雪の朝

朝、目が覚めたら世界が白かった。

その見たこともない白い世界に悟空は、我を忘れて見入っていた。

庭木も草も屋根も目に見えるもの全てを覆う白。
音もなく、たった一夜で世界を変えた白。

悟空は、寝所の入り口に薄い夜着のまま立ちつくしていた。

「何やってる?」

後ろから問われた不機嫌な声でようやく悟空は、我に返った。
振り返れば、不機嫌に眉を顰めた三蔵が、腕を組んで立っていた。

「・・・さんぞ」

三蔵を見返す悟空は、惚けたような顔をしていた。

「何だ?」

惚けたような悟空の様子に訝しむ三蔵の問いに悟空は、まるで魔法を目の当たりにしたような何とも言えない表情になると、呟くように答えた。

「白いよ、外」
「外?」

外がどうしたのかと、悟空の立つ戸口に三蔵は寄って、外を覗いた。
そこは、一面の雪に覆われていた。
昨夜、床につく前に氷雨が降っていたが、それが冷え込んだせいで雪に変わったのだろう。
三蔵は、悟空の言葉の意味を納得した。

「さんぞ、何で白いんだ?」

悟空にはわからないらしく、訊いてくる声に好奇心が見え隠れしている。

「雪が降ったからだ」
「雪?」
「ああ、雪だ」
「この白いのが?」
「ああ」
「雪・・・」

きゅっと、夜着の裾を握って、立つ悟空の姿に三蔵は、面白そうに瞳を眇めた。

「さんぞ、俺、触りたい」

好奇心に染まって輝く金の瞳が、三蔵を振り返った。

「あ?」
「触りたい。触ってもイイか?だ、だめか?」

そのわくわくに染まった金色に三蔵は、気圧されたように頷いてしまった。
三蔵の許しをもらった悟空は、小走りに回廊の端に行くと、恐る恐る雪に手を伸ばした。

白いふわふわの固まり。
触れる指先に伝わる冷たさに悟空は、瞳を輝かす。
自分の周囲を見渡せば、朝日を反射する煌めき。

雪の中へ足を踏み出し、素足に伝わる冷たさに顔がほころぶ。
雪の中にしゃがみ込んで、両手で掬ってみる。
湿り気を含んだ雪は、悟空の手の熱で水の滴に変わって、両手の隙間からこぼれ落ちる。
掬った雪を抱いたまま、戸口に立つ三蔵を振り返った。

「さんぞ、冷たい」

笑う笑顔に三蔵は、黙って頷く。

「さんぞ、さんぞ、ふわふわしてる」

頬ずりするように雪に顔を付ける。
雪の中に座り込んで、その感触を楽しむ悟空の姿に三蔵は、安堵を覚えていた。




岩牢から連れ出してしばらくは、どんな刺激に関しても悟空は、鈍かった。
生きるというその意思さえ薄弱だと思えるほどに。

最初に気が付いたこと。
それは、食べ物の味がしない。
何より腹が減らない。
眠らない。
眠くならない。
感覚もずいぶん鈍かった。
熱いのがわからなくて、火傷しかけた。
冷たいのが理解できなくて、風邪を引いた。
痛みが自覚できなくて、血だらけになったこともあった。
それが、決して楽しいことばかりでは無かったこの一年近い生活の中で、本来の感覚が戻ってきた。

最初は、自覚しない疲れと共に眠気が。
次に空腹と共に味が、味と共に熱い感覚が、痛みと共に冷たい感覚がその身に戻った。
感覚と共に感情も豊になった。
まだ偶に怯えたような様子も、諦めた様な瞳もあるが、悟空の元々の資質だろう、素直にまっすぐに、伸びやかな心が花開いた。

三蔵に届く声は、まだ聞こえてはいたが、最初の頃の悲痛さは消えて、今は穏やかに静かに、三蔵の胸を暖めていた。

今は、笑っていてくれればいい。
その気持ちそのままに、明るく、曇りのない笑顔を絶やさないで欲しい。
それが、今の三蔵の願いだった。






どれぐらい悟空が、雪と戯れているのを見ていただろう。
ふと、悟空の格好に考えが至った。



あいつ、ひょっとして起きたままの格好か?



そう思って見れば、悟空は薄い夜着一枚なことに気が付く。
夜着は、雪に濡れて悟空の肌に張り付いていた。
背中の髪も濡れて、張り付いている。
三蔵は、小さく舌打ちすると、悟空の側へ歩み寄った。

「てめぇ、もういい加減にしろ」

三蔵の声に悟空は顔を上げた。
振り返る悟空の唇は、紫で、身体が冷え切っていることを示している。

「えっ、まだこうしていたい」

ぷうっと、頬を膨らませて言う悟空を無視して、三蔵は悟空を抱え上げた。

「さ、さんぞ?」

有無を言わさず抱え上げられた悟空が、驚いて三蔵にしがみつく。
しがみついた三蔵のぬくもりに悟空は、笑った。

「さんぞ、暖かい」
「当たり前だ。そんな格好で雪の中にいるからだ」

怒ったような口調で言われた言葉に、自分の身体が冷たいことにようやく悟空は気が付いた。

「俺、冷たい?」
「ああ、冷てぇ」

三蔵の返事に嬉しそうな笑い声を上げる。

「てめぇ、何笑ってやがる」
「だって、冷たいってわかるから。三蔵が暖かいってわかるから」
「そうかよ」
「うん」

居間の長椅子に下ろされ、毛布にくるまれる。

「今、風呂沸かしてやるから、それまでそうしていろ。いいな、動くな」

断固として悟空に言い置くと、三蔵は湯殿に向かった。



悟空は暖かい部屋と毛布のぬくもりの中で、微睡み始めていた。



岩牢に居るときには見たことのなかった雪。
冷たくて、ふわふわで、柔らかくて、儚くて、白い雪。
音もなく降り積もる雪の声は、まだ悟空には聞き取れなかったけれど、静かに降り注ぐ雨にも似て、気持ちを優しく包んでくれる。
三蔵のように。
あの、金色のぬくもりのように。

「・・・さんぞ・・」

小さく大切な人の名を呟くと、悟空は寝息を立て始めた。

三蔵が、湯殿の準備をして戻って来たとき、悟空は長椅子の上で毛布に埋もれるようにして眠っていた。
その寝顔に三蔵はそっと、手を伸ばすと雪で濡れた髪を払ってやった。
安心しきった寝顔に愛しさを募らせながら。




それは、初雪の降った新しい年の初めの朝。




end

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