悟空は、目の前に広がる景色に一瞬で目を奪われてしまっていた。
しばらく立ち尽くしたまま、飽くことなく眺めやる。
───どれだけそうしていただろう。
ふいに踵を返すと、少年は元来た道を走り出した。




輝きの在処




ひたすら西へと向かう旅も、馬鹿正直に真西に向かってジープを走らせるわけにはいかない。
途中の補給も鑑みたルートの選定は、主に三蔵と八戒との話し合いによって決していた。とはいえ、長い道中いつも計画通りに進むはずもなく。
──たとえば急な天候の変化だとか、質より量の妖怪の襲撃によってだとか、理由は様々なのだが。
道を外れてしまうのも、そう珍しいことではなかった。
今回の立ち往生も、そういった些細なトラブルの結果だったりするわけで。
人の手はおろか、妖怪すら分け入らないだろう深い山間に彼らは迷いこんでいた。
それでも何とかジープで道を探していたのだが、目に見えて道幅が狭くなったため、いったん車を止め、手分けして道を探すことになったのだった。




来た道を戻っていけば、やがて多少なりとも開けた場所に出る。
其処には、目印である車体化したジープとその傍らでつまらなそうに紫煙をけぶらせる金髪の僧侶の姿があった。
ぱたぱたと足音を立てて近付けば、面倒くさげな視線のみが無言で返された。

「あれー? 八戒と悟浄は、まだ戻ってないのか?」

言いながら辺りを窺うが、近くに他の者の気配は感じられない。
自分がここに戻ってきた理由からするとそれはいささか残念だったが、とりあえず三蔵はいるわけだし、とまだ少し昂揚した気分のまま思う。

「お前が早かったんだろ。」

三蔵は、そう素っ気なく答えながら短くなった煙草を落とす。
落ちていく吸い殻を、悟空が何気なく目で追えば、そこに同じモノが複数あるのを見咎めて。
悟空は途端に頬をふくらませた。

「ってーか三蔵、サボってたんじゃん!」

人に働かせておいてと低く呻って見せても、三蔵は変わらず超然とした態度を崩さない。

「肉体労働はオマエら専門だろ。それより、道は見つけたのか?」

全くなんだってこんなに無駄に偉そうなんだろうと認識を新たにしていた悟空だったが、三蔵の言葉に俄に当初の目的を思い出す。
思い出したら思い出したで、じっとしてなどいられなかった。

「そうだった! や、そうじゃないんだけど!」

三蔵にとって意味不明なことを口走りながら、言葉で説明するより先に身体が動くのが悟空である。
遠慮もなしに法衣の裾をひっ掴むと、こっちこっち、と至極嬉しそうに引っ張るのだ。
なんだか様子がおかしい気もしたが、進める道を見つけたのなら三蔵に断る理由はない。
ジープがここにいるのなら、他のふたりが戻ってきてもはぐれる心配はないだろう。
引っ張るな、と一度軽くハリセンを落としてから、痛みで顔をしかめながらも尚促してくる少年の後に続くべく、三蔵は重い腰を上げた。





よくもまあわざわざこんなひどい獣道を選んで道を探したものだと、三蔵は呆れてしまう。
それが実に悟空らしいといえばそうなのだが。
ようやく人が通れるくらいの木々の隙間に、何とか身体をくぐらせながらの感想である。
こんな歩きづらいところを歩かせやがってという不平不満は膨大なのだが、道の困難さ故に文句を言うのもままならない。
それでも季節柄、あまり葉が生い茂っていない為まだ見通しが良いというのがせめてもの救いだろうか。
もっとも本格的な冬にはまだ間があり、其処ここで見られる落葉樹は鮮やかに色づく葉を纏ったままであったが。
とりあえず諸々のストレス発散は悟空の案内する場所に出てからだと心に決めて、三蔵は歩くことに専念する。
そしてやはり黙々と──しかし何処か楽しげに──歩を進める悟空の背中を目で追って。
三蔵は、軽い既視感を覚えていた。


そうだ。
旅に出る前、まだ長安の寺院にいた頃。
それは何度か目にしていた光景だった。
公務に明け暮れる三蔵の僅かな余暇を狙って、悟空はことある事に彼を外へと引っ張り出した。
三蔵だって、そうおいそれと応じてやることはしなかったが。
それでも、五回に一回くらいは少年の粘り勝ちだったような気がする。
悟空が自発的に三蔵を連れて行こうとする場所が、町中など人が多いところだったことは滅多にない。
当の三蔵が人混みを好まないのを知っていた所為でもあるし。
それに今まで案内された場所から考えれば、答えはいたって単純明快。
悟空は常に、『とっておき』の場所へ三蔵を案内していたのだった。
つまり自分だけが見つけた特別に綺麗な──いわば宝物のようなところへ。
其処を三蔵だけに教えるというのは、たぶん少年の中で大きな意味を持つことなのだ。
それがわかっていたから、何度かに一度とはいえ悟空の提案に頷いていたのかもしれない。
そんな時必ずといって良いほど険しい道程つきでなければ、妥協の回数は増えていたかもしれない、とも思うのだが。


今のこの状況は、それと酷似しているのだ。
──と、そこまで考えてから。
少年の何処かうきうきとした様子と、先程の意味不明な言葉とを照らし合わせてみて。
非常に嫌な予感が沸き起こり、三蔵が形の良い柳眉をひそめた、
その時。




「三蔵! ほら、ここ。」




明るく弾む声を合図とするかのように、いつのまにか前方の視界が拓けていた。
生い茂る木立に遮られ、陽の光があまり届かないところを長く歩いてきたせいだろうか。目に入る光の量が一気に増した気さえした。
きっと、その所為もあるのだろうと思う。
目前の景色が、痛いくらいに眩しく鮮やかに映ったのは。



開けた其処からは連なる山々が一望できた。
天まで届けとばかりにそびえ立つ峰は、高く澄んだ青空を背景に、今が盛りといわんばかりの紅葉を燃え上がらせ幾重もの錦を為している。
濃い赤と橙と、ところどころに淡くにじむ黄金色とが、人の手では決して為し得ない色彩を造りだし、それが天空のくっきりした青とコントラストを為す様は、また格別に素晴らしい。
それをさらに幻想的に見せているのが、目前に優美に広がる湖の透明度。
さほど大きくはないが、一点の曇りもない澄んだ湖面はまるで鏡面のようにぴん、と張りつめている。
覗き込むまでもなく、透きとおった雄大な鏡は、現と対になった朱に燃える世界を見事なまでに映し出しているのだった。



まさに、圧巻。
華麗にして荘厳。



三蔵は束の間、声もなくして立ちすくんでしまう。
それほど素晴らしいものだったのだ。
人が立ち入ってはいけない領域なのだといわれても、無条件で信じられそうなほどに。



けれど、三蔵の目を何より惹き付けたのは──。



「な? すっげーだろ?」



心底嬉しそうに言う少年が、金色の瞳をこちらに向けて微笑んでいた。
風に軽く撫でられて揺れる大地色の艶やかな髪は、その色彩のせいか、華やかな風景ともしっくりと馴染んでいた。
得意げに胸を張り、今にも走り出しそうな小柄な身体は、瑞々しい生命力と躍動感に満ちあふれ。
煌めく黄金色の双玉は、彼方で輝く太陽の光にさえ見劣りしないほどの光彩を放っていた。
自然そのもの、大地そのものの恵みを凝縮したかのような此処にあっても、全く違和を感じさせることなく、彼は其処に在った。

まるで、それこそが相応しいのだというように。
ヒトの世界に留まっていることは罪悪なのだ、と糾弾するかのように──。



──そのときの気持ちを、何と言えばいいだろう。



ひどく痛いような、哀しいような。
激しく憤るような、焦れるような。

なんとも形容しがたい、それでも奥底にある核のようなものが大きく揺さぶられるのを、三蔵は確かに感じていた。

──たぶん、悟空は。

ほんとうに好きなときに、この景色の中に溶けこんでいけるのだ。
息をするように、ごく自然に。
当たり前のように。
『彼ら』と共に生き、共に在って。
きっと、どこまでも何処までも───。





それを、しないのは。





「……三蔵?」

てっきり喜んでもらえると思ったのに、何故か黙ったままじっとこちらを見る三蔵に不安を覚え、おそるおそる声をかけた。
少しばかり開いた距離を埋めるようにひょこひょこと近付いていき、その表情を窺う。
とらえた紫暗は、目前の湖面よりも深く澄み、底の見えない静かさを湛えるばかり。

「……三蔵、どうかしたのか?」

悟空が先程よりも不安げに、さらに少し大きめの声音で呼ぶのに、三蔵は思い出したかのようにハリセンを取り出した。
──と。



スッパーン。



空気が乾いているので、驚くほど良く響く。
頭上で鳴った爽快ささえ感じる音に、いつもより威力が強いのじゃないかと悟空は叩かれた頭を抱え込む。

「〜〜〜っ、なにすんだよ!!」
「それはこっちの台詞だ、馬鹿ザル。道を見つけたなんぞ、人を騙しやがって。」
「騙してねぇって!! 言わなかっただけじゃんっ。」

同じことだろ、ともう一度ハリセンを奮うことで許してやる。
三蔵が勝手に勘違いしただけだろー、と尚も小声で訴えてくるのに、相手にしていたらきりがないと無視の姿勢を貫いた。

「…ちぇー。せっかく見つけたのになぁ。」

そう悔しそうにぼやくのを、三蔵は、やはりどこか痛い心地のまま見つめていた。

今のハリセンが、多分に別の意味での苛立ちを含んでいたのだと知ったら、悟空はどうするだろう。
怒るだろうか、詰るだろうか。
それとも困ったように笑うだろうか。
おそらく後者だと確信できる。
そんなものは見たくない。
見たく、ないのだ。
けれど此処で。この場所で。
そのことに全く触れずにいることは──ひどく卑怯な気がした。
鮮やかすぎる景色が、強烈なまでの自然の息吹が、三蔵にそれを強いている。



──だから。



こうすれば顔を見ないで済むのだと、自分に言い聞かせて。



「……え? ちょ、三蔵……?」



悟空のくぐもったような声が、直接、三蔵の身体に響いた。
声とともに漏れた吐息で三蔵の肩の辺りが微かに熱を持つが、それも束の間のこと。
山の冷えた空気がすぐに熱を奪っていってしまう。
けれども、熱の源たる少年の身体は温もりを宿したまま、三蔵の手の内にしっかりと収まっているわけで。
肩を掴んで引き寄せた腕をそっとずらして背中に回しそのまま抱きしめれば、所在なげに下げられていた少年の両腕が、おずおずと三蔵の法衣を掴んでくる。
外気が入り込む隙間もないほど重ねられた熱に、思っていたより身体が冷えていたのか、悟空は安堵のような緊張のような何ともいえない深い息をついた。
三蔵がそれに苦笑をこぼすと、顔にかかる程近くにある茶色の髪が、ふわりと頼りなげに揺れるのだった。

悟空は、何も言わなかった。
たぶん三蔵が云う言葉を待っているのだろう。
普段は本当に馬鹿ザルとしかいいようのない言動ばかりするくせに、こういう時に限って妙に思慮深かったりするのだから始末に困る。
戸惑い慌てて、喚いたりでもしてくれれば、言いたくないことをわざわざ言わなくても済むかもしれないのに。

「……悟空。」

名を呼ぶ。
それだけで、彼の心が大きく波打つのがわかる。
より大きな影響力を持っているのは。
この名前か。それとも、その名を呼ぶ声か。
後者であったらいい。その両方ならば、尚更───。


「お前は、自分の居場所を選べることを知っているのか。」


ずるい、のかもしれない。
かもしれない、ではなく、恐らくその通りなのだろう。
告げながら。問いながら。
自分という枷にしっかりと繋ぎとめたまま。
確かな温もりと存在を悟空に嫌というほど突きつけた上で、問うているのだから。

本当に此処にいていいのか。
──ココニ、イロ。
お前は自由だ。
──ツナギトメタイ。
全てを望めるはずなのに。
──オレイガイヲ、モトメルナ。

用意した言葉は全てが矛盾していた。
頭で判っていることと心で望むことが、これほど相反しているのも珍しいと皮肉げに思う。
だから結局、それ以上、三蔵の口から言葉が紡がれることはなく。

それでも、悟空は。

三蔵のたったひと言でさえ。
否。
それが他の誰でもない三蔵の言葉だからこそ、只それだけで、意図する正確な意味を汲み取ってしまうのだ。
──裏に潜む真意までは読みとれなくとも。

法衣を掴むだけだった指が、三蔵がそうするのと同じように背中に回され、その体温にしがみつく。

「俺……は、いつも居たいところにいたし。いま、でも。居たいところにいるよ……?」
これからだって、きっとそうだ。

その声は別段震えているわけではなかったけれど。
怒っているふうにも、泣きたそうにも聞こえて。
伝わってくる熱を媒介に彼の感情が今にも伝染しそうで、三蔵は本当に困ってしまった。
だからといってすぐに離す気にはなれず。
ただ、「そうか」と、またひと言だけで応えてから、暫くそのままでいた。


それほど時間は経っていなかったと思う。
けれど、どちらともなく体を離した時、ちゃんと互いの顔が見れるくらいの時間はおいていたはずだった。
──金眼は、うっすらと水の膜を張ったように常よりも艶を増していたけれど。

「……三蔵って、ちゃんとあったかいんだな。」
第一声がそれだった。
「当たり前だろ。冷たかったら死んでる。」
反射的に、慣れた憎まれ口がついて出る。
言われた方はそれでも、うん、と素直に頷いて。
「そうだけど、さ。なんか、ここのキレーな景色がすっごく似合ってたから。……ちょっと怖いくらいに。だから、なんか急に三蔵が遠くに行っちゃった感じがして、少しだけ不安になった。……けど、あったかかったから安心したんだ。」
へへ…、と微かに俯いて照れたように笑うと、悟空は三蔵の視線から逃げるように踵を返した。

告げられた内容に瞠目していた三蔵は、咄嗟に反応することができず。
気づけば悟空は、元来た木立へ再び足を踏み入れるところだった。
三蔵が見ているのに気づいたのか、くるりとこちらを振り向いて。

「せっかくだから、悟浄と八戒も呼んでくるーー!! 三蔵はここで待っててくれよなっ。」

もともと三人に此処の景色を見せるつもりだったのだろう。
そう大声で三蔵に伝えるなり、さっさと木立の中へとその姿を消してしまった。
あの道ならぬ道をこれで三往復することになるとは思えぬほど、元気の有り余った様子に、呆れしか出てこない。


一人になった三蔵は、ひとつ息をついて。


もう一度ゆっくりとその雄壮なパノラマを振り仰ぎ、紫暗を眇めた。
相変わらず鮮やかすぎるほどのそれに圧倒されるが。それでも。
先程のような痛みは、もう感じなかった。
あれはたぶん、彼がいてこそ感じる痛みだからだ。
その痛みは三蔵にとって心地よいモノではなかった。つい、先程までは。
けれど、それを三蔵にもたらしている悟空もまた、同じ痛みを抱えているならば。
それはもっと別の。
酷似していても全く違う意味合いを持ったものに変わるかもしれない、と思う。
たとえば。
───甘さと熱とを内包する、理屈の通じない感情などに。

ふいに先刻の、少年を抱きしめた際の確固たる熱を思い出せば、また大きく心が揺れるのだ。
今はもう法衣にその余韻くらいしか残っていないが、それは紛れもなく彼が『いま』、己の傍にいると信じられるものだった。
悟空は、彼自身の意志で此処を居場所と決めている。
はっきりと三蔵に告げた声。
彼が、そう望むなら。




思い起こし、三蔵は、幾多の命を燃えさかる彩りで魅せつけてくる彼らに対して、挑戦的な笑みを掃いた。

そうして。

やらねぇよ、と、いかにも不敵な呟きを心の内に灯すのだった。






*   *   *





ほのぼのを目指したんですけど。
……いつのまにか、なんだか痛くなってたりしますか?(汗)
綺麗すぎることは痛いことなんだと。
書いているうちにそういう方向にいってしまった模様。
ほとんど健全。だけど三空。
この二人はプラトニックのようです。
愛情以上恋愛未満? てとこでしょうか。(何だろ、それ)

1万HIT記念にお祝いを下さったmichiko様に、
拙いながらも目一杯の感謝を込めて捧げさせて頂きたいと思いますっ。
michiko様、これからもどうぞよろしくお願い致します(深々と礼)。




<如月たえ 様 作>

如月たえ様主催の「T.S.Y」様、1万Hitのお祝いに無理矢理押し付けた駄文のお礼に頂きました。
広大で美しい自然の中に溶け込んでしまいそうな悟空とその風景にあまりにも嵌り込んでしまう三蔵の美しさに、お互いが不安になって、
思いは同じなのに伝える言葉が無くて、ただ抱き合う二人の姿に惚れ惚れと見とれてしまいました。
表面上はプラトニック、気持ちは肉体関係すら結んでそうなほどにお互いを求め合う関係は、見ている方が切なくなります。
ため息しか出ないステキなお話をほんとうにありがとうございました。
こちらこそこれからもどうぞよろしくお願い致します。

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