事終わったのか?」 くいくいと僧衣の袂を引っ張って聞いてくる悟空に、三蔵は何かを思いついた。 「いや、まだ終わってねえ」 わからないと、小首を傾げる悟空に、三蔵は口の端を上げて笑った。 「何…?」 きょとんとする悟空に、三蔵は「えっ?!」という顔をする。 「三蔵様?」 その声に二人が振り返った。 「笙玄、さんぞが俺に使いに行けって言うんだ」 悟空の言葉に、半ば呆れたような声音で返事をする笙玄を三蔵は睨んだ。 「三蔵様、本当でございますか?」 別に後ろ暗いことはないのだが、笙玄の物言いに何となく三蔵は、罪の意識に襲われてしまう。 「なあ、使い、お…使いって…何?食えるの?なあ…」 一瞬交錯した三蔵と笙玄の緊張を一蹴する悟空の質問に、三蔵はがっくりと肩を落とし、笙玄は引きつった笑顔を浮かべた。 「悟空、お使いというのは、言いつけられた用事をする事で、三蔵様が仰っていらっしゃるのはお買い物に行ってこいと言うことなのです」 言い聞かせるように話す笙玄の言葉を真剣な面持ちで聞いていた悟空の顔が、嬉しさに輝いた。 「それって、俺が三蔵の役に立つってこと?三蔵のためになるの?」 勢い込む悟空に、笙玄は困ったように頷くしかなかった。 「んで、何を買い物に行くの?何を買ってくればいいの?」 くるりと悟空は三蔵に向き直った。 「煙草だ」 三蔵の言葉に笙玄は、何かを思い出したような声を上げた。 「何だ?」 そう言って深々と頭を下げる笙玄に三蔵は、深いため息を吐くことで許しを与え、悟空に、 「一箱も一本もねえんだよ。だから、大急ぎで行ってこい」 と、お金を渡した。 「マルボロ赤ソフト、3カートンだ。言ってみろ」 三蔵が言った煙草の銘柄を悟空に復唱させるが、酷く怪しいのに顔を僅かに顰めると、三蔵は手近な紙をメモ用紙代わりにして、大きな字で”マルボロ赤ソフト、3カートン”と書いてやった。 「落とさないでくださいね。気を付けて行くんですよ。たばこ屋さんに売っていますからくれぐれも間違わないでくださいね」 笙玄の言葉に首から提げた袋を握りしめて頷く。 「寄り道すんな、サル」 ぷっと、頬を膨らませて三蔵を見ると、 「気を付けて行ってこい」 と、悟空の頭をかき混ぜた。 「うん!」 零れんばかりの笑顔を残して、悟空は出かけて行った。
風が嬉しそうに道を走る子供の髪にまとわりつく。 暖かな日差しを受けて、悟空は街への道を駆け下る。 そして、今頃になって気が付いた。 自分は、三蔵と出会ってから一度も街に一人で来たことがないと言うことに。 突然、胸を覆う不安。 「どうしよう……」 三蔵と笙玄以外の人間は、苦手だ。
でも・・・。
今日は三蔵のために来たのだ。 「俺、頑張る!」 きゅっと、首から提げた巾着袋を握ると、悟空は街の門に向かって歩き出した。
悟空が立ち止まった場所から少し離れた木の陰から笙玄は、その様子を見つめていた。 何があっても見てるだけで、姿を見せないと。 本当なら三蔵自身が付いて来たかったに違いないのだ。
悟空はこわごわと街の門をくぐった。 門から続く大通りは、左右に沢山の家や商店が並び、その間を様々な露店が店を出して賑やかな市を形作っていた。 悟空は一呼吸、思いっきり深呼吸すると、目的のものを捜して市の中に一歩を踏み出した。
まず、目に付いたのは綺麗なチューリップやスイトピー、バラ等を売っている花屋だった。 「お花好きなのね。そんなに幸せそうに眺めてくれたらお花たちも幸せだわ。お礼にこれ、あなたにあげるわ」 目の前に差し出された黄色いガーベラと共にかけられた声に悟空はびっくりして、その場を走り去ってしまった。 「あっ…」 駆け去って行く小さな背中に、店員は小さなため息を吐くのだった。
走っていて人にぶつかった。 「ご、ごめん」 謝って顔を上げれば、店の看板用の人形だった。 「さんぞ…」 ぎゅっと、巾着袋を握って三蔵の名前を呼ぶと、気持ちが落ち着いてくる。 「そうだ、たばこ屋!」 はっと、顔を上げて当たりをきょろきょろと見回すと、路地で遊ぶ悟空と同じ年頃の子供達と目が合った。 「なあ、なあ、お前、見かけない奴だな」 わやわやと子供達に悟空は囲まれてしまった。 「…あ…あの…」 どぎまぎしている悟空の手を一人の子供が取った。 「なあ、今日はお前一人?」 女の子がそう言って、悟空の顔を覗き込んで笑った。 「俺?俺は…悟空、孫悟空」 名前を聞かれてようやく悟空の顔に笑顔が浮かんだ。 「俺、瞬瑛」 それぞれが自己紹介し、悟空に笑いかける。 「よろしくな」 と、満面の笑顔を浮かべたのだった。
家の影からその様子を見て、笙玄は嬉しくなった。
白クマよろしく、三蔵は居間の中を落ち着かない様子でうろうろしていた。 そうなのだ。 三蔵は悟空を送り出し、笙玄を送り出してようやく気が付いたのだ。 思い起こせば、街へ連れて行くと必ず、何かに怯えたように傍を離れなかった。 途中で道に迷ってはいないか。 変な奴に声をかけられてはいないか。 何より、一人で町へ来たことがない、そのことを思い出して不安になっていないかと。 イライラ、うろうろ、自分の考えに益々、落ち着きを無くす三蔵だった。
悟空は子供達と遊び始めた。 鬼ごっこやかくれんぼ。 一人ではできない遊びを声をかけてきた子供達と堪能した。 「今度は悟空が、鬼な」 じゃんけんで負けてそう言われ、頷きかけた悟空がはっとしたように周囲を見回した。 「どうしたの?」 きょろきょろ周囲を見回して、通りの西側の角で煙草を吸う人を見つけた。 「俺、三蔵のお使いってので来たんだったんだ」 悟空の答えにその場にいた子供達は、びっくりした。 「お坊さんは、煙草吸っちゃいけないって母さんが言ってたぞ」 ぷうっと頬を膨らませる悟空に、子供達はお互いを見合った。 「三蔵は偉いから…だから、煙草吸ってもいいんだもん」 泣きそうな声で回りの子供達に悟空は、精一杯反論する。 「ごめん、悟空」 口々に泣くのをこらえる悟空に、子供達は謝った。 「…あのさ、たばこ屋さんってどこ?」 涙を拭いて、ちょっと恥ずかしそうに笑った悟空の問いかけに、艮が頷いた。 「知ってるぞ。俺、父ちゃんの使いでよく行くんだ」 悟空が笑うと、艮も子供達も笑った。
「おばさーん!」 たばこ屋の店の扉を開けながら、艮が店の奥へ怒鳴った。 「いらっしゃい。おや、艮。父ちゃんのお使いかい?」 店先に居る子供の中に顔なじみの艮を見つけて、女将は相好をくずした。 「俺じゃないんだ。こいつ、悟空が用事なんだ」 艮はそう言って、悟空を女将の前に押し出した。 「おや、可愛い子だね。初めてかい?」 悟空の言葉に女将が、びっくりして大きな声を上げる。 「悟空?」 悟空の態度に女将は、改めて優しい笑顔を浮かべると、悟空を呼んだ。 「びっくりさせちまったね」 と言って、女将は悟空の頭を撫でた。 「で、三蔵法師様の煙草かい?」 悟空は頷くと、首から提げた巾着袋から紙とお金を出して、女将に手渡した。 「はい。これがそうだよ」 にこっと笑った悟空の笑顔に、女将も柔らかな笑顔を返すと、煙草を紙袋に入れて悟空に手渡し、おつりとレシートを巾着袋に戻してやった。 「気を付けてお帰り。三蔵法師様によろしくお伝えしておくれよ」 悟空は零れるような笑顔を向けると、艮たちと一緒に店を後にした。
たばこ屋の向かいの家の陰から悟空の買い物を見届けた笙玄は、寺院へ戻ることにした。 まだ、悟空のことは気がかりだったが、足の速い悟空より先に寺院に着かなくてはいけないと思うと、時間はそんなになかった。 笙玄は子供達と楽しそうに街の門に向かう悟空を振り返り振り返り、大急ぎで寺院を目指して歩き出した。
帰り道、子供達の家を教えてもらいながら、悟空は子供達に見送られて帰ることとなった。 途中、艮の姉がひと月ほど前に結婚して、新婚ほやほやでその熱々ぶりが面白いからと、その二人を見に行くこととなった。 「あそこが、姉ちゃんの家」 指さした家の戸が丁度開き、艮の姉だろう女性が家の前に立つ男性を迎え入れるところだった。 「な、面白れーだろ。いっつもああやってんだぜ」 喧しく言い合う艮達をよそに、悟空は今見た光景が頭から離れなかった。
帰ったら、三蔵にしてみようか。
悟空はそう思い立ったら、居ても立ってもいられなくなった。 「俺、帰るな」 艮達の返事も待たず、悟空は寺院に向かって走り出した。
寺院への道を飛ぶように走る子供の背中を追うように、夕焼けが始まろうとしていた。
寺院では、子供の帰りを今か今かと、落ち着き無く動き回って待っている美しい白クマがいる。
悟空は寺院の総門を抜け、僧侶達に見つからないように回廊を渡って、三蔵の待っている寝所を目指して走った。 「ただいま!三蔵」 勢いよく開けた扉の前に、三蔵が立っていた。 「さんぞ、ただいま!ただいま!さんぞぉ」 抱きついてきた悟空をしっかり受けとめて、三蔵はようやく心から安心した。 無事に帰った来たことに。 「三蔵、あのな、あのな…えっと、ただいま」 身体を離し、三蔵を見上げ、ちょっと頬を染めて悟空はそう言うと、三蔵の頬にそっと口付けた。 「おかえり」 と、小さな小さな声で答えてやった。
end |
リクエスト:悟空の初めてのお使い編、ただいまのちゅうのおまけ付き。 |
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ありがとうございました。 謹んで、鷹耶 光さまに捧げます。 |
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