その子供はそこにいた。

自分が何ものなのか忘れてしまうほどに。
そこにいる理由も忘れてしまうほどに。
日月を重ね、季節を重ねて────

誰一人訪れる者もなく、風と見渡す限りの青空と太陽、そして月───

それだけが生きている者。
子供の知るものはそれらと共にある孤独。

遠い昔、気まぐれな小さな命が一時子供の側にあった。
その命が消えた時、さらなる孤独を子供は知る。

失うことの恐怖

手の届かない哀しみ

残される痛み

永劫とも言える時の中で子供は壊れてゆく



Envy (2)
照りつける太陽の暑さに、三蔵は舌打ちする。
まだ、春の盛りというのに今、自分の居る所だけ夏のような日差しが照りつけている。




五行山───
遙か五百年の昔、天界を騒がせ、神々をその手に掛け、地上へ逃れた。
水簾洞へ立て籠もり、天界軍との長い戦いの末、ここ五行山に封印された。
凶暴で粗雑。
狡猾で無慈悲。
殺戮を好み、平穏を憎む。
妖怪。




麓の村で聞いた五行山の妖怪の伝え語り。
その中にどれ程の真実が含まれているのか。
どれ程の虚構で飾られているのか。
自分の目で確かめてから、皇帝からの下命を実行するかどうかを三蔵は決めるつもりでいた。




ごつごつした岩ばかりの坂道を妖怪が封印されているという岩牢へ向かう。
五行山に入ってから、何年も三蔵だけに聞こえていた声が、はっきりと呼んでいた。




───声が、聞こえたからですよ

三蔵を呼ぶ声。

───あなたが私を呼んでたんです。御指名ってヤツですね

秋のあの日、寺の庭で聞いた光明三蔵の穏やかな声。

何かを欲して止まない悲痛な声。

───それはもうしつこく何度も呼ぶもんで、あんまり煩いから、勝手に連れて来ちゃいました

折に触れ、頑なに閉ざした三蔵の感情を揺り動かす声。
三蔵だけを呼ぶ声。
意識を向けなければ、無視できるはずなのに、気が付くと意識は声に向いている。

───いつか、あなたにも聞こえるかもしれませんよ?誰かの声が

そう言って笑った光明三蔵の優しい笑顔。
自分は、そう───声が聞こえたら、その相手を意地でも捜し出して、煩いと一発殴ってやるとそう言った。
だが、何年も聞こえるこの声の持ち主に対して殴るだけでは気が済まない何かを心の内に三蔵は抱えてしまっていた。




初めて聞こえた声は、心を鷲掴みにされたような痛みを三蔵に与えた。
降り仰ぐ木々の切れ間の青空、足下に転がる生き物だった抜け殻。
声の痛みと共にかいま見た青空を三蔵は長い間忘れることができなかった。




岩牢へ近づくごとにはっきりと聞こえる声。

この先には、封印の解けかけた凶暴な妖怪がいるはず。



『       』



声が、三蔵を揺さぶる。
それは確信。
今まで自分を苛つかせ、時には不安に切なさに気持ちを塗り替えてきたこの声の主が、この先の岩牢にいる。
揺るぎない確信。




道は、尾根を回り、平らな頂に出た。
頂の入り口正面にそびえ立つ切り立った山肌。
その根本に何本もの太い石柱に入り口をふさがれた洞穴があった。
ゆっくり三蔵はそこへ近づいて行く。
近づくに連れて、石柱に張り巡らされた無数の札が見え、封印された場所独特の淀んだような気が三蔵を包んだ。
気の中の嘆きと怨嗟が三蔵の肌を刺したが、さして気にも止めず、三蔵は岩牢の前に立った。
貼り付けられた札には、釈迦如来の禁錮呪がしたためられていた。
と、石柱の奥に踞る影を見つけた。



声が三蔵の胸を差し貫いた。


───こいつだ!











差し出した手をおずおずと、岩牢の中の生き物は掴んだ。
その途端、そいつを戒めていた鎖は解け、岩牢の奥から吹き上げた突風によって無数の札は空に舞い上がり、石柱は砂と化して崩れた。
その間も三蔵とその生き物とが繋いだ手は離される事はなかった。




三蔵は己が手を握りしめ、ぽかんと起こった状況を把握できないでいる目の前の生き物を改めて、見つめた。
大地色の長い髪、華奢な幼い身体、あどけない顔立ち、そして、最初に目が合って離せなくなった今にもこぼれ落ちそうな大きな金の瞳の子供。

「…出ていいの…?」

伺うような声でそいつが言った。
三蔵はその声に答えるように無言のまま握った手を自分の方へ引っ張ってやった。

「えっ?!」

されるまま子供は岩牢だった暗がりから、明るい陽の光の中へ出てきた。
不意にさらされた陽の光がまぶしいのか繋いだ手を振りほどいて子供は、地面に踞ってしまった。
三蔵は、呆然と足下に丸くなった小さな背中を見下ろした。

「何やってんだ?」

踞ったまま動こうとしない子供の脇腹を足で軽くつついてみる。
子供は身じろぎはするが、身体を起こそうとはしない。

「おいっ!」

もう一度、今度はさきほどより少し強く押してみると、子供はごろんと仰向けに転がってしまった。

「…あっ…」

小さな声を上げて、身体を起こし、側に立つ三蔵を見上げた。

「・・・あんた誰?」

子供の今更ながらの問いかけに三蔵のこめかみに青筋が浮かぶ。
口より先に手が出ていた。

「……ってぇ」

殴られた頭を押さえて、子供は三蔵を不思議そうに見上げていた。
金の瞳に陽の光が煌めいて、三蔵の瞳を射抜く。

「…あんた綺麗だ。きらきらしてまるで太陽みたいだ」

子供が笑った。
その笑顔に三蔵はため息を吐く。
邪気のない笑顔。
腹を立てた自分が馬鹿馬鹿しくなる。

「名前は?」
「……名前?」
「ああ、俺は玄奘三蔵。お前は?」

三蔵の問いかけに子供はしばらく考え、何かを思い出すように呟いた。

「ご……く…う…」


───悟空、お前の名だ


「……そん…悟空…」


───短いから、サルでも覚えられるだろうが


「…孫悟空」


ぶっきらぼうだけど、優しい声で言われた。
誰…誰に?


「うん、俺、孫悟空って言う…」

そう言った途端、ぽたぽたと子供の瞳から透明な滴が流れ落ちた。

「あ…お、俺…」

子供は自分が何をしているのか、どうしたいのか、困ったように三蔵を見上げる。
三蔵は小さくため息を吐くと、そっと子供を抱きしめた。
子供は三蔵の行為に目を見開いたが、三蔵の法衣の日溜まりの匂いにゆっくり目を瞑ると、安心したように身体の力を抜いてその身体を三蔵に預けた。
そして、やがて寝息を立て始めた。

「お、おい?」

その寝息に慌てて三蔵は身体を離そうとしたが、子供がしっかりと袂を握っていて、離すことができなかった。
子供を殴って起こそうかと開いている方の手を上げかけて、三蔵は止めてしまった。
子供の安心しきった寝顔に何故か安心する自分に気付いてしまったから。
三蔵はそのまま地面に腰を下ろすと、子供を膝に抱くようにして側の岩にもたれた。




自分は一体何をしているのだろう。
凶暴な妖怪を殺しに来たのではなかったのか。
来てみれば、妖怪などいなくて、何年も自分を呼び続けていた声の主が居ただけで。
それもこんな子供が・・・・。
らしくない行動に三蔵の口がゆがむ。



囚われたのかもしれなかった。



何年も呼ばれ続け、どんなヤツが呼んでいるのかといつも想像して、どうやって殴ってやろうかと思い貯めて、やっと巡り会ったそいつは自分のことを呼んでいないと、惚けたようなバカ面で見上げて来た。
それでも自然に手が出ていた。
それなのに自然に言葉が出ていた。
それが当然のごとく。


「…ばか」

小さく呟いて、三蔵は煙草をくわえた。
紫煙が青い空に上っていく。
何するでなく三蔵は悟空と名乗った子供を膝に抱えたまま、ぼうっと五行山の岩牢の前に座り込んでいた。











陽が西に傾きだした頃、ようやく子供は、目を覚ました。
自分が三蔵の膝に居ることに気が付くと、慌てて膝から下りた。

「目が覚めたんなら行くぞ」

そう言って三蔵は立ち上がった。
子供は、ぽかんと三蔵を見上げて動こうとはしない。

「耳聞こえてねぇのか?」

苛ついた三蔵の声に子供は我に返ると、口を開いた。

「おれ、あんたと一緒に行っていいのか?」
「あんたじゃねぇ。玄奘三蔵だ」
「げ…じ…さん…ぞ?!」
「三蔵でいい」
「さんぞ、俺一緒にいてもいいのか?」

三蔵を見上げる金の瞳が不安に揺れている。
地面に着いた手は、砂を無意識に握りしめて、三蔵の答えを待っている。
三蔵は子供に向かって、

「早く来い、悟空。日が暮れる」

と言いながら、手を差し出した。
子供は、一瞬目を見開くと、それはそれは嬉しそうに笑ってその手を取った。

「ありがと…さん…ぞ」

握り返してきた小さな手に三蔵は、不思議な満足感を抱いていた。
声は、まだ聞こえてはいたけれど。




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