「俺ね、広い空の下をね、思いっきり走るのが夢なんだ」

そう言って、あいつが笑うから。
綺麗な笑顔で笑うから。
約束、してしまった。

「俺が、治してやるよ、お前の病気」
「ホント?」
「ああ、だから待ってろよ」
「うん!さんぞ、約束な」
「ああ、約束だ」

そうして季節は流れ、子供は少年へ、少年は大人へと変わってゆく。

約束の季節が過ぎてゆく。




Keep your vow




病院の中庭にある芝生に座って、悟空は空を見上げた。



四角い空。
四角い庭。



それでも初夏の風が、悟空の大地色の柔らかな髪に触れてゆく。
透き通るように白い頬と零れそうに大きな金の瞳。
今年十八になる身体は、まだずいぶんと幼く小さい。




悟空は生まれた時から、心臓に欠陥があった。
壊れた心臓をだましだまし生きてきた。
物心着く前からの入退院を繰り返す生活は、悟空を心を真っ白に染め上げて育てた。

その白い心を仄かに染めるのは、優しさと薄紫に彩られた金色の光。
幼なじみで、大切で、誰より愛しい悟空の太陽、三蔵。

いつからだろう、優しいお兄ちゃんが、最愛の人に変わったのは。

空ばかり見つめる悟空のか細い身体をそっと抱きしめ、どこにも行くなと言ってくれた。
いつも不機嫌で、不器用な人が、その時だけはなりふり構わなかった。
あの、幼い日の約束からずいぶん経った時に起こした大きな発作。
何とか持ち直した悟空の開いた瞳に飛び込んできた憔悴しきった紫暗の瞳に、悟空はその時初めて、この人を置いて死ねないと思った。

その思いが、こうして形を変えて悟空の心を満たす。
三蔵を思う気持ちと幼い日に交わした約束、それだけを生きる支えにここまで生きてきた。

でも、今度大きな発作が起きればもう助からないと、昨日両親と主治医の話を聞いてしまった。

「もう…間に合わないよぉ」

悲しくて、寂しくて、声を殺して泣いて、泣いて、やっと諦めた。

三蔵は今、悟空の病気の新しい治療を学ぶために渡米している。
あの約束を果たすために、三蔵は心臓外科の医者になった。

悟空のためだけに、悟空の病気を治すためだけに医者になった三蔵。

国家試験にトップの成績で合格した日、悟空は十三回目の誕生日を迎えた。
十歳までは生きられないだろうと言われ、十三歳になった。
十五歳までは無理だろうと言われて、この間十八になった。

三蔵との約束が果たされるまで、決して死にはしないと心に誓って。

だが、壊れた悟空の心臓は、身体の成長にその機能がついていけなくなりつつあった。
回数の増える発作が、如実に限界を告げている。



後少し、もう少し…



言い聞かせながら、宥めながらここまで来たというのに、残酷な審判は下されたのだ。

「会いたいよぉ…さんぞ…」

悟空は大好きな青空に背を向け、膝を抱えて踞ってしまった。











勤め帰りの父と看病してくれる母と、毎日のように遊びに来てくれる兄たち。
屈託無く笑う悟空の笑顔に救われるその気持ちの影で、皆張りつめていた。
そんなことを知らぬげに、危うい緊張を孕んだ日々は、何事もなく過ぎてゆく。



悟空の体調は、今までになく調子がよかった。
大丈夫だと錯覚するほどに。
時間は確実に迫りつつあるはずなのに。



楽しい時間の隙間に募る思い。

三蔵に会いたい。
三蔵に触れたい。
声が聞きたい。
名前を呼んでほしい。



自分のために頑張っている三蔵を思えば、ソレはひどく子供じみた我が侭で。
一緒に行けないこの身体が恨めしい。
側に居られないこの淋しさが辛い。






眠れない夜、消灯時間が過ぎてから悟空は、屋上に上った。
初夏とはいえ、まだ夜の空気は冷たい。
薄いパジャマ一枚の悟空は軽く身震いすると、屋上のフェンスから外を覗いた。

「すっげぇ…」

目の前に広がるのは、病院が建つ山の麓に広がる街の夜景。
宝石をちりばめたように輝く街の光。
それは夢のように綺麗で。
悟空はしばらく言葉もなく見つめていた。

「宝石…みたいだ」

ため息を吐いて、視線を夜空に向ければ、少し欠けた月が中天にかかっていた。

「さんぞ、今頃なにしてるかな…アメリカって今、何時頃なんだろ…」

額をフェンスに付けて呟く声音は、微かに揺れていた。
両手で握る金網の冷たさが、悟空の心に不安を産んでゆく。

「…発作、起きちゃったら…待てないかも…」

吐息と共に呟く言葉は、普段の悟空を知る者がいれば驚くほどか細く、弱々しい。

生まれて、病気を自覚してから考えない日はない。

いつも死と背中合わせの自分。
幼い子供が恐くないわけがない。
多感な年頃の少年が、不安でない訳がない。

一人になれば不安で、恐くて。

このまま眠って目が、覚めなかったら?
誰も居ない時に、発作が起きたら?
助けを呼んでも誰も来なかったら?

不安とストレスは、悟空の心臓にいらぬ負担を掛ける。
それだけで発作が起きてしまう、壊れた心臓。
その不安を、恐怖を拭ってくれるのは、あの金の光だけ。
安心できるのはあの紫暗の宝石に見つめられている時だけ。

「…さんぞ…さんぞぉ…」

はらりと、透明な雫がコンクリートの床に小さな染みを作った。
と、

「相変わらず煩い奴だな、お前は」

呆れた声が聞こえた。
その声に悟空は、そろそろと振り返った。
そこに月光を浴びた三蔵が、薄い微笑みを浮かべて立っていた。

「さ、んぞ…?」

信じられないと首を振る悟空に、三蔵はくわえていた煙草を落として踏み消すと、ゆっくり悟空の側に近づいていった。






渡米する前の晩、華奢な悟空を抱いた。

最初で最後だと覚悟を決めて。
白い病院のベッドではなく、自分の居室のベッドで。

触れれば消えてしまいそうな儚い印象のままに、細い腕で精一杯縋りついて。
白い頬をバラ色に染めて、上がる吐息に綺麗に頬笑んで。

「…さんぞ…大好き…」

微睡む中で幸せそうに呟いた。

無くしたくない大切な命。
お前のために、お前のためだけにここまで来たのだ。
脇目もふらず、一心不乱に。

渡米してる間に学ぶことはたくさんあった。
経験も積まねばならなかった。
短期間に集中して、何ものも厭わずに、あの幸せそうに頬笑んだ笑顔のために。




そして、聞かされた事実。




今度、発作が起きれば悟空は助からない。




身体の成長に、心臓の機能がついていけず、最早限界が来ているのだと。
まだ、学ばなければならないことはたくさんあるのに。
まだ、経験が足りないというのに。
悟空の命は、消えようとしている。

三蔵は研修期間を終えたその日、日本行きの飛行機に飛び乗っていた。

帰り着くまで、元気でいろ。
顔を見るまで笑っていろ。
俺が治すまで生きていろ。

一分一秒でも早く顔が見たくて、面会時間も医師の特権で無視して、駆け込んだ病室に求める悟空の姿はなかった。
病院中探して、やっと見つけた悟空は、自分の名を呼んで泣いていた。

渡米する前よりも小さくなった背中。
パジャマから見えるそこここは、夜目にも鮮やかなほど白く、その姿に三蔵は胸がざわついた。




「何してる?」

側によって問いかける三蔵に、悟空は腕を伸ばすと倒れ込むように抱きついた。
その悟空の仕草に、三蔵は怪訝な声を上げた。

「悟空…?」

その声に答えることなく悟空は三蔵に抱きつく腕に一層力を込めた。
そこに居ることを確かめるように。
消えてしまわないように。
身体に伝わる悟空の微かな身体の震えと握りしめられたシャツに、三蔵は悟空がどれほど自分を待っていたか、どれほど不安だったのか知る。

抱き返す腕にゆっくり力を込め、今にも壊れそうな痩躯を胸に閉じこめる。

「…さんぞ…さんぞぉ…」
「悟空」

胸の中で悟空は何度も三蔵を呼び、三蔵もまた悟空を呼ぶ。
会えなかった時間を、触れなかった時間を埋めるように二人は解け合うほどに長い間、抱き合っていた。

「…悟空」

そっと身体を離そうとする三蔵に、悟空は嫌だとしがみつく。
それを柔らかな声で押しとどめ三蔵は、身体を離した。

「…あっ…さ、ん……」

怯えたように三蔵を見上げた悟空の声は、柔らかな口付けに覆われた。
優しく、慈しむように降り注ぐ口付け。
冷えた気持ちが、怯えた気持ちが暖かな光に解けてゆく。
悟空はその全身で、三蔵の光を浴びた。

ついばむように口づけられて、三蔵の口付けは終わった。

「…おかえり」

はにかむ笑顔が、ようやく三蔵の帰還を認めた。





















日が決まった。

その日、三蔵は言った。

「俺に任すか?」

何をとは言わない。
ただ、「任すか?」とだけ、告げてくる。
悟空はじっと澄んだ黄金の瞳で三蔵をベットから見上げ、

「うん」

と、静かに頷き、そして、晴れ晴れとした笑顔を浮かべたのだった。











「行ってきます」

手術室に入る前、心配そうに見つめる家族に悟空は、まるで遊びに行くようにそう告げて笑った。
軽く手を振って、手術室に運ばれて行った。





















吹き渡る春の風を胸一杯吸い込んで、悟空は笑った。

一面の草の海。
澄み渡った空に鳥が啼いて、陽ざしが眩しい。

白いTシャツにブルージーンズ、水色のスニーカー。
傍らには、金色の愛しい人。

「気持ちいーっ!」

大きく伸び上がって、三蔵を振り返った。

「連れて来てくれてありがとな、三蔵」

ほんのりとバラ色に染まった丸い頬。
華奢な身体は変わらないが、それでも少し丸みを帯びてきた。
まだ、走るほどではないけれど、長く歩けるようになった。
こうして、少しなら遠出も出来るようになった。

今までの生活がウソのように、悟空の世界は広がった。

四角い空が、果てのない空になった。
四角い庭が、どこまでも広がる世界になった。

風の匂い、花の色、雨の音、季節の移ろい、全てが輝いて見えた。

悟空は草原に膝をつくと、大地を抱きしめるように倒れ込んだ。
自然と漏れる笑い声に、緩む頬に、悟空は生きている喜びを溢れさせる。
むせかえる草の匂いに包まれながら、悟空は仰向いた。

遮るもののない陽ざしが、明るく世界を照らす。
そのぬくもりに抱かれて、悟空は瞼を閉じた。






一筋の銀の糸。






はしゃいでいた悟空が、寝ころんで静かになったのを見た三蔵は、ようやく車から離れて、悟空の側へ歩み始めた。



これほどにうまくいくとは正直、三蔵は思ってもみなかった。
自分の腕が、まだ未熟だと知っていたから。
足りない経験をその手先の器用さと度胸と、悟空を失いたくない一念に賭けて。
研修先の指導医師だった光明を呼んで。
後のない、成功率の極端に低い手術に挑んだ。



───俺が、お前の病気を治してやる



あの幼い日の約束を果たすために。
翳りのない笑顔をさせてやりたいために。



開いてみた悟空の心臓は、思った以上に痛んでいた。
疲弊した心臓をもう一度甦らせる、不可能に近いが決して不可能でない行為。

二十時間以上に及ぶ手術に、か細い子供は耐えきった。

麻酔から覚めて、最初に悟空は笑った。
透き通るように綺麗な。

「なあ、コレ我慢したら、散歩に付き合ってくれる?」

一進一退を繰り返しながら、悟空は元気になって行った。
片時も側を離れず、見守る三蔵の眼差しの中で。

「今日は、外泊許可が出たんだ。父さんが、俺の泊まりたいとこに泊まって良いって言ったからさ、三蔵んとこに行ってもいい?」

時間をかけ、たくさんの薬と検査とに向き合いながら、初めての普通の生活のためのリハビリを受けながら。

「退院、決まったの?」

外の世界へ。




寝ころんで目を閉じている悟空を見下ろして、三蔵は薄く頬笑んだ。
そして、視線を空に向ける。

約束を交わしたあの季節からどれ程の時が流れただろう。

幼かった二人が、お互いがお互いを必要とするそんな間柄になって。
医師と患者。
幼なじみの関係が。

柔らかな陽ざしの中、眇めた紫暗に空はどこまでも青く広く映っていた。




───いつまでも一緒にいてね。大好きだよ、三蔵…




end




リクエスト:パラレルで、医者三蔵と患者悟空のお話
25000 Hit ありがとうございました。
謹んで、そうし様に捧げます。
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