君にこの聲が届きますように (1)

前日の昼から降り出した雨は、日が明けても止むことはなく、降り続いていた。
暗く重たい雨に閉ざされた世界は、ひっそりと生業を顰めて、雨が通り過ぎるのを待っているようだった。

雨脚は真夜中を過ぎて強くなり、止む気配を見せなかった。

人通りの途絶えた住宅街の外れ、か細い街灯が小さな光で雨を映し出す。
弱々しい光が照らす雨の中をうつむいて歩く少年の姿があった。
年の頃は十四、五歳だろうか、痛々しすぎるほどに痩せた細い身体に、大きすぎるシャツが雨を含んで張りついていた。
歩く少年の足にあるべき靴はなく、赤く腫れて血の滲んだ素足が弱々しくアスファルトを踏みしめていた。

どこをどうして歩いて来たのかも覚えていない。
ただ、あの場所から逃げ出したくて、無慈悲な手から逃れたくて、友達に力を借りて飛び出してきた。
けれど、行く宛はどこにもなくて、ひと目を避けるように見知らぬ街を彷徨い続けていた。

身体を打つ冷たい雨に体温は容赦なく奪われてゆく。
真冬の夜闇は華奢な影を飲み込んで、冷たい腕に抱き込む。
少年は崩れそうになる膝を踏ん張って、街灯の柱に縋りついた。

と、何かに呼ばれた気がして、うつむいた顔を上げた。

凍えて動きにくい身体を捻るように、聲のした気のする方を向いた。
そこには、鉄柵に絡み付くように張り出したピラカンサスの緑の葉とたわわに実った赤い実が見えた。
少年はそれに微かな微笑を浮かべ、今にも倒れそうに身体を揺らめかせながらピラカンサスの傍に近づいた。
そして、そっとその張り出した枝に触れた。
すると、雨に濡れた濃い緑の葉と赤い実に溜まった雫が、ばらばらと音を立てて落ちた。
その様子に少年は小さく何事か言葉を紡いだかと思うと、ピラカンサスに縋りつくようにその場に座り込んでしまった。

あの場所を逃げ出してから飲まず食わずで走り続け、歩き続けた身体は冷たい雨も手伝って酷く消耗していた。座り込んでしまえば、もう立ち上がる気力が欠片も湧かない。
少年は鉄柵に背中を預け、道に両足を投げ出した。

激しい雨に打たれ続けた身体は、感覚がない程に凍り付いているくせに、身体の中は熱く脈打ち、零れる吐息は熱かった。

そして、酷く眠かった。

逃げなければならない。
捕まってはいけない。

わかっていても、指一本動かせなかった。

今はただ眠い。
眠いのだ。

少年は鉄柵から張り出したピラカンサスに凍えた頬を擦りつけるようにして、目を閉じた。
雨脚は弱まるこもなく、冷たい刃で少年を刺し貫く。
頬に触れるピラカンサスの微かな温もりに少年は、小さく吐息を零し、動かなくなった。

雨は降りしきる。
夜闇の中に少年を隠すように、激しく降り続いた。









   ◇◇◇◇◇









暖かな温もりにくるまれて、優しい手のひらで撫でられた。
ゆっくりと何度もそっと触れて、慈しむように、宥めるように何度も、何度も。

まだ何も知らなかった。
ただ、温かく、柔らかく頬笑む金蝉(ちちおや)が、眩しいほどの金色が、深く穏やかな紫暗が大好きだった。

その優しい手が遠くなったあの日から、世界は変わった。
全てが冷たくて、暗く、哀しい色に染まった。






植物の震える聲や風の透明な聲が、ごく当たり前に生まれて物心が着く頃には既に聴こえていた。

理由は知らない。

人の言うことが当たり前にわかるように、普通に人と会話するように聴こえて、話せた。
いつも傍らに居てくれた温かくて綺麗な金蝉に話した時、金蝉は穏やかに笑って頷いてくれた。
けれど、その時に翳った紫暗の深い色は、忘れることが出来なかった。



日々はゆっくりと優しい時間を重ねてゆく。

それはいつまでも続くものだと思っていた。



たくさん外で遊んで家に帰り着いた悟空が見たのは、家の前に止まった黒い車の列と大勢の黒ずくめの男達に囲まれた金蝉の姿だった。

「こ、んぜん…?」

リビングの入り口で立ち竦む悟空がかけた言葉に、その場にいた全員が振り向いた。

一瞬の沈黙。
そして、

「逃げろ!悟空!」

滅多にない金蝉の怒鳴り声に、悟空は怯えたように身体を竦ませる。

「外へ行くんだ!」

その剣幕に悟空は弾かれたように外へ向かって走り出した。
その背後で、呻き声と人の倒れる音がした。
その音に走る足が止まって、振り返る。
振り返った悟空が見たのは、黒ずくめの男に殴り倒される金蝉の姿だった。

「金蝉!」

幼い声が叫んだ瞬間、家の中にあった鉢植えの植物たちが一斉にその手を伸ばした。
ざわざわと音を立てて植物たちの伸ばした手は、金蝉を取り囲む男達を絡め取り、締め上げた。
悟空はその様子をこぼれ落ちそうな大きな瞳を見開いて見つめていた。
金蝉と悟空の間に居た男が、何か悟空を指さして叫んだ。
すると、悟空のすぐ傍にいた男が徐に悟空を小脇に抱えた。

「…ぁっやだぁあ」

抱きかかえられたことで我に返った悟空が暴れる。
うねる植物たちの中で半ば呆然としていた金蝉が、悟空の悲鳴に我に返った。

「金蝉──っ!!」

小さな身体を懸命に捩って助けを求める悟空の姿を認めた金蝉は、悟空を助けようと悟空を抱えた男に駆け寄ろうとした。

「悟空を離…せ…」
「金蝉!!」

悟空と男にその手が触れる寸前、金蝉の身体は一瞬仰け反ったあと崩れ落ちた。
すぐ間近で響いた銃声と床に横たわった金蝉の身体の下にゆっくりと広がる赤い海。

「…っぁ…いぁ…やぁぁあああ───っ!!」

ざわりと、植物たちの手が悟空を抱え、銃を構えた男に一斉に向いた。

「金蝉!金蝉!こ、んぜ…」

最後に上がった悟空の悲鳴は、荒れ狂う植物たちに飲み込まれてしまった。









   ◇◇◇◇◇









家中に響き渡った悲鳴に三蔵は作りかけの氷枕を放り出して二階に駈け上がり、来客用の寝室に駆け込んだ。

「どうし…」

ドアを開けて飛び込んだ三蔵は目の前の様子に、室内に一歩入った状態で固まった。

家の柵の前でピラカンサスに守られるように倒れていた少年。
自分を煩く呼ぶ聲に何事かと土砂降りの雨の中外へ出て見つけた。
家中の植物たちが「助けろ」と聲を揃えて訴えるから。
少年を守るように寄り添うピラカンサスが泣きそうな聲で訴えるから、三蔵は仕方なく少年を助けたのだった。
冷たい真冬の雨に濡れた身体は氷のように冷え切っていたが、抱き上げた腕に伝わる熱は焼けるように熱かった。

開けたドアの向こう、来客用の寝室はポトスの鬱蒼たる茂みと化していた。

「な、何だ…?!」

片足を入れたまま部屋に入るに入れず、三蔵は部屋中を埋め尽くしたポトスを見つめるばかりだった。

が、はたと、思い出す。

部屋には拾った少年が眠っているはずだ。
これほどのポトスの茂った中であの少年はどうしているだろう。
あの悲鳴はポトスの暴走に驚いてあげたものだったかも知れない。

三蔵は慌てて、目の前のポトスの葉に触れ、小声で何事か呟いた。
すると、部屋中を埋め尽くしたポトスが、まるで映像を巻き戻すようにするすると引いて、部屋の窓際に置いたそれぞれの植木鉢に観葉植物らしく収まる。

途端、聴こえる喧しい聲。

それに三蔵は苦笑を漏らした。
ポトスたちは少年を助けようとしたのだと、守ろうとしたのだと口々に訴えてくるのだ。
そして、少年の上げた悲鳴は、部屋中を埋め尽くしたポトスに驚いた訳ではなく、うなされて上げた悲鳴だったと、ポトスの訴えから知った。

「…わかった、わかったから静かにしろ」

三蔵は宥めるように聲の主に声をかけると、ベットへ近づいた。
ベットを見下ろせば、少年は俯せに蹲ってしゃくり上げていた。
華奢な背中がより小さく見えて、三蔵は眉を顰めた。
そして、そっと声をかける。

「大丈夫か?」

途端、少年の身体が大きく揺れた。

「おい?」

少年の様子に三蔵は異常を感じ、肩に手をかけた瞬間、その手を凄まじい力で振り払われた。
その痛みに瞳を見開けば、怯えきった円らが見返していた。



 金眼…?!



細く痛々しい程痩せた身体をこれ以上ないほどに小さく縮め、顔の殆どを締めるような大きな蜂蜜色の濡れた瞳が、三蔵を見返していた。




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