奥庭の白梅の木の枝にまたがって、悟空はぼんやりと枝の向こうに広がる早春の青空を見つめていた。
三蔵は五日ほど前から、三仏神からの下命で出かけてまだ帰っていない。
予定の日を二日ほど過ぎてもいる。
寺院の中は涅槃会のあとのざわつきがようやく収まり、月末に控えている彼岸会の準備に落ち着きをなくしつつあった。
悟空の登った白梅の木は遅咲きなのか、今頃、満開を迎えていた。
甘い梅の香りに包まれていると、寂しい気持ちが少しだけ和らいだ。「サンキュな…そんで、ごめんな…せっかく綺麗に咲いてくれているのに、ちゃんと見てなくて…」
悟空の言葉に目の前の白梅の花がふるふると、首を振るように震える。
その様子に悟空の口元が微かに綻んだ。
「そ、だな、三蔵は大丈夫だよな…すぐに帰ってくるって三蔵、言ってたもんな…」
自分に言い聞かせるように呟けば、そうだと、梅の薫りが一瞬、強くなった。
悟空を包み込むように薫った甘いふくよかな薫りに悟空は驚いたように瞳を見開いたかと思うと、ようやく笑顔を浮かべた。
そして、
「今日はホント、暖かいなぁ…」
ううんと、身体を伸ばした悟空は梅の木の幹に身体を預け直し、あくびをひとつする。
そのあくびが呼び水になったのか、眠気がじわりと悟空の身体を包んでくる。
「ぽかぽかして気持ち…いい……や…」
言った先から悟空の呟きは眠気に攫われて、やがて悟空はことりと、眠りに落ちてしまった。
今日は朝から明るく晴れ渡り、日差しは暖かく、まだまだ冬の名残が色濃く残るこの早春の時期に春も盛りの陽気だった。
だから、こうして外でうたた寝ができるのだけれど、吹く風はまだ少し肌寒かった。
それでも、陽差しの温かさと梅の柔らかな薫りに包まれて、悟空は心地の良い眠りに沈んでいた。
寺院の総門に帰り着いた三蔵はきつい梅の薫りに足を止めた。
三門までの境内に植えられた梅が今を盛りと咲き誇っている。
出掛ける時は、まだ五分咲き程度だったはずだ。
それがたった三日で満開になるなど。
何より、今日久しぶりに温かな陽気になったのであって、昨日までの寒さが緩んだとは言え、まだ木枯らしと呼べるような冷たい風が吹いていた。
だから今年の春は遅いだろうと思っていたのだ。
それが、たった一日、春の盛りの陽気で満開になることはないはずで。
そう考えて、ようやく三蔵は気付いた。
「……そういうことかよ」
気付いたことに対してか、その原因に対してか、忌々しそうに呟いて、三蔵は足早に寝所へ向かった。
その三蔵の視界に境内に植えられた梅の木が入る。
満開に、今を盛りと咲き誇る白梅、紅梅、一重、八重の花と立ち込める甘い薫り。
その姿はまるで誰かに見て欲しいと、褒めて欲しいと、気を惹いているように見える。
そう、彼らが愛し子の気を。
気付いてしまえば、その姿は三蔵の苛つきを招くだけで。
三蔵の帰院に気付いた僧侶達がかける出迎えの言葉に応えることもなく、三蔵の歩く速度は速まった。
大扉を抜け、寝所へ向かうその足が、ふと、止まった。
そして、気配を探るように視線を流し、三蔵の足は奥庭に向いた。
「悟空」
呼ばれる声に悟空は目を覚ました。
何度か瞬き、声の主を捜す。
「ここだ、サル」
言われて、見下ろせば、悟空の足許に三蔵が呆れた顔をして立っていた。
「三蔵っ」
その姿を認めた途端、悟空が一瞬泣きそうに歪み、次いで大輪の花が咲く。
そして、嬉しそうに三蔵の名前を呼んで、悟空は梅の木の上から飛び降りた。
その身体を離さないと一瞬、悟空の身体に見えない手が絡み付くのが三蔵に見え、三蔵の紫暗が見開かれる。
けれど、その手は気付かない悟空の身体を掴み損ね、そのまま悟空の身体は三蔵の腕の中に落ちてきた。
慌てて受け止めれば、悟空の日向の匂いに梅の強く甘い薫りが重なった。
「……さんぞ…」
飛び降りた勢いのまま、ぎゅっと、三蔵の首にしがみつく。
「…………遅い」
言われて、言い置いて行った日数を過ぎていることに気付き、その力に悟空が自分のいない間抱えていた寂しさの重さを三蔵は感じた。
「あ、ああ……」
ぽんぽんとしがみつく身体を抱き支え、三蔵は悟空の背中を宥めるように叩いた。
それに答えるように、悟空の三蔵にしがみつく力が強くなる。
「…悟空」
その力に三蔵は小さく吐息をこぼせば、ようやく、
「…おかえ、り…」
いつもの言葉が返ってきた。
その言葉と抱き抱えた身体から伝わる温もりに、三蔵は手元に悟空が確かにいることを実感した。
そして、悟空が今までいた白梅の木を見上げれば、白い花弁を満開に開いて、白梅の木は三蔵を見下ろしていた。
渡さねえよ…
声を出さずに三蔵は白梅の木にそう告げると、悟空を抱いたまま踵を返した。
途端、ざあっと、風が梅の枝を揺らし、花びらを巻き上げた。
それと共に三蔵と悟空を包む濃く強い梅の薫りに、三蔵は顔を顰め、悟空は三蔵にしがみついていた顔を上げた。
そして、自分が今までいた白梅の木を振り返った。
その視線の先で、白梅の花が柔らかな陽差しに煌めいた。
早春、密かな戦いの始まりの鐘が鳴った。
end
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