約 束
「一体、お前は何がしたかったんだ?」
盛大なため息に乗せて三蔵は、己の横で机に顔を突っ伏して踞る養い子に問うた。
「………たかった…だけ」
返ってきた返事にその綺麗な柳眉を寄せて、悟空の頭を叩く。
「バカ」
叩かれる痛みと共に言われた言葉に悟空は顔を上げると、潤んだ瞳にきつい光を宿して三蔵をにらみ返した。
「だって、笙玄しんどそうだったから!」
「だからって、よけいな仕事を増やすんじゃねえ」
すかさず返ってきた三蔵の言葉に、ぐっと言葉に詰まる。
「…だって…」
言葉より制御できない感情が先走って、悟空の大きな瞳から透明な雫が零れ落ちる。
「ここを綺麗に片づけてから、戻ってこい。いいな」
泣きながら尚も三蔵を睨みつける悟空にそう言い置くと、三蔵は座っていた椅子から立ち上がった。
「…うーっ」
「さっさとしろよ」
ふんと、鼻で笑って三蔵は悟空を一人残し、散らかり放題の部屋を出て行った。
ことの発端は簡単なことだった。
いつも元気な笙玄の顔色が、今日に限って良くなかった。
最近流行りの風邪を引いたらしく、調子が悪かったのだ。
その様子に、目敏く悟空が気付いた。
心配し、休めと煩く言い、三蔵にも笙玄を休ませろと煩く言いつのった。
そのあまりの煩さに三蔵は根負けし、平気だという笙玄に今日一日休むように休暇を与えた。
そう、見た目以上に笙玄の容態は悪かったのだ。
医師の見立てにウソはなく、笙玄は寝台の住人となった。
やり残しの仕事の内、掃除や洗濯は一日ぐらいしなくても何の支障も無かった。
ただ、食事の支度だけは休むわけにもいかず、それだけでも作るという笙玄に三蔵は、外食ですますと言って、思いとどまらせた。
三蔵の仕事のサポートは、勒按が勤めた。
とにかく笙玄の気持ちの負担を軽くするための措置ができる限り取られ、笙玄は休みを貰った。
が、誤算があった。
悟空である。
この小猿、笙玄に酷く懐いていて、笙玄の様子に酷く狼狽え、看病をすると言って聞かなかった。
だが、不器用な小猿のこと、返って笙玄の病状を悪化させてしまう可能性があることを己の体験で身に染みて知っている三蔵は、悟空に笙玄の看病はさせなかった。
お前は何もするなと言われて、はい、そうですかと納得するはずがないことも、心配のあまり暴走することもわかっていたはずなのに、目を離してしまった。
その隙に見事にやらかしてくれたのだ。
気が付いた時には、全てが終わった後だった。
笙玄の仕事部屋を本人は掃除のつもりで、三蔵には部屋を荒らしたようにしか見えない状態を作り出したのだった。
で、冒頭のやり取りとなる。
廊下へ出た三蔵は、ひとつため息を吐くと、笙玄の自室へと向かった。
軽く扉を叩き、三蔵は部屋へ入った。
二間続きのその部屋は、笙玄らしく柔らかな色彩に彩られて、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
入ったところが書斎と居間を兼ね、奥の部屋が寝室となっている。
三蔵は居間を横切り、開け放たれたいる寝室へと向かって行った。
話し声が、聞こえた。
覗けば医師の康永が、往診に来ていた。
話していた笙玄が、戸口に立つ三蔵に気が付き申し訳なさそうに頭を下げた。
三蔵は、今朝より幾分顔色の良くなった笙玄の姿に心の内で安堵のため息を吐く。
「どうだ?」
「今日一日休めば大丈夫でしょう。たかが風邪と侮らないことですな」
康永の言葉に三蔵は頷くと、笙玄に向き直った。
「何かございました?」
自分の部屋まで三蔵が訊ねてくるなど無いことを知っている笙玄は、三蔵の訪れに何かあったのだと緊張した。
「サルが…」
「はい?」
「サルがうるせえ。夜、よこすから構ってやれ」
がしがしと頭を掻きながらそう告げた。
その様子が明らかに、照れ隠しであると見抜いた笙玄は、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「はい」
三蔵はふんと、返事を返すと、踵を返した。
ふと、何か思い出したように戸口で止まり、笙玄を振り返った。
「サルが、お前の仕事部屋を掃除していたぞ」
にやりと口の端を上げる。
「えっ?」
「ということだ」
「三蔵…様?」
引きつった笑いを浮かべた笙玄に三蔵は、人の悪い笑みを浮かべると、部屋を後にした。
二人のやり取りがちゃんと理解できていない康永が、疑問符を浮かべた顔で笙玄を見つめていた。
その夜、小さく扉を叩く音で、笙玄は悟空が来たのを知った。
「どうぞ」と返事をすると、ゆっくりと扉が開き、悟空が顔を覗かせた。
「入って、いい?」
訊ねる声まで小さく、笙玄を気遣う気持ちが溢れている。
「構いませんよ。ここへ来て、顔を見せてください」
「うん」
悟空はそっと扉を閉め、笙玄の寝台に駆け寄る。
ぱふっと、笙玄の寝台に抱きつくように悟空は半身を笙玄の膝に投げた。
その拍子に香る柔らかな石けんの匂いが、笙玄の気持ちをより優しくする。
「もうお風呂に入ったのですか?」
「うん、三蔵と入った」
「そうですか。良かったですね」
「うん!」
嬉しそうに笑う。
綺麗に洗われた大地色の髪は、乾かされ、細い組紐できちんとまとめられていた。
何事にも面倒がる三蔵が、ことこの養い子の世話に関しては驚くほど丁寧で優しい。
甲斐甲斐しく世話を焼く三蔵の姿に、笙玄は三蔵の優しさと悟空への慈しみを見るのだった。
「今日は心配を掛けましたね」
「ううん、笙玄はもう大丈夫?」
「はい。康永先生に診て頂きましたので、もう大丈夫ですよ」
「本当に?」
心配そうに見上げてくる大きな金色の瞳に、笙玄は大きく頷いてやる。
「本当です。明日からちゃんと元通りですよ」
「よかったぁ」
心底ほっとしたのか、ほわっとした笑顔を浮かべた。
この明るく優しい子供にこんなに心配を掛けていたのかと、改めて知った笙玄だった。
これからはもっと、自分の体調に気を付けないといけませんね。
人の変化や機微に聡い悟空のためにも、そして、悟空が鬱ぎ込めば、三蔵の機嫌も悪くなる。
そう、心配性な二人のために。
「ところで、悟空?」
「なあに?」
「今日、私の仕事部屋を掃除して下さったのですって?」
「あっ…」
さっと、悟空の顔が強張る。
「ありがとうございました。大変だったでしょう?」
強張った悟空の顔に気付かないふりのまま、笙玄は話を続ける。
「う、ううん。大丈夫だったよ」
「そうですか?」
「うん…」
ふるふると首を振り、悟空はうつむいた。
確かに今日、笙玄の役に立ちたくて、言われもしないのに笙玄の仕事部屋を掃除した。
だが、片づけているはずの部屋は、悟空の思いとは裏腹にどんどん散らかってゆく。
焦る気持ちと行動が、部屋の隅に置かれていた小さな飾り棚を倒し、その中身を盛大に床にぶちまけた。
その大きな音に三蔵が気づき、姿を見せた。
そして、部屋の惨状に罵声が飛んだ。
そのあまりの剣幕に悟空はすくみ上がり、執務室にいた勒按が何事かと飛び込んできた。
それでも三蔵の罵声は止むことなく、悟空は遂に泣き出してしまった。
その声でようやく我に返った三蔵は、泣きじゃくる悟空を追い立て、びっくりして戸口に突っ立ったままの勒按にも手伝わせ、笙玄の仕事部屋をあらかた片づけた。
その後、こんこんとお説教されたことは言うまでもない。
結局、三蔵の仕事を増やすだけだった。
だから、お礼なんて言ってもらえる資格なんてない。
笙玄の嬉しい言葉が、悟空を責めているように聞こえて胸に刺さった。
昼間、今夜の悟空の来訪を告げに来た三蔵の言葉の中に、自分の部屋の惨状を聞いた。
だが、自己管理がうまくできなくて風邪を引いてしまった自分のために、役に立ちたい、何かしたいと言う悟空の気持ちが嬉しかった。
だから何も言わない。
部屋なんぞ、元気になって片づければすむことなのだ。
それより、何より、悟空のその気持ちが大切だった。
うつむいてしまった悟空の様子から、申し訳ないという思いが窺える。
だから笙玄はできるだけ優しく、悟空の名前を呼んだ。
その声に悟空は、ゆっくり顔を上げた。
金の瞳が仄かに潤んで、頼りなげな光を放っていた。
「また、お手伝いして下さいね」
「えっ…」
笙玄の言葉に悟空はきょとんとする。
「三蔵から、聞いてないの?」
「ええ、聞きましたよ。悟空が一生懸命私の仕事部屋を掃除してくれたって」
「それだけ?」
「他に、何かあるのですか?」
片眉を器用に上げて笙玄が、いたずらっぽい表情で悟空の顔を覗き込む。
「う、ううん。何もないよ」
慌てて首を振る。
「じゃあ、約束です。お手伝いして下さいね」
笙玄は小指を悟空に向かって差し出した。
「??」
笙玄の差し出した小指と笙玄の顔を悟空は、不思議そうに見比べた。
「指切りです」
「ゆび…きり?」
「約束の印です」
「約束…」
「はい」
しばらく考えた後、悟空は小指を笙玄に差し出した。
その小指に自分の小指を絡ませて、
「指切りげんまん嘘ついたら、針千本飲ます」
指切りの言葉に悟空はびっくりした顔をして、ついで恐る恐る訊いた
「約束破ると針、千本も飲まないといけないの?」
「いいえ…でも誰も針、飲むの嫌でしょう。だから破らない為のおまじないです」
「わかった。俺、絶対守る」
「はい。楽しみにしていますね」
「うん、約束な」
ようやく、満面の笑顔が戻ってきた。
その笑顔につられるように笙玄も笑顔になる。
それからしばらく悟空は、今日一日のことを笙玄に話して聞かせた。
やがて、悟空が眠そうに目を擦り始めた。
「悟空、部屋へ戻ってください」
「…ん、まだ…へーき…」
言いながらも、瞼が落ちてくる。
そこへタイミングよく、三蔵が悟空を迎えに来た。
「あ、さんぞぉ」
寝室に入ってくる三蔵を見つけて、悟空は嬉しそうに両手を三蔵に差し出す。
「もう気は済んだか?」
悟空の差し出す手を受けとめながら、悟空に訊く。
「うん…ありがと…」
三蔵の顔を見上げて、悟空は穏やかな笑顔を向けた。
寝台に乗り上げるように座っていた悟空は、そこから降りると、三蔵の側に立った。
「笙玄、おやすみ」
「おやすみなさい、悟空。おやすみなさいませ、三蔵様」
「ああ」
「また、明日ね」
「はい」
悟空は眠そうな顔ではんなりと笑うと、三蔵に手を引かれて笙玄の部屋を後にした。
その二人の姿を見送る笙玄の心は、幸せに満ちていた。
二人の気遣いが嬉しかった。
最初は、口もろくに訊いてもらえなかった。
普通に接してくれていても、心は許してくれなかった。
それが、こうして気遣ってもらえるほど、二人の側に居られるようになった。
その幸せを笙玄は噛みしめる。
この幸せを失わないように。
大切な人たちの側にいつまでも居られるように。
それがただ一つの願い。
ただひとつのささえ。
───いつも、どんな時も
end
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