何故、私ではないのだろう。

何故、あいつでなければダメなのだろう。

これほどにあなたを思っているというのに─────



Envy (1)
「三蔵様、今日からお側ご用をさせていただきます漕瑛と申します」

修行僧を束ねる勒按に連れられて、一人の修行僧が三蔵の執務室に現れた。
年の頃は十七、八、痩身の少し神経質そうな面差しの僧侶だった。

「わかった」

三蔵は、手を止めて二人を見やり、一言答えると、もう用は済んだとばかりに仕事に関心を戻してしまった。
勒按は、傍らで緊張した面もちの漕瑛を促して、執務室を後にした。




最高僧玄奘三蔵法師が、長安の寺院に着院して二度目の夏が終わろうとしていた。



輝く神々しいばかりの金色の髪、全てを見透かすような深い紫暗の瞳、通った鼻筋、
紅をほのかにさしたような唇、雪の肌、最も神に近しい存在の証の深紅のチャクラ。
その美しい外見とは裏腹に気難しく、寡黙なまだ少年の最高僧は、師である光明三蔵法師が形見の天地開眼経文の一つ聖天経文を捜しながら、三仏神からの下命をこなし、様々な公務という雑用を処理していた。
そして、滅多に公の場に姿を見せないことで有名だった。

本人に理由を問えば、

「めんどくせぇ」

と、返事が返ってくるのだが、それを言うのも煩わしいのか、三蔵は口を噤んでいた。

それが、最高僧の神秘性をより煽るとわかっていても。







三蔵の執務室と寝所は、寺院の最も奥まった所にあり、何人も簡単に近づくことは許されていなかった。
執務室を訪れることを許されている者は、寺院の館長以下、僧正など上層部の人間と、三蔵の身辺の世話をする修行僧だけであった。
故に、その三蔵法師の側ご用を勤めることは、修行僧達の中では憧れであり、大変な名誉と出世が約束されていたのだった。


その役目を入山してまだ日の浅い漕瑛に与えられた。
古参の修行僧などはあからさまに不服を並べ立てたが、勒按ら上層部の僧侶達は取り合おうとはしなかった。
羨望と嫉妬の視線に送られて漕瑛は、三蔵の執務室に連れてこられた。
新しい入山者の顔合わせの時に一度三蔵と合ってはいたが、三蔵にとっては道端の石ころにも等しい印象しかない。
改めて今、紹介されても三蔵の反応はすこぶる素っ気ない物だった。
その反応に少なからず漕瑛は傷付いていたが、仕事に追われる三蔵では仕方ないと半ばあきらめの気持ちも持っていた。


部屋の外で、勒案から色々注意を受けた。
何事も気難しく、必要なことしか話さないが、見るところはきちっと見ている三蔵だから十分に言動には注意するように念を押された。
側ご用の仕事は、食事、掃除洗濯は言うに及ばす、三蔵の仕事のサポート、説法や三仏神から下される命の従者までこなさなければならなかった。
そして、自分の修行を怠ることは許されなかった。
三蔵の供としてなら尚更、その要求は高かったからだ。







三蔵は、日々くだらないと自分の内で位置づけられた公務をこなしていた。
そんな日々の中で最近、自分の世話をし出した僧侶を思い出した。
自分よりも年上の男。
いつも気を張って三蔵の様子を窺っている。
その視線が、三蔵を苛立たせていた。

「うぜぇ…」

三蔵はそう呟くと、最近覚えた煙草をくわえた。


そしてもう一つ、


長安のこの寺院に着院する少し前から聞こえるようになった声なき声。
大切な何かを追い求める声。
寝ても覚めても聞こえるその声に三蔵は、その声の主を捜し出し、殴りつけることに決心を固めていた。
探しに行く機会はまだ、こないけれど。



その声の存在もさることながら、世話係の坊主の視線が鬱陶しいことこの上ない。
元来、人の視線など気にもとめない三蔵ではあったが、自分の一挙手一投足に神経をとぎすまされていては、気を休める暇さえなかった。
寺院の人事に三蔵が口出しすることは簡単だったが、口を出したが為に煩わしい揉め事に自ら首を突っ込む愚行を犯す気もなかった。
ならば、耐えるしかない。

「…ちっ」

煙草を灰皿に押しつけ、三蔵はがしがしと頭を掻くと残った仕事を片づけ始めた。







漕瑛が三蔵の側ご用を勤めだして、一年が過ぎようとしていた。


初めの頃は気を張りつめていた漕瑛だったが、その気の張りつめ方に無理があったのか倒れてしまった。
その時、いい加減忍耐の袋のひもがすり切れていた三蔵に

「手前ぇの世話もできねぇ奴に世話されるなんざごめんだ。俺の世話やく気なら手前ぇの管理にも手ぇ抜くんじゃねぇ」

と、言われ、それから必要以上の責任感という気負いが漕瑛から取れた。
おかげで、ようやく三蔵も見つめられるという鬱陶しさから解放された。
だからといって、漕瑛に対する三蔵の態度が気を許したものになったかというと決してそんなことはないのだけれど、居心地の悪さを感じていた漕瑛にとっては、格段の差があった。







そんなある日───

控えめな扉を叩く音に三蔵は手を止めた。
入室を許可する。
ゆっくりと扉を開け、漕瑛が入ってきた。

「何だ?」

不機嫌を隠そうともしない声で用件を聞く。
その声音に漕瑛は、少しの間逡巡するが、意を決したように口を開いた。

「三蔵様、皇帝陛下よりのお使者の方がお目通りを願っておられますが、いかが致しましょう」
「皇帝からの使者?」
「はい。今、僧正様がお相手をなさっていらっしゃいますが、お使者の方は三蔵様にお会いになってから皇帝陛下からのお言葉をお伝えするとおっしゃっていらっしゃいます」
「…わかった」

三蔵は、ため息を吐くと腰を上げ、漕瑛に服装の準備を言いつけた。
漕瑛は、三蔵の衣と袈裟を準備し、身支度を手伝った。


すみれ色の衣、白地に藤色の法王唐草の刺繍が施された袈裟を付け、漕瑛を従えて三蔵は皇帝の使者の待つ経堂に向かった。


最高僧などという肩書きをもつがゆえに、いままで縁もゆかりもなかった皇帝という有り難くもない知り合いが増えた。
幼い頃から人付き合いが苦手、いや単に面倒くさいだけの三蔵にとって、師である光明三蔵法師とごく僅かの人間を除いた他の人間は、うざったいだけの認識するに値しない道ばたの石ころと同等か、それ以下の存在だった。
その中に皇帝という肩書きの人間が増えただけだったのだが、如何せんこの”皇帝”と名の付く奴は、邪険にすると三蔵の生活を乱しに来るやっかいな存在だった。
それ故に、溜まった仕事を後回しにし、呼び続ける声の主を捜すという行動を横へやって、嫌がる気持ちに無理矢理蓋をして、会いたくもない相手と会うことにしたのっだった。

「玄奘三蔵法師様、お見えでございます」

漕瑛は経堂の入り口で伝えると、脇に控えて三蔵に道をあけた。
経堂の中で三蔵を待っていた使者と僧正達は、所定の位置に着き三蔵を迎えた。

経堂に入ってきた三蔵の美しい姿に使者は息を呑んだ。

滅多に公の場に姿を見せないことで有名な今代の三蔵法師がこれほどの美丈夫で、
まだ少年であることに使者達は己の目的も忘れ、ぽかんと席に着く三蔵に見とれていた。
三蔵は、ぽかんと自分を見つめる使者の姿に軽い頭痛を覚えたものの、これも仕事だと言い聞かせ、投げ出して自室に戻りたい衝動を抑えて、使者に声をかけた。

「玄奘三蔵です。お役目ご苦労様です」

三蔵の声に使者は、はっと我に返り、深々と礼をした。

「三蔵法師様に置かれましては、お健やかでいらっしゃいますご様子、お喜び申し上げます。また此度のお目通り叶いましたこと、心より御礼申し上げ奉ります」
「どうぞお手をお上げください。使者殿」

三蔵の言葉に使者は顔を上げると、懐から恭しく書簡を取り出し、三蔵に差し出した。
三蔵は、書簡を受け取ると広げた。

そこには、国土安寧のための法要の実施と五行山に棲む妖怪の滅殺の命令が記されていた。

一通り目を通した三蔵は、神妙な面もちで待つ使者に、

「ご下命確かに拝命仕りました。皇帝陛下に有らせられましては、心穏やかにお過ごし下さいますよう申し上げてください。憂いの源は必ず取り除かれますでしょうと」

と、穏やかに告げた。

三蔵の穏やかな言葉に使者は安堵のため息を吐き、返事を待ち望んでいる皇帝の元へ一刻も早く立ち返って報告すると告げ、挨拶もそこそこに帰っていった。
その姿を見送り、使者の姿が見えなくなった途端、三蔵は気だるげにため息をつくとさっさと自室に引きこもってしまった。
漕瑛は、僧正達から皇帝からのご下命が何だったのか問われたが、三蔵に教えられていないものは答えようもなかった。

使者が訪れた日から二、三日、三蔵は寝所から出てこなかった。
ようやく姿を見せた三蔵の旅姿に漕瑛をはじめ、僧正達は驚いた。

「三蔵様、そのお姿は一体…」
「見りゃわかんだろ。皇帝の用事を済ませにちょっと出かけてくる」
「で、ではわたくしもお供させて…」

漕瑛の言葉は、最後まで言えなかった。
三蔵が拒否したから。

「いらねぇ」

三蔵はそう吐き捨てるように言うと、皆が止める間もあらばこそ出かけて行ってしまった。
漕瑛は置き去りにされたことにショックを隠しきれなかったが、一年になろうとする三蔵との生活の中でこう言うときの三蔵は、誰が何を言っても聞き入れないことを知っていたので、黙って置き去りにされた事実を受け入れ、三蔵の帰還を待つことにした。


三蔵が無事帰還することを願って───




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