家出記念日 後編
Writer : Kairi Nanase




 走って、走って、走って、走った。
 回廊を通り、境内を抜け、獣道をひたすらに登った。
 木々の間から漏れ入る月光は、頼りない。夜目が効くとは言え、走りながらでは満足に足元も見通せず、やがて悟空は下草に隠れた石に躓いた。

「っ・・・」

 前のめりに倒れ込み、咄嗟に頭と顔を庇う。
 代わりに、剥き出しの腕と膝を強かに打ち付けて、低く呻いた。

「う・・・」

 起き上がる気力が無い。
 元より、向かう当てがあるわけでもないのだ。

「ふ・・・っく・・・」

 ずきずきと傷が傷む。
 喉の奥から嗚咽が零れた。
 決して、痛みのせいだけではなく。

 傷む場所を押さえるでもなく、倒れた姿勢そのままで、悟空は躰を投げ出した。
 固い地面が頬に当たり、所々に生えた夜露に濡れた下草が、風にそよいで皮膚を撫でた。

 目を閉じる。
 このまま全てを脇に置いて、眠りに落ちてしまいたかった。
 しかし、肌に吹き付ける風の冷たさと、脇腹に掛けられた仔犬の前足が、それを阻んだ。
 悟空が身に着けているのは、夜着にしている三蔵の着古したシャツ一枚。成長途上の悟空にはまだ大き過ぎるそのシャツは、半袖なのにも関わらず、肘の下までを隠している。しかし、ぶかぶかの襟と袖口から風が容赦なく入り込み、保温の役目は果たさなかった。

 ぶるりと躰が震えたのを機に、悟空はのろのろと身を起こす。
 傍らの仔犬がゆっくりと尻尾を振るのを見て、ぎこちない笑みを口元に浮かべた。

「どう、しようか・・・」

 五行山から連れ出されて、一年半。
 未だ狭い悟空の世界には、こんな時、駆け込める相手は居なかった。
 閉鎖された寺院と、その周辺の僅かな土地。それだけが、全てだったのだ。
 そして、そこに居る三蔵だけが。

「どこ、行こうか・・・」

 応えなど、返らない。
 それを承知で、また呟く。
 ふと、仔犬が耳をそばだてた。

「?」

 悟空の声ではなく、仔犬は他の何かを聞いたようだ。
 ピクピクと耳を震わせて、辺りを見回し―――そして、徐に走り出した。
 慌てて、悟空は立ち上がる。
 膝がズキリと痛んだが、構わずに仔犬の後を追った。















 木々の間を駆け抜けて、仔犬は先を急いだ。
 小さな躰なら難無く通り抜けられる場所も、悟空にとっては一苦労だ。
 見失わないように、目を凝らし、必死で足を動かしながら、三蔵もこんな感じなのかな・・・とふと思う。
 綺麗な景色や、珍しい植物。そんなものを見つけて三蔵を寺から連れ出す度、先に立って早く早くと急かす悟空を追いながら、絡まる蔓や生い茂る樹木に阻まれて、嘆息するのに気づいていた。
 いつでも。どんな時でも。
 思考は彼へと繋がっていく。
 そのことにまた胸の痛みを覚えながら、悟空はようやく立ち止まった仔犬に追いついた。

 仔犬が辿り着いた場所―――そこは、森の間にぽっかりと開けた空間だった。
 大きな岩が中央に転がっている。
 一体何を目指して来たのか―――不思議に思って辺りを見回した悟空は、すぐにその答えを知ることになった。
 岩の陰から数匹の野犬が、ゆっくりと顔を出したのだ。

「・・・・・・・・・」

 ワンと甲高く鳴いた仔犬が、尻尾を振って駆け出して行く。
 確実に二周りは大きい体躯が、小さな躰を守るように取り囲んだ。
 匂いを嗅ぎ、鼻面を舐め、甘えるように脇腹を摺り寄せる。
 全身で喜ぶ仔犬の様子と、親しげな周りの犬たちの様子に、悟空はここ数日自分と三蔵が庇護していた仔犬が、群れとの再会を果たしたことを知った。
 おそらく、母犬もあの輪の中に居るのだろう。

「そっか。良かったな、おまえ」

 ふわりと表情を緩め、悟空は口の端で小さく笑う。
 声に反応して仔犬が顔を上げた。
 視線が絡んだが、仔犬はその場で尻尾を振るだけで、もうこちらへ寄って来ようとはしなかった。

 帰るのだ。自分の本来の居場所へ。

「元気でな」

 時折警戒するような様子を見せる周りの犬たちを驚かさないように、悟空はゆっくりと後ずさる。
 岩の周辺にたむろしている犬たちから充分に距離をとって、それから徐に踵を返した。
 仔犬に導かれて走った道は、もう分からない。
 だから、適当な方向へ進んだ。

 これで、本当に一人になった。
 群れに帰った仔犬のことを喜ばしく思うのと同時に、帰る場所のある相手を羨ましく思う。
 そんな自分を叱咤しながら、悟空はひたすらに足を動かした。
 行く当ては、相変わらず無かったけれど。















 目覚めた時、時刻はまだ夜中だった。
 早朝の読経にもまだ早い時刻に、何故眠りが途切れたのか―――訝りながら、使い慣れた寝台の上で、三蔵はゆっくりと躰を起こした。
 空気はひどく冷え込んでいる。
 温もりに慣れた躰が僅かに震えて、三蔵はそれを振り切るように、短く息を吐き出した。

「・・・・・・・・・」

 声が、聞こえる。

 鼓膜を震わさない、声が。

「・・・・・・・・・」

 傍らを見遣ると、眠っている筈の悟空が居ない。
 そこでようやく、三蔵は己が目覚めた理由を知った。

 呼ばれているのだ、彼に。
 ここではない、何処か別の場所から。

 上掛けを剥ぎ、寝台を降り立つ。
 煙草を取る為に卓に歩み寄り、そこで三蔵は立ったままマルボロを口に咥えた。

 よく見れば、足元の寝床で丸まっていた筈の仔犬も居ない。
 一緒に出て行ったのだろう。
 気配に敏い自分が、起きなかった。それは、多分に、疲れていたせいだ。気配の主が、長年側に置き続けた養い子だったせいもあるだろう。
 そして何より、悟空が三蔵を起こさないように、気を遣った結果に違いなかった。

「バカ猿が、何やってんだ」

 夜半に突然、出て行った理由。
 原因を探して、三蔵は思考を巡らせる。
 考えるまでもなく、答えは出た。
 決裁印―――ここ数日、三蔵を煩わせたその紛失が、自分の責任だと思い込んだのだ。

「・・・・・・・・・」

 溜め息をつく。

『ハンコが無くなったら、さんぞうの仕事、忙しくなくなるのかと思ったんだ』

 幼い声が、耳の奥に蘇った。

『俺がそう思ったか・・・もしかしたら、言ったから、コイツが隠したんだと・・・思う・・・』

 始めは、何を馬鹿なことを言っているのかと思った。
 拾って程ない野生の獣が、人の感情をそれ程微細に理解する―――そんな常識は、三蔵には無かった。
 だが、すぐに思い直す。
 目の前に居るこの見慣れた生き物もまた、人ではないのだ―――と。
 大地の子供。
 普段は意識することのない彼の出自を思い出し、ならば悟空の言葉は事実なのかもしれないと、三蔵は考えを改めた。
 何よりも悟空が、それを受け入れているのだ。
 何の疑いも持たずに。

 ハリセンを持ち出さない自分を悟空は訝しんだようだが、三蔵にそのつもりはなかった。
 叱ったところで、無駄なのだ。
 悟空に告げた通り。
 それに、悟空の言葉通りのことが実際に起こったのだとしたら、叱るだけの理由も無い。

『・・・本気で猿だな。いっそ山に居る方が似合いだ』

 野にある獣と、当たり前に言葉を交わす、異端の妖。
 それを、手元に置いている自分。
 悟空は、誤解したのかもしれない。
 本当は、それは、半ば以上、自戒の言葉であったのだが。

「・・・・・・・・・」

 紫煙を吐き出す。
 咥えた煙草を指先に移して、寝乱れた髪をかき上げた。

 それでも、拾ってしまったのだ。
 それでも、悟空がここに居たいと言い張るのだ。
 だから、三蔵は彼を側に置く。
 彼が自分で、もっと自分に相応しい居場所を見つけるその時までは。

「煩ぇんだよ・・・」

 声が聞こえる。
 幼い声で、三蔵を呼び続けている。
 最近ではもうすっかり口癖になってしまった言葉をまた呟いて、短くなったマルボロを消した。
 椅子の背に掛けていた法衣を纏い、三蔵は部屋を後にした。















 月光は頼りなく、足場は悪い。
 悟空に連れられて何度か登った裏山だが、それ程地形に明るいわけでもない。
 頭に響く呼び声だけを頼りに、三蔵は獣道を歩いた。
 時折行く手を遮る木々の枝を鬱陶しげに払いながら、どのくらい歩き続けたのか。
 休みなく脚を動かしたせいで僅かに息が上がった頃、ようやく探していた相手を見つけた。

 森の中。
 枯死した倒木に寄り添うように、悟空は蹲っていた。
 ぶかぶかの薄いシャツ一枚で。
 寒そうに手足を縮こまらせて。
 三蔵の気配にも、踏みつけられる枯れ葉の音にも、顔を上げない。
 己の思考に沈み込んでいるのか、あるいは、眠っているのかもしれなかった。

「おい、猿」

 頼りないその姿に、苛立ちが募る。
 足音を殺すこともせず、三蔵は小さな影に歩み寄った。

「ガキが一人前に夜中に出歩くんじゃねぇ」

 俯いた視線の向く場所で、足先を止める。
 それでも、悟空は顔を上げない。
 どうやら本当に、眠り込んでいるようだ。

「悟空」

 蹲る躰を、三蔵は足の先で蹴飛ばす。
 軽く力を入れただけだが、小さな躰は不安定にころりと転がった。

「・・・?」

 衝撃に、ようやく目が覚めたようだ。
 幾重にも降り積もった落葉の上に華奢な体躯を横たえたまま、ゆっくりと開いた金晴眼が、やがて目の前の相手を捉えて、不思議そうに瞬かれた。

「この俺に手間かけさすとはいい度胸だな」

「・・・さんぞう・・・?」

「煩くて眠れねぇんだよ」

「えっ? え・・・っと・・・、さんぞ・・・?」

 言いたいことだけを言い切って、三蔵は悟空を見下ろした。
 目の前で馬鹿みたいに三蔵の名前を繰り返している相手は、よく見れば泥だらけだ。
 シャツにも、顔にも、剥き出しの手足にも、土がこびり付いている。
 膝頭と腕に傷があるのは、何処かで転びでもしたせいだろう。

 まるで幼い小猿の姿に、三蔵は呆れた。
 苛立ちを凌駕したその感情に、小さな溜め息が唇から零れた。
 仕方なく手を貸してやる。
 掴んだ手を引き上げるように起こしてやれば、彼はまだ驚いた顔のまま、それでも小声で礼を言った。

「・・・ありがと」

 声が震えているのは、寒さのせいだろう。
 触れた手もひどく冷たかった。
 当たり前だ。こんな場所で、眠っていれば。
 けれど、岩牢から連れ出されて僅か一年半の彼には、晩秋の山中で眠りに落ちることが凍死の危険に繋がるという―――そんな常識さえ、まだ無いのだ。
 寒いなら、せめて一緒に連れて行った仔犬を抱いていればいいものを。
 舌打ちし、そこでようやく三蔵は、悟空の傍らに仔犬が居ないことに気づいた。

「おい、アレはどうした?」

「あ・・・帰った」

「帰った?」

「うん。・・・群れに、戻れたんだ」

 悟空を起こす為に腕を掴んだ三蔵の手が、目的を果たして離れてしまうと、悟空は掴まれていた自分の手を大事そうに抱え込んだ。
 胸元に閉じ込め、またぎゅっと躰を縮める。
 俯き、視線を地面に流して、呟いた。
 口元が微かに笑っている。
 反対に、目元は今にも泣きそうだった。

「アイツ、帰る場所あったんだ。だから、置いていかれちゃった・・・」

 竦めた肩が、ぶるりと震えた。
 三蔵は黙ってそれを見ていた。
 視線に気づかない筈はない。
 しかし、悟空はますます下を向く。

 ―――面倒臭ェ・・・。

 養い子の頑なな態度に、三蔵は紫暗の目を眇める。

 必死に自分を呼びつけたくせに。
 顔を見ても、飛びついてくるわけでもない。
 躰を強張らせて何かを堪えて。
 それでも、変わらず呼び続けているのだ。

 ―――気を遣う場所が違うんだよ。

 法衣が汚れるのには構わず、三蔵は悟空の隣に腰を降ろした。
 倒木に軽く背を預け、袂から煙草を取り出した。
 火を点け、深く吸う。
 ライターを擦る耳慣れた音と、マルボロの匂い。
 些か唐突な三蔵の行動に悟空は驚いたようだったが、それでも顔を上げなかった。

 沈黙が落ちる。

 吹き抜ける風の音が、煩い。
 ざわざわと梢を揺らし、深く色づいた葉を落とす。
 夜気は、三蔵が部屋を出た時よりももっとずっと冷え込んでいた。
 夜明けが近いのだ。

「・・・それで?」

 常にない忍耐強さが自分らしくないと嘲いながら、三蔵はゆっくりと煙草をふかした。
 しかし、フィルターぎりぎりまで吸いきった煙草を、地面に押し付ける段になっても、悟空は沈黙を守っていた。
 仕方なく、自分から促してやる。
 甘い自分を見せたくないと思ったせいか。
 声音は硬いものになった。

「いつまで付き合えば、気が済むんだ? バカ猿」

「・・・・・・・・・」

「いい加減、寒ィんだよ」

 山道を登って来たせいで、火照った躰が、冷えかけている。
 法衣の隙間から忍び込んで来る冷たい風に体温を奪われて、三蔵は小さく身震いした。
 自分よりもずっと長く座り込んでいた悟空は、尚更だろう。
 薄いシャツ一枚を纏っただけで居る彼は、ひどく寒そうに目に映った。

「出て行けって言った」

 ポツリと声が聞こえた。
 自分が寒いと言ったせいだろうか。悟空がようやく面を上げ、緩慢に三蔵を振り返った。
 金晴眼が、潤んでいる。
 頼りない月光の下で、獣のように光る瞳が、零れ落ちそうだと三蔵は思った。

「・・・冗談に決まってんだろ」

「さんぞは冗談なんか言わないもん」

「言うんだよ」

 出て行け―――などと、言った覚えはない。
 山に居るほうが似合いだ―――あの科白が、彼の頭の中で勝手に変換されたのだろう。
 しかし、誤解していることが分かっていても、あの時の自分の心情をいちいち説明するつもりはなかった。
 煙草一本分。自分の忍耐力は、その辺りが限界なのだ。

「いいか、サル。俺の冗談は、高尚だ。分かんねぇてめぇが馬鹿なんだよ」

 代わりに三蔵は、別の言葉を口に出す。
 有無を言わせぬ勢いで言い切ったのは、そうすれば三蔵を絶対視する小猿が、頷くことを知っていたからだ。
 案の定、金晴眼を瞬いて、不思議そうにしながらも、悟空はコクリと首肯した。

「うん。さんぞのはコウショーなんだ。・・・コウショーって、何?」

「・・・・・・・・・」

 歳よりも幼い仕草で小首を傾げ、三蔵を見つめる。
 俯かれるよりはマシだったが、別の意味での頭痛を覚えて、三蔵はこめかみに指を当てた。

「・・・サルには理解できねぇって意味だろ」

「そっか・・・」

「おい、少しは疑え」

「・・・それも、冗談なの?」

 不意に。
 見慣れた顔が、不安げに翳る。
 彼の胸中が未だに波立っていることに気づいて、三蔵は大きく息をついた。

「もう、いい」

「・・・・・・・・・」

 短い会話が途切れてしまうと、また葉ずれの音が耳についた。
 この寒さの中、再び煙草を吸う気にはなれずに、三蔵は立ち上がるべく、身じろいだ。
 朝までには、寺に戻って居なければならない。
 朝食を運んできた小坊主が最高僧の不在に気づけば、また一悶着あるだろう。
 そうして、その責任を転嫁されるのは、いつだって傍らの小猿なのだ。

 腰の下で、ガサリと枯れ葉の擦れる音がする。
 三蔵が立ち上がろうとする気配に、悟空は怯えたように身を震わせた。
 面を跳ね上げ、三蔵を見つめて―――泣き出しそうな顔をする。
 冗談だと言ってやったのに。
 これ以上手間を掛けさせる気か・・・と呆れながらも、三蔵は彼に手を伸ばし、冷えた躰を引き寄せた。
 結局、放ってなど置けないのだ。

「さんぞ・・・?」

 軽い躰を抱え上げ、己の膝に落としてやる。
 向かい合うように抱き込んだ為に、不意に近くなった距離に、悟空は戸惑ったようだった。
 うろたえたように声を零す彼の目を、三蔵はじっと覗き込む。
 そして、言った。

「帰る場所くらい、あるだろうが」

 仔犬は群れを見つけたと言った。
 本来の居場所に戻って行った、小さな友人。後ろ姿を見送りながら、己の身を省みて、悟空はきっと傷ついたのだろう。
 幼い単純な心の動きは、手にとるように理解出来る。

「・・・岩牢?」

 魅入られたように三蔵の目を見つめながら、薄く開いた彼の唇が、答えを探す。
 零れたのは、一年半前まで彼が居た場所の名前。
 物分かりの悪い小猿の眉間を、三蔵は指先でピンと弾いた。

「痛ッ・・・」

「あるだろうが、帰る場所くらい」

 根気強く、繰り返す。

 悟空が戻るべき場所が、あの冷たく暗い岩牢だというなら。
 連れ出した己は何なのだ。
 何なのだ。―――あの時、細い指を握り、今もこうして華奢な躰に触れている手は。

 足りない言葉を補うように、睨むように彼を見つめる。
 間近にある悟空の顔が、やがて不意にくしゃりと歪み―――ぶつけるような勢いで、三蔵の法衣の胸元に額を押し付けてきた。

「っ・・・」

 小さな嗚咽が、耳に届く。
 悟空がしゃくりあげる度、法衣がゆっくりと湿っていく。
 印鑑の紛失から、五日間。
 波立つ感情を必死に抑えていた悟空が、ようやく自分に甘えている。
 よく頑張ったと誉めてやるべきか、それとも、下手な意地を張るなと叱ってやるべきか―――そんなことを思いながら、三蔵は指先に触れた柔らかな髪ごと抱きこむように、悟空の背に腕を回した。















   ◆ ◆ ◆















「三蔵。煙草」

「・・・あ?」

「灰。落ちるよ」

「・・・ああ」

 覚えてない?―――悟空の言葉に、三蔵はしばらく過去を思い出していたようだった。
 ここではない何処か別の場所に向けられている紫暗を見ながら、食事を続けていた悟空は、彼の指先に挟まれた煙草が灰を落としそうになっていることに気づいて、声を掛けた。
 肉の薄い骨張った肩が、驚いたように、ピクリと揺れる。
 現実を認識するように、二、三度、目を瞬いて、三蔵はようやく己の指先に目を向けた。

「思い出した?」

 問えば、呆けていた自分を指摘されたことが忌々しいのか、ふん・・・と不機嫌そうに鼻を鳴らす。
 時折、妙に子供っぽい彼に、小さく笑んで、悟空は手にした箸を置いた。
 皿の上には、もう何も残っていない。
 躾られた通りに、ゴチソウサマと口にすると、三蔵はそれを待っていたかのように、吸い差しを灰皿に押し付けて、畳んだ新聞に手を伸ばした。

 バサリと紙を鳴らし、紙面を開く。
 気になる記事でも有ったのか、彼の視線はすぐに並んだ活字に固定されてしまったが、自分が意識から締め出されたわけではないことを、悟空はよく分かっていた。
 その証拠に。
 三蔵は、椅子の位置をずらしている。
 卓に対して少し斜めに腰掛けて、広げた新聞が悟空と自分との間を完全に遮断してしまわないように、気を遣ってくれていた。

 何年経っても、こういうところはちっとも変わっていないと思う。
 分かりにくい、けれど、優しい三蔵。

「そういや、ぴーぴー泣かなくなったな」

「・・・うん。だって、本気じゃねぇこと分かってるし」

 いっそ裏山で暮らしたらどうだ?―――先刻、三蔵が口にした科白。
 それが悟空を傷つけることは、もう無い。
 言葉は、過去の情景へと繋がっている。
 思い出すのが少し気恥ずかしい―――だが、大切な記憶へと。

「本気で言ってる時もあンだよ、バカ猿」

 悟空の言い様が、三蔵には気に入らなかったようだ。
 相変わらず視線は新聞に向けたまま、彼は端正な顔を歪めた。
 卓の上に頬杖をついて、その見飽きない横顔を眺めながら、悟空は笑う。

「ん。そーいう時は、三蔵も案外コドモだなーって思うことにしてる」

「てめぇ・・・」

「だって、本気で言われたら、泣くよ、俺」

「・・・・・・・・・」

「今でも泣くよ? ぎゃーぎゃーびーびー子供みたいに」

『あるだろうが、帰る場所くらい』

 三蔵の言葉は、今でもずっと胸にある。
 あの時感じた温かさを、失わないまま。

「・・・何、威張ってんだ」

 チラリと横目で悟空を見遣って、三蔵は溜め息を吐き出した。

「てめぇは今でも充分ガキなんだよ」

 完全に呆れたという顔で、告げてくる。
 だから、逆らわずに、頷いた。

「うん。だから、言わないでよ」

 彼の言葉を、逆手に取る。
 この程度の駆け引きなら、出来るようになったのだ。
 悪戯めいた光を放つ金晴眼を、三蔵は目を眇めて眺め遣り―――やがて、低く呟いた。

「・・・考えておく」





(2002/11/20 end)


 ようやく完結です。結局、70p程度の同人誌が出来そうな長い話になりました。お待たせしてしまってすみませんでした・・・お気に召して頂ければ幸いです・・・かなり自信ないんですけど(苦笑)
 ラストの膝抱っこのシーンを書くためにこんな大枚書いてきたのに、いざその場面になってみると、どうにも巧く書けなくて、しょぼん・・・。三蔵サマは・・・三蔵サマは、もっとカッコ良い筈なのに・・・っ(←そこか・苦笑)
 michikoさま、3500hit有難うございましたv




<七瀬 浬 様 作>

浬様のサイト「Passion's Egg」で3500のキリバンを踏んだ折りに書いて頂きました。
「悟空の家出」という大雑把なリクエストにこんなに素敵なお話で答えて頂きました。
ちゃんと悟空の言うことは信じているのに、言葉が足りない為に行き違ってしまうのは読んでる方も悲しくて、
仔犬が群れに返ってゆくシーンでは本当に傍に行って悟空をぎゅって抱きしめてあげたいと思いました。
迎えに来た三蔵に素直にすがれない悟空とそれが何処か気に入らない三蔵と、将来の二人の関係がほの見えて、
切ないシーンなくせに違う意味でドキドキしてしまいました。
「帰る場所ならあるだろう」…暗に帰って来いと言っている三蔵様が好きです。
色々なことを二人で乗り越えて来たからこそ、冒頭と巻末の二人が居るのだと、嬉しかったです。
何気ない優しさとそれを確実に受けとめるその心にエールを送ります。
ああ、キリバン踏んでよかった、でかした私と幸せにひたっています。
浬様、法外な幸せをありがとうございました。

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