1.花曇り


三月の終わり、季節が冬に戻ったような気候のお陰で、今年は春の訪れがいつもの年よりも幾分遅れた。
そのお陰で三蔵が一番忙しい灌仏会を過ぎて、桜は満開の時期を迎えた。
お気に入りの丘の桜が、それは見事に開いたのを前の日に確認した悟空は、是非、三蔵と一緒に見たいと思ったのだ。
一番忙しい時間が過ぎたのだからそれぐらいの時間はあるのだと信じて、執務室で書類と格闘している三蔵を誘った。
しかし、悟空のせっかくの誘いに返ってきた返事は、すげないもので。
それでも諦めることが出来なくて。
あのたわわに咲いた桜花の綺麗な姿を見て欲しくて。

「三蔵、桜、見に行こうよ」

何度目になるか分からない誘いの言葉。

「忙しい」

見つめる書類から顔も上げず返る何度目か分からない静かな返事。

「なあ、きれいなんだって」
「仕事が片づいたらな」

さらさらと、筆が紙を滑る音に混じる小さなため息と宥めるような何度目か分からない返事。

「今、一番きれいなんだから」
「煩い」

いつまでも諦めない悟空に少し苛ついて。

「なあ、三蔵」
「喧しい」

眉間の皺が増えて、声が尖る。 
書類に触れる手が震える。
それに気付かず、悟空は甘えるように法衣の袂を引いた。

「な、な、なっ?」
「忙しいつってんだろうが!」

ばんっと、机を叩いて、遂に三蔵がキレた。
それにびくっと肩を竦ませて、悟空は三蔵を見上げた。

「だって…きれいな桜は…今だけなんだぞ」

握っていた法衣の袂を離し、恨めしげに微かに潤んでくる金瞳で見つめても、三蔵は怒りに染まった紫暗を向けてくるだけで、悟空の願いを聞き届けてくれるような隙はない。

「何だよ!三蔵のケチ、あんぽんたん!!」

がつんと、執務机を蹴って、悟空は三蔵の怒声が飛ぶ前に執務室を飛び出して行った。
そのすぐ後、悟空と入れ違いに笙玄が執務室に入ってきた。
執務室の前で自分の横を走り抜けて行く悟空に、笙玄は怪訝な表情を浮かべてその背中を見送ったのだ。

「今のは悟空ですよね!?何かございました?」

両手いっぱいの書類を抱えて、執務室の扉の方を振り返りつつ、三蔵の元へ笙玄は近づいた。

「何でもねぇよ…」

今にも舌打ちしそうな声音で返事をすると、筆を机の上に投げ出し、背もたれに身体を預けて三蔵は煙草をくわえた。

「そう…ですか?でも…」
「気にするな。いつものことだ」

そう、いつものことだ。
悟空をかまってやれないことも、悟空の願いをきいてやれないことも今に始まったことではない。
いつものことだ。
どんなにかまってやりたくても、どんなに願いをきいてやりたくても、”公務”という名の付く雑用が邪魔をする。
この寺院で二人が暮らしてゆく限りそれは免れないことで、暮らしてゆくための義務であり、責任なのだ。
それが一緒に暮らすための代価なのだとお互いに理解はしていても、感情はそうそういつも納得できるものではないこともまた、事実で。
三蔵は吐き出す煙草の煙に紛れて、重いため息を吐いたのだった。
そんな三蔵の言葉と態度に、いま少し納得出来ない顔つきで頷きながら笙玄は、書類を机の上に積んだ。
笙玄が積んだ書類の山に、三蔵の顔が引きつった。

「おい、その山は何だ?」
「えっ?あ、…はい、これは国家安寧大法要に伴って、公官庁へ提出する覚え書きや申請書です」
「…笙玄…」

拒絶を含んだ疲れ切った吐息と共に、三蔵は笙玄の名前を呼んだ。
「何を仰っても無駄ですので、諦めて下さいね」
「おい…」
「これは三蔵法師様の決裁印と署名がどうしても必要なものなのですから」

にっこり笑って説明する笙玄の笑顔に、三蔵は幻でない頭痛を感じた。

「その代わりって言ったら何ですが、そちらの書類は全て引き取りますので」
「何を…」
「これらの書類の処理が終わりましたら、今日はもうご公務は終了ということになっております」
「笙玄?!」
「お仕事をなさりたいお気持ちは分かりますが、今日までじっと我慢していた悟空をかまってあげて下さい」
「……おい」
「我慢していた悟空へのご褒美ですよ」
「……!!」

そう言って、言葉の継げない三蔵に念を押すようにもう一度笑いかけ、笙玄は今まで三蔵が格闘していた書類の山を全て抱えて執務室を出て行った。
ぱたんと、扉の閉まる音に三蔵は緩く首を振って、大きなため息を吐いたのだった。



以降、本文にて

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