家出記念日 中編
Writer : Kairi Nanase




 隣の三蔵の仕事部屋から、低いやり取りが聞こえてくる。
 聞き覚えのある坊主共の声。耳触りの良い三蔵の声。
 三蔵の寝台に寄りかかるようにして床の上で膝を抱え、傍らに伏せた仔犬の背を撫でながら、悟空は先刻から途切れない隣室の話し声を聞いていた。

 常ならば、これ程長く話が続くことはない。
 会議は別室で行われるし、ここへ来るのは大抵、使いの坊主だ。伝言や書類を届けながら、数言、三蔵に言葉をかける。三蔵は大概返事をしないし、してもそれは極短い。稀に長々と口上を捲くし立てる輩には、三蔵が鋭い一瞥や一喝でそれらを強制的に止めさせていた。

 声は、止まない。
 三蔵の怒鳴り声も聞こえない。
 それは、やはり先日の一件のせいだろうか。
 印鑑の紛失。
 あの三蔵が、毛嫌いしている坊主達との会話に我慢を強いられる程、それは大変な出来事だったのだろうか。

 そう思うと、悟空は落ち着かない。
 何も出来ない自分が歯痒く思え、かと言って、執務室に飛び出して行くことも出来ないまま、悟空はただじっと胸の内のざわめきを堪えていた。

 そのまま、どのくらいの時間が経ったのか。
 延々と続いていた話し声も、ようやく途切れた。
 結局、一度も三蔵の罵声は聞こえないまま、言いたいことを言い終えたらしい相手が、扉を開ける音がした。
 廊下へと通じるその扉が重い音を立てて閉まった後、今度は、ガタンと椅子を蹴る音がする。
 息を詰めて窺っていると、悟空が居る私室へと繋がる扉が押し開かれて、三蔵が姿を現した。

「さんぞう・・・」

 執務室で火を点けて来たのか、三蔵は煙草を咥えている。
 蹲っていた悟空は、視界に入った待ち人の姿に半ば条件反射で立ち上がった。しかし、刺々しい雰囲気を隠そうともせず、苛々とフィルターを噛む彼の様子に、飛びつくことは躊躇われて、結局、所在無げにその場に立ち尽くすことになった。

 進路を空けるように脇に退いた悟空を余所に、三蔵は寝台に歩み寄ると、ドサリとそこに腰を降ろした。
 咥えた煙草を指先に持ち替え、深く息をつく。
 薄く開いた唇から紫煙が立ち昇り、嗅ぎ慣れたマルボロの匂いが漂ってきた。

「さん―――」

「猿」

 二度目の呼びかけは、当の相手に封じられた。
 固い声音で悟空を呼び、三蔵は部屋に据え置かれた卓に載せられた灰皿を示した。
 慣れたやり取りだ。足りない言葉を正確に汲み取って、悟空はそれを彼に手渡す。
 灰皿の底面にまだ長い吸い差しの先端を押し付けて、それから三蔵は、徐に悟空の腕を取った。

「? なに・・・」

「悟空。俺がいいと言うまで、部屋から出るな」

「え?」

「遊びに行きたいなら、窓から出ろ」

 投げ出した両脚の間に華奢な躰を引き寄せて、三蔵は僅かに悟空を見上げる。
 紫暗にぴたりと見据えられて、悟空は金目を見開いた。
 真剣な顔。常とは違い、面倒臭そうではない声音。
 だから、大切なことを言われていることは分かるのだが。

「でも、さんぞー、窓はダメだって・・・」

「今だけ、許す。絶対に、坊主共に見つかるなよ」

「うん・・・?」

 境内や裏山で見聞きした物珍しい出来事を、三蔵に伝えたいという衝動のまま。
 公務から帰還した三蔵を、執務室の窓越しに見かける度。
 建物を回り込み、廊下を通る時間を惜しんで、悟空は窓から出入りしていた。
 その都度、怒鳴り、ハリセンを振り翳すのは、三蔵だ。
 一度口に出したことを撤回することは滅多にない、彼の気質を知り尽くしているだけに、悟空は釈然としない思いで、小首を傾げた。

 悟空の戸惑いは、伝わっている筈だ。
 しかし、三蔵はきっちりとそれを無視する。
 それどころか、悟空を膝の間に立たせたまま、更に不可解な事を告げてくるのだ。

「それから、しばらく飯は俺の分を食え」

「・・・さんぞーは?」

「おまえのを食う」

「なんで?」

「・・・わかんねぇなら、それでいい」

 堪らずに投げかけた問いは、溜め息に流される。
 気の回し過ぎだと思うしな―――ややあって、三蔵の洩らした呟きの真意は、悟空には理解出来なかった。
 拾われてから今までの間に、聞いた覚えのない言い付け。
 困惑に目を揺らせた悟空を眺めながら、三蔵は微かに口の端を歪めた。
 形作られた表情は―――苦笑。
 苦いものだとは言え、あまり見ることのない三蔵の表情に、悟空は見惚れる。

「俺がそうしたい気分なんだろ」

 自分のことなのに、まるで他人事のように、突き放した言い方をしながら。
 三蔵はすっと腕を伸ばして、悟空の頭に手のひらを置いた。
 そのままくしゃりとかき回される。
 頭を撫でた三蔵の手。
 それが嬉しくて、悟空はへらりと相好を崩した。

「・・・ヘンなさんぞー」















 ―――空気が、何だかぎすぎすしている。

 仕事を始めた三蔵の背に「行って来るッ」と声をかけて、窓から地面の上へと降り立つ。仔犬をしっかりと腕に抱き、未だ人気のない境内を裏山に向かって走りながら、悟空は秋の深まりと共に次第に冷たさを増していく大気を、肺一杯に吸い込んだ。

『坊主共には見つかるな』

 不可解な三蔵の言い付けに、悟空は素直に従っている。
 三蔵の居ない部屋の中に一人閉じこもっているのは苦痛なので、朝食を終えるとすぐに外に出、夕食の直前に寺へと戻る―――ここ数日は、そんなことを繰り返していた。

 三蔵は、相変わらず忙しい。
 悟空が寺に居ないこともあって、顔を見るのは朝夕の食事の時くらいだ。
 これも三蔵の言い付け通り、彼の為に運ばれた食事に手をつけながら、悟空は不思議に思って問い掛けた。

「ハンコ。無いのに、仕事、出来んの?」

 向かいで、箸を運んでいた三蔵が、顔を上げる。その手の中にある、見慣れた器に目を止めて、悟空は胸中に生じた違和感を持て余した。
 悟空が三蔵の食事を食べ、三蔵が悟空の分を食べている。だから、彼が今使っているのは、悟空の食器だ。装飾も何もない簡素なそれは、寺の下位僧が使うものと同じ。もっとも、妖怪の穢れを嫌って、悟空が使う器は他の僧とは分けられていたから、それは確かに、悟空だけのものではあったが。

「出来ることを、やっている」

 悟空の視線の向かう場所に、三蔵は気づいたようだ。自然、紫暗の双眸は、悟空の手元に向けられる。
 悟空の手の中にある、三蔵の食器。それは、やはり最高僧の地位に相応しいように、高価なものだと聞いている。
 自分のものとは大きさも手触りも違うそれを、悟空は慎重に扱っている。
 食事の味が半分分からなくなる程度には、慎重に。
 それでも時には手元を誤って器を鳴らしてしまうこともあり、その度に、ひやりとさせられていたが、持ち主である最高僧の方は、器の保全には全く頓着していないようだった。

「見つからねぇモンは仕方ねぇ。さっさと作り直せと言ったんだが、爺ィ共がごねやがる」

「何で?」

「前代未聞の不祥事だからな。ぎりぎりまで公にしたくないんだろうよ」

 そう言って、三蔵は疲れたような、苛立ったような、複雑な色の溜め息を吐いた。

「さんぞうが、怒られるの?」

 だから、心配して、問い掛けたのに。

「てめぇが気にすることじゃねぇよ」

 悟空の科白に、三蔵は呆れた顔をした。
 彼は滅多に仕事の愚痴を零さない。上司である三仏神や同僚である僧たちに悪態はつくが、それだけだ。
 そうすることで保っている何かが、知らせないことで守っている何かが、あるのかもしれない。
 だから、それ以上は聞けなかった。

「ハンコ、無かったら、さんぞの仕事、ラクになるのかと、思ったんだけどな」

 走りながら、腕に抱えた仔犬に向かって、話し掛ける。
 ここの所、寝る間も無い程忙しい彼を一番間近で眺めながら、次々に仕事を持ち込む僧達を、さすがに恨めしく思っていた。黙々と書類に捺印する姿に、あれが無ければさんぞも少しは休めるのに・・・などと、思ったことも実はある。
 けれど、実際にそうなってしまえば、彼の負担は余計に増したようだった。

「けど、どこ行ったんだろうな、ハンコ」

 几帳面な三蔵が物を失くすなど、考えたこともなかった。
 もっとも、印鑑の紛失は彼が不在の間の出来事だったから、厳密に言えば、それは彼の所業ではないのだが。
 呟きながら、見慣れた建物を回り込む。
 境内を掃き清める坊主の姿が遠くに見えて、悟空は一層足を速めた。
 顔を合わせても無視されるか、嫌そうに振舞われるのがせいぜいだったのに。ここ数日、寺の僧達は悟空を見かけると、一様に刺すような視線を送ってくる。
 嫌悪。憎悪。悪意。―――あるいは、もっと禍々しい感情。
 今も向けられたそれにぞくりと背が震えたが、気づかなかったふりをして、悟空は裏山に続く通用門を通り抜けた。
 ここから先は、もう誰に会う心配もない。
 そこでようやく足を止め、柔らかい地面に抱えた仔犬を降ろしてやる。
 もう殆ど傷の完治した仔犬が、危なげなく立つのを確認して、悟空は何度も辿った獣道を慣れた足取りで歩き出した。















 印鑑の紛失から、五日が経った。
 三蔵はやはり忙しく、食事時しか顔を合わせない日が続いている。
 苛立ちのせいで、煙草の量が増えたようだ。
 今も、夕食の為に私室に戻って来たくせに、マルボロを手放そうとしない彼に、悟空は小さな溜め息をついた。
 躰に悪いのだと教えられた。だから、本当は咎めたいのだが、言っても三蔵は聞かないだろう。
 せめて、部屋に漂う煙だけでも吸い込まないように―――と、悟空はたった今、入り口にした窓を少しだけ開けた。

「・・・さっさとしろ」

「うんっ」

 悟空の気遣いに、三蔵は気づいたようだ。
 不機嫌そうに顔を歪め、舌打ちして―――それでも、吸い差しを灰皿に押し付けてくれる。
 分かりにくいけれど、優しい。そういう所が、とても好きだと思う。
 気持ちのままに笑顔を向けて、悟空は三蔵の前に座った。

「いただきます」

 卓にはいつもと同じような精進料理が載せられている。
 拾われて直ぐ躾られた通りに、食前の挨拶を口にして、悟空は料理に箸をつけた。
 三蔵も、遅れて箸を取る。彼は、挨拶は口にしない。いつだったか、「なんで?」と問い掛けたら、「ガキの頃、散々言ったからもういいんだ」と、よく分からない答えが返って来た。無論、納得はしていない。していないが、結局、悟空にとって、三蔵の言葉は絶対なのだ。

 寺で育ったせいか、妙に煩いところのある三蔵の不興を買わないように、慎重にまだ持ち慣れない器を持ち上げる。
 それから、いつものように今日一日の出来事を報告しようとした悟空は、しかし、言いかけた言葉を寸前で飲み込むことになった。

「っ・・・」

 食事に手をつけた三蔵が、突然、箸を放り出す。
 顔を顰めて口元を押さえ、ガタンと乱暴に椅子を蹴った。

「さんぞ・・・?」

 いつになく余裕のない所作で洗面所へと向かう背を、悟空は金目を瞠って見送る。
 数瞬後、開け放たれたままのドアから水音が漏れ出して、ようやく悟空は我に返った。
 慌てて席を立ち、三蔵の後を追う。
 然して広くはない部屋の中を走って彼の居所に向かうと、三蔵は蛇口に手を掛けて、顔を伏せていた。

「さんぞう?」

「・・・・・・・・・」

 呼びかけても、応えは返らない。
 落ちかかった金糸で整った横顔を隠したまま、彼は断続的に背を震わせた。
 狭い空間に、水音が響く。
 吐いているのだ―――と思い至って、悟空は一瞬、何も分からなくなるくらいに、ひどく慌てた。

「さんぞうっ」

 風邪をひく、仕事のし過ぎで体調を崩すといった、誰にでもある事は三蔵にもある。けれど、彼は基本的に頑健だ。疲れた素振りを見せはしても、悟空の前で本格的に苦しげな様を晒すことはあまりなかった。
 覚えのない事態に動揺して、悟空は三蔵に寄ろうとする。
 しかし、痙攣する背を撫でようとした手は、当の相手に止められた。
 顔を伏せたまま、三蔵は小さく首を振る。
 声に出して叱責されたわけではないが、そこに確たる拒絶の意思を見て取って、悟空はビクリと足を止めた。

「・・・っ・・・」

「・・・・・・・・・」

 水音は続く。
 一頻り吐いて収まったのか、三蔵は手のひらで水を掬い、口の中を濯ぎ出した。
 何度か繰り返される動きの度に、金糸がさらさらと揺れるのを見ながら、悟空はそろりと踵を返した。

 卓に戻る。
 自分が座っていた場所ではなく、三蔵が居た側に回り込んで、彼の前に置かれていた自分の膳を覗き込んだ。
 見慣れた器に、料理が載っている。
 自分が食べていたのと、同じ料理。
 まだ殆ど、手が付けられた様子は無かった。

 何が、あったのだろう。
 三蔵が投げ出した箸を拾い、悟空はまだ湯気の立つ料理を突付く。
 食事を始めてからの短い間に彼が食べたものを思い出そうとして、首を捻った時―――

「触るなッ」

 と、背後から鋭く一喝された。
 驚いて振り返れば、三蔵がドアから顔を覗かせている。
 口元と手を濡らしたまま、彼は掠れた声で吐き捨てた。

「後で何か食わせてやる。だから、それには触るな」

 顔色が悪い。当然だろう、嘔吐の苦しさは、悟空にも分かる。

「大丈夫?」

 問うたら、頷き返された。一先ずほっとし、次いで、疑問が湧いてくる。
 疲れては見えた。けれど、調子が悪いようには思えなかったのに、彼は突然どうしたのだろう。
 答えを探すように、秀麗な面を凝視して―――そして、気づいた。
 洗面台に寄りかかるように、顔を伏せていた三蔵。
 片手は蛇口に付き、もう片手は―――己の口に、指を突っ込んではいなかったか。

 わざと、吐いた。
 何故?
 答えは、簡単だ。
 そうしなければならなかったから。
 では、何故そうしなければならなかったか?
 これも、簡単だ。
 入っていたのだ。三蔵が食べた食事に。吐き出さなければならなかったものが。

「大丈夫・・・じゃ、ないじゃん・・・」

 坊主共に会うなと言われた。
 食事を交換して食べると言われた。
 奇妙な言い付け。
 ようやく、理由が分かって、背筋が震えた。

「なんか、入ってたんだろ・・・?」

 声も震えた。
 それを悟られたくなくて、躰の脇でぎゅっと拳を握り締めた。
 三蔵は、黙っている。
 意図的に表情を消したその顔を見ていたら、ひどく泣きたくなった。

 悪意には慣れていた。
 この場所に居たかったから、侮蔑にも憎悪にも耐えていられた。
 けれど。
 三蔵が。
 彼が。

「悟空っ」

 昂ぶった感情を抑えられずに、悟空は部屋を飛び出した。
 ここ暫く使わなかった扉を蹴破る勢いで押し開けて、廊下へ。
 背後から鋭い声が聞こえたが、走り出した足は止まらなかった。















 滅茶苦茶に走ったつもりだったのに、気が付くと見知った場所に立っていた。
 寺院の裏手。
 掃除をする以外には、坊主共も寄り付かない、寂れた場所。
 時折、悟空はここに来る。隅にあと数年で枯死しそうな老木が植わっていて、乾いた幹の優しい感触が、寂しい時、悟空を慰めてくれた。
 密かな、気に入りの場所だ。

 膝に手を着き、ぎゅっと目を瞑る。
 泣きたい思いを堪えながら、暫くそうしていると、乱れた呼吸もやがて徐々に収まってきた。
 同時に、気持ちも少しだけ、落ち着いてくる。
 脹脛に押し当てられた湿った感触に気づいて、視線を落とすと、いつの間について来たのだろう、仔犬がまるで悟空を慰めるように、傍らに寄り添っていた。

「おまえ、付いて来てたのか・・・」

 しゃがみ込み、悟空は仔犬と目を合わせる。

「気づかなくて、ゴメンな」

 ぎこちなく、それでも小さく笑いかければ、仔犬はゆっくりと尻尾を振った。
 慰めるように、また躰を押し付けられて、その温かな感触に、喉から込み上げるものがある。しかし、悟空は歯を食いしばって、嗚咽の塊を飲み込んだ。
 泣かない。
 今、辛かったのは、自分ではないのだ。

「さんぞうが・・・」

 小さく声を洩らす。
 苦しかったのは、彼だ。
 自分ではなく。

 拾われて、一年半。
 憎まれることにも、蔑まれることにも、慣れて来ていた。
 ここの所、大きな騒ぎも無かったせいで、自惚れていたのかもしれない。
 ここに居ることを―――三蔵の側に居ることを、ようやく黙認されたのかもしれない、と。

 蹲ったまま、躰を強張らせた悟空の服の裾を、仔犬が口に咥えた。
 引っ張られて、悟空はのろのろと顔を上げる。

「なに・・・?」

 何処かへ連れて行こうというのか。
 引っ張る相手に抗わずに、悟空はゆっくりと立ち上がった。
 引かれるままに歩いて行くと、仔犬は悟空を老木の元まで連れて行った。
 長く長く生きてきた木の、優しい感触。
 冷たさを増す風にそろそろ葉を落としかけている幹に触れて、ほっと息をつく。
 足元では仔犬が、張り巡らされた太い根を避けるようにして、地面を掘り始めていた。

「おまえも、ここ、気に入ったのか?」

 犬は、気に入りのものを気に入りの場所に埋めて隠す習性がある。
 いつだったか、三蔵に聞いた言葉を思い出して、悟空は仔犬の背を静かに撫でた。
 触れてくる手を嫌がる素振りも見せずに、仔犬は地面を掘っている。
 鼻や前足を使って、一心に。
 収まらない胸の痛みに耐えながら、ぼんやりと眺めていると、やがて目的のものを掘り当てたのか、得意げに光る粒粗な瞳が悟空を見上げた。

「見せてくれるの?」

 落ち込んでいるのが分かるから。
 だから、宝物を見せてくれるのだろうか。
 気持ちが嬉しくて、悟空は微笑む。
 身を屈め、浅い穴を覗き込んだ。

「あ・・・」

 目に入ったのは、手のひらに収まるくらいの四角いもの。
 見覚えがある気がして、目を凝らす。
 暗がりで、色は定かではない。
 けれど。
 それは。

「・・・・・・・・・」

 ゴクリと自分が息を飲んだ音が、ひどく耳障りに鼓膜を打った。

 仔犬が掘り出した宝物。
 見知ったそれは。
 紛失した、三蔵の決裁印だった。















 重い足を引きずりながら、回廊を歩いた。
 夕食を終えた僧達はそれぞれの房へと帰ったのか、幸い、誰の姿を見ることもなかった。
 三蔵の気配は、私室ではなく、執務室の方にある。
 仕事に戻ったのだろうか―――そう思いながら、悟空は重厚な扉の前に立った。

 いつもは、勢いよく開く扉。
 しかし今は、手のひらに握り締めた印鑑が重い。
 途方に暮れて、足元を見遣る。
 目が合ったことが嬉しかったのか、仔犬は嬉しげに尻尾を振った。

「・・・・・・・・・」

 考えていても、仕方がないのだ。
 とにかく、一刻でも早く、これを三蔵に返さなければ。

 覚悟を決めて、扉を開く。
 蝶番の擦れる重い音が、夜のしじまに鈍く響いた。

「やれば出来んじゃねぇか」

 執務机に寄りかかり、窓の外を眺めながら、煙草を吸っていた三蔵の、第一声はそれだった。
 仕事をしていたわけではないらしい。
 その証拠に、机の上に乗った書類は、綺麗に纏められていた。

「猿にも学習能力はあったらしいな」

 月明かりに照らし出された立影が、緩慢に振り返る。
 どうやら彼は、廊下を走らず、扉を静かに開けた悟空を誉めたらしい。
 皮肉気に口元を歪めた三蔵の面は、既にいつものものだった。

「・・・大丈夫?」

「あ?」

 顔色の悪さは、治っている。けれど、不安を消せずに、悟空は問う。
 三蔵は一瞬、何を訊かれているのか分からないという表情をしたが、すぐに気が無さそうに頷いた。

「別に、何ともねぇよ。殆ど食ってなかったしな」

「そっか・・・」

 嫌なことは忘れる主義だ―――いつだったか、そう言っていた。
 言葉通り、彼は、痛みも苦しみも、過ぎてしまえば忘れてしまったふりをする。
 危うい強さと潔癖さが、ひどく三蔵らしかった。
 だからこそ。
 悟空は、彼を傷つけたくないのだ。

「何、突っ立ってんだ」

 呆れたような三蔵の声が、束の間落ちた沈黙を破る。

「腹でも減ったか?」

 まるで、先刻の騒ぎなど無かったかのような三蔵の態度に、悟空はいつの間にか床に落ちていた視線をのろのろと上げた。

「さんぞう」

 名前を呼ぶ。
 重い足をどうにか前に押し出して、彼の元に歩み寄った。
 掌中に握り締めた印鑑を、そっと差し出せば、紫暗が驚きに見開かれた。

「知らないと、言わなかったか?」

「嘘じゃ―――」

「嘘だとは思ってねぇよ。猿頭で俺にバレない嘘がつけるか」

 指先に挟んでいた煙草を灰皿に置いて、三蔵は空いた手を差し出した。
 印鑑を受け取り、眼前に掲げる。
 付着していた泥は、悟空がここに来るまでに着ていた服で拭き取っていたが、それでもまだ残った汚れを透かすようにして、三蔵はそれを検分した。

「どうした?」

「裏庭の、木の根元に、埋めてあった」

「―――そいつか・・・」

 一頻り眺めて納得したのか、視線がまた戻って来る。彼の目が悟空を通り過ぎ、足元の仔犬に向くのを見て、悟空は咄嗟に頭を下げた。

「ごめんなさいっ」

「あぁ?」

「俺がっ・・・思ったから・・・もしかしたら、口に出したのかもしんねぇし・・・だから、それで・・・」

「―――人語を話せ、サル」

 印鑑を机の上に置き、要領を得ない説明に嘆息して、三蔵はまた煙草を手にする。
 長くなった灰を落として、口に咥えた。
 短気な三蔵の、いつにないゆっくりとした仕草に、悟空は身を固くする。
 ハリセンが飛んできてもおかしくないのに。
 それすら出来ない程、呆れているのだろうか。否、それすらしたくない程、彼は深く怒っているのかもしれなかった。

「ハンコが無くなったら、さんぞうの仕事、忙しくなくなるのかと思ったんだ」

 胃の辺りがぎゅっと縮まるような不快な感触に耐えながら、悟空は言葉を紡ぐ。

「俺がそう思ったか・・・もしかしたら、言ったから、コイツが隠したんだと・・・思う・・・」

 だから、ごめんなさい―――と、繰り返す。
 表情を消した三蔵は、奇妙に透明な目で悟空を見ていた。

 また、沈黙が落ちる。
 三蔵が紫煙を吐き出す息の音が、やけに大きく耳朶を打つ。
 溜め息、だったのだろうか。
 判別がつかないまま、ただじっと反応を待った悟空の前で、三蔵は煙草を吸い終わると、短くなった吸い差しを灰皿にぎゅっと押し付けた。
 空いた片手に今度こそハリセンが握られることを予想して、悟空はビクリと首を竦める。
 が、いつまで経っても、衝撃はやって来なかった。

「もういい」

「さ・・・んぞ・・・? 殴んねぇの・・・?」

「無駄だからな」

 向けられた背。
 くるりと踵を返し、三蔵は悟空が入って来たのとは別の、私室に繋がる扉に向かった。
 真っ直ぐに伸びた背筋。見慣れた法衣の後ろ姿を、悟空は見つめることしか出来ない。

 素っ気無い一言が、胸に響いた。
 怒りを通り越して、完全に、見捨てられたのだと思った。
 当然だろう。
 判子を無くして、彼がどれだけ大変だったか。間近で見ていた悟空には、よく分かっている。

 扉に手を掛け、半分程それを押し開いた三蔵が、ふと思い出したように振り返る。
 立ち尽くす悟空を肩越しに眺め、ポツリと呟いた。
 悟空を、更に追い詰める言葉を。

「・・・本気で猿だな。いっそ山に居る方が似合いだ」

 言うだけ言って、また背を向けた三蔵には、震えた悟空の肩は見えなかっただろう。

「腹が減っていないなら、さっさと風呂入って、寝ろ」

 金糸を揺らして、彼は私室へと行ってしまう。
 聞き慣れた小言と彼の姿が、扉の向こうに飲み込まれた。

 無人になった執務室で、悟空は奥歯を噛み締める。
 拳を強く握り締め、一度、きつく目を閉じた。
 三蔵の一言で世界が崩れて、躰の全部に強く力を入れていないと、崩れてしまいそうだった。
 けれど、それも仕方がない。
 彼にあんな態度を取らせるだけのことを、自分はしたのだ。
 だから、まだ泣くな―――と言い聞かせて、震える膝を叱咤した。





 いつものように、風呂に入って。
 いつものように、二つある寝台の小さな方に横たわって。
 仕事で疲れた三蔵が、早々に寝付いたことを知る。
 普通にしていられたのは、そこまでだった。
 体温で温められた上掛けを引き剥がし、悟空は静かに寝台を抜け出す。

 足元の床に寝そべっていた仔犬が、気配に気づいて顔を上げる。
 円らな目を見つめながら、「付いてくるか?」と問い掛ければ、仔犬はゆっくりと立ち上がった。
 窓から漏れ入る月明かりを頼りに、忍び足で部屋を出る。
 パタンと扉が閉まる音に三蔵が目覚めないことを確認して、悟空は外へと走り出した。





(2002/10/16 to be continued)


 お待たせしました。続きです。ここまで読んでいただけたらもうお分かりかと思いますが。終わってません・・・(汗) 実は、全部書くと60ページくらいの同人誌が出来る分量になりそうなんです。なので、あともう一回分だけ、お付き合い下さいませ。

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