──僕らはきっと、望んでしまっているんでしょうね、あの子の笑顔を…

ああ、そうだな…



愛しき君へ (8)
荒れ狂う想いの渦に、哮り狂う力の奔流に幼い身体は耐えきれない。
幼い世界を構成する根幹を失ったがために、抑制は無意味と化す。
弾け、砕け散った戒めの欠片を踏み砕いて、幼い獰猛な獣はのたうち回る。

「…どうか、私に免じて…どうか…」

苦しい息の下、子供が願う。

「どうか、観世音菩薩……どうか…」

大気に満ちる慟哭に青ざめて、震える指先を差しのばして。

「どうか、あいつを……」

跪き、蹲り、許しを請う罪人の様にひれ伏して。

「……どうか、あいつが安穏であるように…」

幸せな時間を引き替えにしても、己が心を差し出しても失いたくなかった。
真摯な想いは全てを突き動かす。

のたうち、暴れ回る幼い獣はやがて地上に落とされ、封印された。
たった一つの宝だけを胸に留めて。



「…さんぞ…?」



気が付けば何も思い出せなくて。
気が付けば何も残っていなくて。

誰も側に居なくて、誰の温もりもなくて。
大切な何かを置き去りにしてきた。
温かい何かを捨ててきた。

それでも振り返った視線の先は明るくて。
それでも気持ちは溢れていて。



「さんぞ…どう、し…」



切り取られた空は青くて、高い。
切り取られた大地は広くて、温かい。

呼ぶ名前はなくて、思い出す面影もなくて。
たくさんの昼とたくさんの夜を越えて。



「──おい、俺のことを呼んでたのはお前か?」



ずっと一人で。
届かない光を見つめて、届かない声を呑み込んで。



「しかたねえから連れってやるよ」



伸ばされた手がどれ程嬉しかったか。
差し出された手がどれ程信じられなかったか。



「…ッ…ぁあ…さ…ぞ……」



焦がれ続けた太陽よりも眩しくて、憧れ続けた空よりも広い世界をくれた。



「三蔵───っ!!」

悟空が身を起こした寝台に上半身を預けて意識を失った三蔵のシャツを握りしめて、悟空は声を上げた。
そして、まだふらつく身体で三蔵に取りすがった。

「三蔵!三蔵──っ!!」

どれ程悟空が揺さぶっても三蔵の意識は戻らない。
それでも幼子が母親に取りすがるように悟空は泣きじゃくりながら三蔵を呼び続けた。

「…ッ…ぁうっく、あ…さんぞ、目ぇ開けて…れよぉ…さ……ぞ…」

悟空が揺さぶる所為で、少しずつ三蔵の身体は寝台からずり落ち、やがて悟空共々寝台から転げ落ちた。
三蔵の身体の下敷きになった悟空は背中の傷の痛みに一瞬顔を顰めた。
が、その痛みが今の状態が現実だと告げる。

「さ…んぞぉ…ぅぇ……」

遂に、悟空は手放しで声を上げて泣きだしてしまった。
幼子が優しい手を求めるように。






















「あ、起きた」

開いた瞳に飛び込んできたのは嬉しそうに綻ぶ金色の宝石だった。

「…ぁ?!」

まだ何処か寝ぼけた感じの金蝉を悟空は軽く揺さぶる。

「なあ、これ見て」
「何だ?」

目の前に差し出された小さな手に握られているのは白ツメ草を丸く編んだ花輪だった。

「お前が作ったのか?」

問えば、誇らしげに幼い容は輝く。

「うん!上手くなったでしょ?」

手渡された花輪は少し歪ながらも綺麗な輪に編まれて、微かに甘い薫りがした。

「それ金蝉にあげる」
「あ、ああ」

頷けば悟空の笑顔は益々輝いて、とびっきりの笑顔になった。



お前は本当に幸せそうだな…



そんな悟空に仄かな苦笑を滲ませて、金蝉は悟空の頭を掻き回した。
そのくすぐったさに悟空はころころと声を上げて笑う。



お前がいつでも笑っていられるように、俺はお前を守らなくてはな



常春の陽差しの中で金蝉は己に誓うのだった。
あの夢に見た成長した悟空の姿をこの目で見るために。





















泣くな。
泣くんじゃねぇ。
お前はいつもいつも、すぐ泣きやがる。

俺が黙って出掛けた時。
夜中に目が覚めて一人の時。
俺と喧嘩した時。
俺がケガをした時。

不安と恐怖に、一人の孤独に。

その大きな金瞳からボロボロと大きな雫を零して。

やれ、鳥がケガをした。
やれ、犬がいじめられていた。
花が綺麗だ。
夕陽が、月が綺麗だ、明るいだ。

季節の移ろいに、人の思いに。

お前は自分の為じゃない時に、泣きやがる。
それ以上に、俺が原因の時が圧倒的に多いから、始末に困る。

泣くな。
俺はお前の傍に居るだろうが。










ガンガンと頭に響く声なき聲に三蔵の意識は引きずり起こされた。
頭の中で破鐘が鳴り響いている。
どうにかこうにか身体を起こし、頭を振って意識をはっきりさせた。
そして、自分は床に座り込み、その傍らには泣き疲れて眠る悟空の姿を知る。

「……ッ…煩い奴…」

悟空の涙でぐちゃぐちゃな顔と泣き腫らして赤い目元を見やって三蔵は小さく笑った。
ずきずきと痛む頭をもう一度振って、三蔵は眠っている悟空の身体を引っ張った。
そして、悟空の頭を膝に載せ、自分は寝台にもたれた。

見下ろす悟空の涙に汚れた顔は、拾った時と余り変わらずに幼い。
悟空が泣いた原因も悟空がケガをした理由もそして、自分が悟空を庇ってケガをした理由も全て知っている。
いや、見ていた。
体験した。

あの日、ジープの上でうたた寝をした時に見た夢から始まった、現のような夢と夢のような現実。
己の中に生まれた記憶と感情に嫌悪よりも愛しさを感じて。
何より悟空のことを守りたいと切に願う想いに押し流された。

常に幼い悟空の傍らにいた金色の白い姿の人間。
その人間に向けられていた無条件の信頼と愛情。
幸せに笑っていた。
豊かな感情のままに優しさに包まれていた。

幼い姿の悟空。
あの暗い岩牢へ封じられる前の明るい姿に、何度思っただろう。
悟空の傍らにいた人間達に負けないほどに、今のこの子供を慈しみ、愛していると。

三蔵はそっとシャツの袖で悟空の濡れた頬を拭った。
その感触に悟空は少し顔を顰めたが、起きる気配はなかった。
未だがんがんと三蔵の頭の中を悟空の聲が暴れ回っている。
三蔵を呼んで泣いている。

「本当に、お前は今も昔も煩い…」

三蔵は軽く悟空の額を弾くと、そのまま目を瞑った。
眠りに落ちるその淵で、三蔵は自分の中に居た人間の声を聞いた。
それに答える三蔵の声は、朝の明るい光の中に融けて消えた。




───太陽はこいつだよ…






end

7 << close