天地開闢




しとしとと降り頻る雨の音だけが室内に木霊している。
お陰で思い出したくもない事をまざまざと思い出し、不快感だけが増して行く。




就寝の為灯りを消した部屋の中、三蔵は寝台に身を置きつつ悶々としていた。
────こんな時、隣にあの存在が居ない事は幾らか三蔵を安堵させる。

普段は何かと鈍い悟空が、この様な三蔵の変化にだけは目敏く反応するのだ。

三蔵がそれを台詞として言うならば「鬱陶しい」「煩わしい」となるのだろうが、深層の部分では180度逆の思いを抱く事になる。
三蔵が昏い顔をすれば、悟空もまるで伝染したかの様にそんな面持ちをする。

否。

伝染と言うよりは、むしろそれ以上────痛ましい表情をするのだ。



一度だけ、問うた事がある。
「何故おまえがそんな顔をする?」────と。
言われた悟空は何を今更、と言わんばかりに目を瞬かせ「三蔵が笑わないから。」そう返答した。

三蔵は決してそう何時も何時も笑う事をしない人間だ。
何時も所か、むしろ笑わない事の方が多い。
『喜』や『楽』を表す時にも心持ち表情が和らぐ程度で、あからさまに『笑う』事はまずない。
故にそんな言葉を返されるとは思ってもおらず、逆に虚を突かれた形になる。

自分が笑って見せた事などあったか、と訊ねようとして、しかしそれは思い留まった。
答えが容易に予測出来たからだ。
きっと悟空には表情には表れない部分も見えているのだろう。こと三蔵に関しては。



ともあれ、自らが塞ぎ込めば悟空も同様に表情を曇らせる。
そればかりは目の当たりにしていたいと思えず、結果今の状況に安堵するのであった。

自らに起因してその表情を曇らせるなど、今迄必要以上に他人に干渉する事もされる事も良しとしなかった三蔵には御免被りたい事この上ないものである。
そしてその表向きな理由───本人自身ですらも、そればかりが理由であるかと錯覚しているのだが───の裏に、もう一つ。
悟空の顔に、見慣れた笑顔に取って変わった見慣れぬ憂苦の表情が張り付いているのが、どうにも気に入らない。

それを───有り大抵の言葉で言えば「彼には笑顔を求めている」と三蔵が自覚するのはもう少し後の事。






ふと閃光が部屋を照らし出し、思考に沈み掛けていた三蔵の意識は引き戻される。
遅れる事数秒。轟音が轟いた。落雷だ。顔だけを窓に向け、外を窺う。


──────そろそろ・・来るかもしれんな

見るとも無しに稲光を眺めつつ、そう考えていた所に、稍あってひたひたと廊下を歩く音が聞こえた。
が、聞こえ始めた音は直ぐに止む。それも三蔵の部屋の前で。



この三蔵の部屋は他の僧達とは一線を画すべく、かなり奥まった場所に在った。
『三蔵法師』への用が無ければ、何者かが通りすがる事も稀だ。

───隣に部屋を持つ悟空を除いては。

その様な状況、聞こえ様直ぐに止んだ幼い足音。
何処から誰がやって来たのか、など明白だった。




三蔵の予想違わず、三蔵の部屋の扉の前には自らの部屋から持ち出した枕を抱えた悟空が所在無げに、
立ち竦んでいた。



常ならば部屋の主への呼び声と共に遠慮もなしに、入室の許可すら待たずに入室して行くのだが、それは部屋の主が起きていればこそ。
夜も更けたこの時間ではまず起きてはいないだろうと思われた。
寝ているのも構わずに寝室に忍び込み、暫くして気付いた三蔵にハリセンの洗礼を食らう事もない訳ではなかったが、この日は特別だった。



悟空は就寝直前の三蔵の疲れ切った様子を思い出す。
此処数日の過酷な仕事続きで疲労困憊な様子であったのだ。
三蔵がそれを口に出す事はなかったが、悟空には痛い程伝わっていた。
今入室に踏み切れず立ち竦んでいるのも、三蔵の疲れを癒す為の睡眠を妨げるのを恐れている為────。



しかし覚醒し切ってしまった悟空には、今更自分一人の部屋に戻って行く気にはなれず、かと言って先の状況故三蔵の元へも身を寄せられない。
まだこの廊下であれば、雷鳴は轟くものの、稲光を目の当たりにせずに済むだけましであろうか、ならばこのまま───扉を隔ててはいるが、三蔵に一番近い場所で眠りに着いてしまおうか、とあれこれ考えを巡らせていた。




「何してやがる。」

本気でこの場で眠りに着く事を実行し掛け様とした、まさにその時、聞き慣れた声が悟空に届いた。
扉越しではあったが、確かに今三蔵の声でその言葉が紡がれた。


──────三蔵起きてる!?

声が聞けた事に安堵と喜びを感じるも、若しや自分が三蔵を起こしてしまったのではないかと危惧し、悟空は恐る恐る扉を開け、中の様子を窺える程度に顔を覗かせた。
寝台に身を起こしていた三蔵は窓の外を眺めているのか扉へ背を向ける格好になっており、お陰で悟空からはその表情を窺う事が出来ない。

「さんぞ・・」

どうしたものかと考え倦ねた結果、悟空はその人の名前をたどたどしく呟くに留まった。

「邪魔だ。」

それに返されたのは素っ気無い一言。

三蔵と関った事のない人間が受け取ったなら、間違いなくマイナスな意味にしか捉えられないであろうそれも、しかしその手の言葉を返されるのが常である事を重々承知している悟空には余り効果を成さない。
そうして今の「邪魔だ」はどういう意味を孕んでいるのかと考えている悟空へ再び言葉が掛けられた。

「邪魔だと言っている。」


──────部屋に戻れ、って事なのかな・・?


その結論迄辿り着き仕方なく廊下での就寝を覚悟した悟空は、遣り切れぬ思いを、抱えていた枕をぎゅっと抱き締める事で拡散させ、僅か開けていた扉を閉める。



扉が完全に閉まり切る寸前。

「邪魔だからとっとと入れ。」

悟空の方へと向き直った三蔵が言う。

暗がりでやはり悟空から表情を窺う事は適わない。
それでも向けられた言葉の意味に率直に喜び、部屋の中へ身を滑り込ませた。

────三蔵の気が変わらない内に。

「・・いつまで其処に突っ立っている気だ?」

この部屋へ来た理由を述べるのが躊躇われて、部屋へ入ったは良いものの、暫し立ち尽くしていた悟空へ仕方なしとばかりに三蔵が再び声を掛けた。

「枕は持って来ているんだろう。」
「うん。」

またしても言葉の意味が分かり兼ねた悟空だったが、三蔵が自分の枕の位置をずらし、その身も寝台の端へ寄せた事から、意図を理解し顔を綻ばせた。
嬉しそうに自らの元へ駆け寄ってくる悟空に、また三蔵も自ずと第三者には分からない程僅かではあったが───表情が緩む。
仰々しい嘆息も誤魔化しでしかないのだろう。




まだ幼さの残る仕草で枕を並べ、悟空が早速三蔵の隣へ身を寄せようとした
その時──────。



部屋を一瞬明るく照らし出す刺す様な光と間を置かずに轟く轟音。

────刹那、悟空の身が撥ねる。

その反応を目に留めた三蔵は、悟空がこの部屋へやって来た理由がやはり自分が思い至ったその『理由』からであると確信した。
竦んだままの身体を引き寄せ、寝台の上へと抱え上げてやる。

「良い加減慣れろ。」
「───だって、さ・・!」






以前悟空と共に公務へ出掛けた帰り際、激しい雷雨に見舞われた事があった。
森を抜けている途中だった為に大木の下での雨宿りを余儀なくされた訳なのだが、其処で何ともタイミングの悪い出来事に遭遇する。



突然振り出した雨に動物達も慌てたのだろうか、巣へと急ぐ一匹の兎が森を駆け抜けていた。

其処へ一閃。

その光景を眺めていた悟空の目の前で兎は焼死したのだ。



焼き焦げた塊は衝撃で引き裂け、原型も留めず見るも無残。
先刻勢い良く駆けていたものが一瞬でこの有様。



抗う事も逃げる事も適わず────為す術が無いとは正にこの事。
まだ何もかもを知り尽くすには程遠い悟空に取ってはかなり衝撃的であった様だ。
刮目したまま一言も発しない様子から、それは痛い程伝わった。




以来雷には怯え、近くに三蔵の居る時には片時も側を離れず、唯雷が止むのをじっと待つのが悟空の習性となった。
それ故、今夜も雷が鳴り始めた時点で三蔵には彼の来訪があるであろうと予測出来ていたのだ。



自分の元へ安らぎにやって来る事自体には問題はない。
むしろ些か喜びさえ憶える。しかし、怯えるその幼い姿は痛ましい以外の何ものでもない。
故に早く慣れてしまえ、と言うのは三蔵の本心から出た言葉だった。




「取り敢えず今日の所は我慢してやる。」

三蔵の腕の中に収まる承諾を得た悟空は返答代わりに満面の笑みを零す。
抱え込まれた胸に擦り寄り雷鳴を三蔵の心音で紛らわせ、満足げに瞳を閉じた。



その様子に───表には出さぬものの───安堵した三蔵は、茶の髪を梳いてやりながら更に睡眠を促す。
悟空が、この様に甘やかして貰えるのであれば雷の日も悪くはないかもしれない、と些か不埒な事を考えながら眠りに落ちているとは知らずに────。




end




<知 実 様作>

残念なことにサイトを閉じられてしまわれました。
その記念に頂いたお話しの内の一つです。
落雷の無惨な結果から雷が恐くなった悟空。
そんな心細い悟空を素っ気ないけれど優しく包む三蔵。
雷雨の夜の優しい時間をご堪能下さい。
知実様、ありがとうございました。

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