寺院の生活は、規則正しい。山門は日の出と共に開かれ、日没と共に閉じられる。
今日も、山の稜線に陽が沈むのを確認して、重厚な扉は閉ざされた。以降、再び扉が開けられるまで、何人もここを通ることは出来ない。しかし、係の僧が僧坊に向かって歩き去った暫く後、門から少し離れた塀の上を、身軽に飛び越えた影があった。
「遅くなっちゃったな・・・」
影は小さく呟いて、急いで中庭を抜けていく。
この寺院に逗留している最高僧の居場所へ向けて迷うことなく走って行き、離れに続く廊下まで来て、ようやく少し歩調を緩めた。
夜の早い寺院で、夕食もとうに終わった時間に走り回れば、また彼の人に迷惑がかかる。
ただでさえ、存在を厭われているのだ。付け入る隙を与えたくはなかった。
「さんぞー」
この時間。忙しい最高僧はまだ執務室に居ることもあったが、今日はどうやら違うようだ。
離れていても何故か自分には感じ取れる気配を辿って、影―――悟空は、三蔵の自室の扉を開いた。
「ただいま」
「ただいま、じゃねぇっ」
スパーン、と。
扉の影から顔を出した途端、小気味良い音が部屋に響いた。
衝撃に思わず頭を押さえて俯いた悟空は、涙目になって顔を上げる。
目の前には、法衣を着崩した最高僧。
三蔵は、ハリセンを構えたまま、仁王立ちで悟空を見下ろしていた。
「んだよ、帰ってきたら、ただいまだろっ」
「他にも言うことがあるだろうが」
「あ。・・・遅くなってごめん・・・なさい」
仕事で忙しい三蔵が、昼間の悟空の行動を制限することはあまりない。
街へ降りることにだけは渋い顔をすることもあるが、基本的に何処で遊ぼうと放任している。
しかし、行き先を告げてから出かけることと、門限までには帰ること。この二つだけは守らせていた。
約束を破った、自分が悪い。
悟空が素直に頭を下げると、三蔵はようやくハリセンを持った手を下に降ろした。
ふん、と一つ鼻を鳴らし、部屋の奥に向かって踵を返す。
「あれ? 待っててくれたんだ」
三蔵の姿越しに見えたもの―――卓の上に載せられた夕餉を目にして、悟空は目を瞬(しばた)いた。
三蔵と交わした約束を破った。だから、飯抜きを申し渡されても、仕方がないと思っていたのに。
しかも、卓の上に残されている食事の量は二人分だ。
待っていてくれた、そのことがひどく嬉しくて、悟空は思わず破顔した。
「んなワケあるか。俺も今戻ったところなんだよ」
「そっか」
振り向きもしない三蔵からは、素っ気無い返事が返るだけだ。
相変わらずの態度に、悟空はこっそり笑みを漏らした。
素っ気無い物言い。けれど、三蔵は決して冷たいわけではない。
その証拠に、卓に並んだ夕飯は、すっかり冷えてしまっている。
例えば、彼が、夕食は仕事が終わってからだと側係に言い付けたとする。それならば、今ここにある夕餉からは湯気が立っていなければおかしいのだ。
忙しい三蔵を待たせてしまった。
そのことに慌てて、悟空は手を洗いに行く。ばしゃばしゃと着ていたシャツの裾にまで飛沫を飛ばす勢いで、手とついでに顔を洗い終えると、卓に着いた。
三蔵は既に、悟空の向かいの椅子に座って缶ビールを傾けていた。
「で? こんな時間まで何処で何していやがった」
「裏山。迷子のヤツを巣に帰してた」
「・・・今度は何だ?」
「わかんねぇ。こんくらいで、細長くて、なんかくねくねしてたけど」
箸を持ったままの手で、「これくらい」と示してみせる。途端、鋭い一瞥が飛んで来て、悟空は慌てて、箸を置いた。
空になった両手で、改めて先刻まで一緒だった動物を模(かたど)る。
どうやら伝わらなかったらしく、三蔵は眉間に皺を寄せた。
「・・・爬虫類か?」
「違うよ。毛があってふわふわしてて、うーん・・・なんていうんだろ、なんかヘンな走り方するヤツ」
「変? 怪我でもしていたのか?」
「そーじゃなくて・・・なんか背中丸めて・・・跳ぶ?みたいに走るんだよ」
「―――鼬、か・・・」
悟空の要領を得ない説明を、顔を顰めて聞いていた三蔵は、ややあってから、ポツリと一言呟いた。
「イタチ? なにそれ」
耳慣れない名前に、悟空は首を傾げる。
日頃、裏山で遊び回っている悟空は、動物や植物の姿形を良く知っている。しかし、見て、時には一緒に遊ぶ相手の名前を知っていることは、あまり無い。その場に、訊ねる相手が居ないせいだ。
「・・・まあいい。さっさと食え」
「ん」
悟空の知識の無さ。その責任の一旦を担っている自覚はあるのだろう。三蔵は小さく溜め息をついて、食事の続きを促した。冷め切った精進料理は、正直、美味いものではなかったが、悟空は素直に箸を持ち直す。
暫く無言で食事を続ける。
食が進まないのか三蔵は先に箸を置き、取り出した煙草に火を点けた。
食事中の喫煙を今更嫌がるようなことはない。自分の方へ流れないように、顔を横向けて煙を吐き出す三蔵を見ながら、悟空はそのまま食事を続ける。
静かな部屋に、時折、皿の音が鳴る。
今もまた。響いた音に三蔵が目を向け―――ふと表情を変えた。
「悟空」
「・・・何?」
「食ったらすぐ風呂に行けよ」
「?」
不思議そうな顔をした悟空の腕を、三蔵が指し示す。
目線で促されて、肘に目を遣ると、擦り剥けて赤い傷が見えた。
血が滲み、傷口に泥が混じっている。
普通にしていれば目に入る部位ではないから、気づかなかったらしい。
言われてみればひりひりと痛む気もする傷に、悟空は今日一日を思い返した。
今日もまた、忙しい三蔵に構ってもらうことは諦めて、昼頃から山に入った。
気に入りの大木。涼しげな沢。見知った場所を気ままに走り回る内に、はぐれたらしい動物を見つけた。
悟空のまだ然程大きくはない両手に、すっぽりと収まってしまう小さな生き物。
帰してやろうと巣穴を探しているうちに、いつの間にか日が落ちていたのだ。
「いつだろ。分かんねぇや。色んなとこ、歩いたから」
「・・・で、巣穴は見つかったのか?」
「うん。俺、そーいうの見つけるの得意なんだ」
えへへ・・・と笑う悟空に、三蔵は呆れたようだ。
また紫煙を燻らせながら、口元を僅かに皮肉気に歪める。
「本当に野生児だな。いっそ裏山で暮らしたらどうだ?」
吐き出された科白に、悟空は目を瞠る。
三蔵の悪態は、日常茶飯事だ。特別変わったことを言ったわけでもないのに、驚いた顔をした悟空に、三蔵は怪訝な面持ちになった。
問いただそうと口を開きかけた時、目の前で悟空は表情を変える。
驚きから、嬉しそうな面に。
不可解な反応に、三蔵は目を眇めた。
「何、笑ってやがる」
「うん、ちょうどこんぐらいの時期だったなぁって」
「ああ?」
小皿から煮物を摘み上げ、口の中に放り込む。二、三度、咀嚼し、悟空はそれを飲み込んだ。
次いで湯のみに手を伸ばし、注がれた茶を流し込む。
焦らすように間を置いて。
金晴眼が、悪戯めいた光を放った。
「覚えてない? 俺が初めて家出した日」
◆ ◆ ◆
吹き抜ける風の冷たさに、ひやりとさせられる時期だった。
三蔵と悟空が共に暮らし出してから迎える、二度目の秋。
いつものように執務に忙殺されていた三蔵の耳に、廊下を走る軽い足音が聞こえてきた。
静寂に満たされたこの寺院で、これ程無遠慮に廊下を走る者は一人しかいない。ましてや、最高僧の執務室に近い廊下ともなれば。
「・・・・・・・・・」
―――今度は、何だ。
筆を止め、三蔵は小さな溜め息をつく。
悟空を拾って、一年と半年。外界に触れ、少しずつ感情を取り戻した小猿は、最近ではもう、毎日辺りを駆け回っている。
一体何が楽しいのか、広大な寺院の敷地内や裏山で見聞きした些細な出来事を、大げさに三蔵に報告し、その度に、頭を抱えたくなる子供特有の厄介事を引き連れてくることも珍しくなかった。
「さんぞーっ」
「うるせェッ」
バンと派手な音を立てて扉が開け放たれた瞬間に、三蔵は罵声を浴びせ掛ける。
常ならばハリセンを打ち下ろすところだが、生憎今は、それをしに椅子を立つ時間が惜しかった。
「静かにしろと言ってるだろうっ」
「うん。・・・さんぞう、あのな」
―――聞いちゃいねぇ・・・。
素直に頷くことは頷くのだが、悟空の注意は耳慣れた小言には向かなかったようだ。
この分では、次にこの部屋に入って来る時にも、同じことを繰り返すだろう。
躾直す必要があるが、それはまた、次の機会だ。皺の寄った眉間を押さえ、一つ息をつくことで気持ちを切り替え、三蔵は小猿が気を取られている、手の中の物へと注意を向けた。
「こいつ、拾った。裏山で」
「・・・拾うな」
「うん。さんぞー、なんとかして」
「・・・あのな、サル。人の話を聞けよ。俺は『拾うな』と言ったんだ」
「うん。でも、もう、拾っちゃった」
悟空が両手で大事そうに抱えているもの―――茶色の毛玉。
三蔵に見えるように両手で掲げ、悟空は机に近寄って来た。
犬―――野犬だ。しかも、まだ幼い。
悟空の腕の中の動物を、三蔵は目を眇めて観察する。
後ろ足を一本、怪我しているようだ。折れてはいないようだが、皮膚が捲れ、血が滲んでいる。傷のせいで、歩みが遅れ、群れからはぐれたのだろう。幼さ故に狩りが出来ず、栄養不足で衰弱しているようだった。
「寺では飼えんと言ってある筈だ」
「うん。でも・・・」
三蔵の言葉に、悟空はしゅんと項垂れる。
仔犬を守るようにしっかりと抱き締め、身を固くしたその姿に、三蔵はまた溜め息をついた。
日中、裏山で自由に遊んでいる悟空は、落ちている雛を見つけては巣に戻し、傷ついた動物を見つけては、時間を忘れて寄り添っている。手に負えないと判断した動物を三蔵の元に持ち込んでくることもしばしばで、何度叱っても止めようとはしなかった。
普段は三蔵の言い付けにあまり逆らわない小猿が、この事に関してだけは頑是無い。
弱い生き物を見捨てておけないのは、子供にありがちな行動であるし、まして悟空は『大地の子供』だ。落雷で折れた木を見てさえ胸を痛めている彼に、見捨てておけと強要するのは、無理な相談なのかもしれなかった。
仔犬の傷がすっかり癒えて、山に帰せる状態になるまで。
今回もまた、忙しい仕事の合間を縫って、面倒を見ることになるのだろう。
心の内で諦めを受け入れた三蔵は、不機嫌顔で悟空を見遣り―――改めて眺めた彼の姿に、目を瞠った。
「・・・何やってんだ、おまえ」
三蔵が考え込んでいた僅かな間に、悟空は仔犬を床の上に寝かせていた。
執務机のすぐ横に、着ていたシャツで寝床を作って。
―――それはまだ、いいのだが。
肌寒い季節に上半身を剥き出しにした子供は、一体何を考えているのか、その格好のまま、眼前で両手を合わせている。
小さな手に力を込め、心持ち俯いて、ぎゅっと目を閉じていた。
お願いしているというよりは、祈っているように見えるのは、気のせいか。
三蔵が訝る声を出すと、悟空はそろりと目を開けた。
「え? だって、さんぞー、えらいから、こうやるとお願い叶うんだって」
「・・・誰に聞いた?」
「この前、寺に来てたじーちゃん」
「・・・・・・・・・」
寺院に詣でる客の中には、金目の謂れを知らない者も居る。
基本的に人懐こい悟空は、構われることも多かった。
菓子を貰ったり、話をしたり。偶には、民家へと招かれたり。
閉鎖的な寺院の中で他人と関わらない環境が子供の成育に良いとも思えず、騒ぎを起こさない限り、三蔵も放任しているのだが。
「叶うわけねぇだろ、バカ猿」
真剣に頭痛を覚えて、三蔵はこめかみに指を当てた。
「え? あのじーちゃん、嘘ついたのか?」
「・・・何か、勘違いしてんだろ」
常日頃、保護者に対して嘘をつくなと言い聞かせているせいだろうか。親しい相手につく嘘を罪悪と思いがちな悟空は、途端、悲しそうな顔をする。
何故自分が、見ず知らずの老人を庇わなければならないのかと思いながら、三蔵は低く呟いた。
実際、老人は嘘をついたわけではないだろう。
寺に通う信者の中には、三蔵を神に等しく崇めている輩も多い。
「そっか、さんぞー拝んでも、叶わないのか・・・」
「あのなァ、俺は神じゃねぇんだよ。第一、望みは自分で叶えるモンだ」
「うん・・・」
頷きながらも、小猿の表情は晴れない。
床に横たえた仔犬と三蔵を見比べて、困ったような顔をしている。
三度(みたび)、三蔵は溜め息をついた。
「風呂行って、着替えて来い」
「・・・こいつは?」
「看ておく。ただし、傷が治るまでだからな」
途端、ひどく嬉しそうに笑った悟空を、ハリセンで風呂へと追い立てる。
残された仔犬と未処理の書類の山を眺め遣って、三蔵は盛大に舌打ちを漏らした。
餌を与え、たっぷりと睡眠を取らせると、仔犬はすぐに元気になった。
包帯を巻いた後ろ足を庇いながら、悟空と一緒に戯れている。
執務室の片隅で、ごろごろと床を転がったり、そのまま二匹で寝入ったり。野犬のくせに警戒心が薄いのは、まだ幼いせいか、それとも、拾い上げたのが悟空だったせいなのかと、ここ数日、視界の隅でじゃれ合う彼らを意識しながら、三蔵はぼんやりと考えていた。
時折、書類を持って部屋に入って来る僧達が、物言いたげな視線を送ってくる。
が、三蔵はそれを全て無視していた。
悟空からも、僧達とは別の種類の視線を感じる時がある。
ここの所、寝る間も惜しい程忙しく、ろくに構っていないせいだろう。
しかし、三蔵は悟空からの視線にも、気づかないふりを続けていた。
黙々と筆を動かしていると、やがて諦めたのか、悟空はそっと目を逸らし、また仔犬と遊び始める。
欲求を必死で我慢しているその様子に、何も感じないわけではなかったが、何しろ仕事が忙しく、彼の為に時間を割いている余裕はなかった。
夜更けに疲れて私室に戻り、何処か寂しそうな寝顔を見ながら、煙草を一本吸うのが精一杯だ。
眠る一人に毛布を掛け直し、眠る一匹の傷の具合を確かめる―――そんな事が、そろそろ習慣になろうかという頃。
事件は起こった。
三仏神絡みの急な用事で一日寺を空けた三蔵が執務室へと帰ってみると、部屋の様子が妙だった。
片づける暇もなく出かけたせいで、机の上は筆を置いたその時のままになっている筈だが。一見して、誰かが触った形跡がある。
下手に弄られると、仕事が増える。だから、触るなと言い置いた筈なのに、側係の僧が要らぬ世話を焼いたのだろうか―――思いかけ、しかし、三蔵はすぐにその思いつきを否定した。
机の上は、出かける前よりも散らかっている。お世辞にも、掃除をしたと言えるような状態ではなかった。
「・・・チッ」
苛立ちも露に舌打ちを漏らして、三蔵は机上を改め出した。
未読の要望書。既読の案件。未処理の紙束。決裁済みの書類。揃えて積み上げていた筈の山は少し崩れてはいたものの、全てがばらばらにされたわけでもない。余計な仕事を増やされていなかったことにほっと安堵の息を吐き―――三蔵は、ふと視線を止めた。
決裁済みの書類の山。その脇に置いておいた筈の、印鑑が無い。
手早く辺りを検分し、席を立つ間際、無意識に仕舞ったのだろうかと訝って、引き出しを開ける。しかし、そこにも求めていたものはなかった。
「・・・・・・・・・」
三蔵が使っている印鑑は、この寺院の最高決裁印だ。
三仏神が降臨する斜陽殿を有する、長安最大の寺。権威あるその場所で、最高僧が使う印鑑。当然、その役目に相応しいように、印鑑もただの判子ではない。
貴重な石に、選ばれた彫り士が繊細な彫刻を施している。三蔵は全く興味を持たなかったが、美術品としての価値もかなり高いと聞いていた。無論、おいそれと失くしていいものではない。
紛失が他の僧に知れたら、絶対に一騒動ある。
どうしたものかと思案顔になった三蔵の耳に、耳慣れた物音が聞こえてきた。
廊下を走る騒々しい足音。
三蔵の帰還を知った悟空が、喜び勇んで会いに来たのだ。
「さんぞーっ、おかえりーっっ」
バタンと、派手に扉が鳴る。
後から付いてくる仔犬を迎え入れるために大きく入り口を開いたまま、悟空は満面の笑みを浮かべた。
静かにしろとしつこい程に繰り返す注意は、やはりサル頭を素通りしているらしい。
呆れながら、しかし、今はそれ所ではないと、三蔵は努めて静かに彼の名を呼んだ。
「悟空」
「・・・何?」
日頃、『サル』と呼ばれ慣れている悟空は、三蔵の言葉とその声音に、驚いたようだ。金目をきょとんと見開いて、三蔵を見つめた。
その足元に、トコトコと歩いて来た仔犬が寄り添う。まだ少し足を引きずってはいるが、外に出られるようになったらしい。茶色の足先に毛よりももっと色の濃い泥がこびりついているのを見ながら、三蔵は静かに言葉を継いだ。
「ここに置いてあった判子を知らないか?」
「ハンコ?」
「俺がいつも使っているヤツだ」
「・・・無いの?」
「ああ」
「それ、大事なヤツ、だよね・・・?」
「そうだな」
「俺、知らねぇけど・・・」
常にない三蔵の様子に、悟空は不安そうな顔になる。
生来の素直な性格と、三蔵の躾が徹底しているせいで、悟空は三蔵には嘘をつかない。知らないと言うならばそうなのだろうと、三蔵は小さく頷いた。
「だったら、いい」
「・・・・・・・・・」
三蔵の内心を写したようにまだ晴れない顔のまま、悟空は足元に擦り寄って来た茶色の毛玉を抱き上げる。そうして、扉を閉めようとして、あ・・・と呟いて動きを止めた。
「サル?」
訝った三蔵が彼の元へ歩み寄るよりも一足早く、扉のすぐ向こう側でバタバタという足音が響いた。
扉に手をかけたまま、突然の出来事に呆然としている悟空の視線の向かう先を、三蔵は辿る。
人気の無い、長い廊下。
たった今までこの場所に居た人物は、既に廊下の先を折れて、姿を消してしまっていた。
「誰か居たんだな?」
「うん。・・・皆、同じ格好してるから、誰だったかはわかんねぇけど」
「そうか」
僧の一人に、今の会話を聞かれたようだ。
唇を引き結び、三蔵は険しい表情になった。
印鑑の紛失。その事実は、すぐに寺中に広まるだろう。
質の悪い、噂と共に。
「・・・さんぞう?」
法衣の裾をくいと引かれ、三蔵は傍らの子供を見下ろす。
向けられる金晴眼に宿った不安と戸惑いを見て取って、三蔵は大地色の彼の髪を、くしゃりと手のひらでかき回した。
「知らねぇんだろ? なら、何も気にするな」
三蔵の危惧した通り、半時も経たずに、決裁印の紛失は広く知れ渡っていた。
廊下で、僧坊で、境内の片隅で。法衣を纏った僧達は、口々に噂を広めていく。
「聞いたか? 不吉な金目の妖怪が、三蔵様の御印鑑を盗んだらしい」
悪意と敵意。羨望と嫉妬。悟空の周りで燻っていた感情が、一気に噴出し、表面化する。それは、噂と同じ素早さで、寺院中に満ちていった。
(2002/10/02 to be continued)
3500hitキリリク「悟空の家出」です。家出・・・「してないんじゃ、コラーッ」というお叱りは、しばらくお待ち下さいませ。次で、必ず。いつもより長い話のせいか時間がかかってますが、とても楽しく書いています。続きはなるべく早くアップします。