君にこの聲が届きますように (2)

閉じた瞼を通しても眩しく感じる光に悟空は覚醒を促された。
何度かまばたき、開いた瞳に映ったのは白い天井だった。
もぞもぞと身体を起こした悟空は、周囲を見回した。
そこは見知らぬ場所だった。

柔らかな光の満ちた空間と色とりどりの花が咲き、木々が梢を伸ばす公園のような庭で、薄いガラスを通して見えるそこに、何も危険は感じられなかった。

悟空はそろりとベットから下りた。
床に触れた素足がひんやりと冷たかった。
そして、もう一度自分の居る場所をぐるりと見回した。
悟空は丸い薄いガラスで覆われた円形の東屋を模したサンルームに居るようだった。

「…こ、ここ…どこ?」

ぎゅっと、服の裾を握り、そろりと一歩を踏み出した。

「こ、んぜ…ん…どこ?」

金蝉の姿を捜して悟空はサンルームから外へでた。

「金蝉…金蝉…どこぉ…?」

周囲を見回しても大好きな優しくて綺麗な金蝉の姿は見えず、人の気配すらなかった。

「…っく…金蝉…」

見る間に涙が溢れ、ぽろぽろと頬をこぼれ落ちてゆく。

「ふぇ…こんぜぇん…金蝉」

悟空は泣きながら金蝉を呼び続けた。




どれほどそうやって泣いていたのか、悟空はふと、人の気配を感じて泣き腫らした顔を上げた。

「…金蝉?」

ぱっと声が嬉しさに彩られた悟空の呼びかけに、柔らかな声が返った。

「金蝉はここにはいないよ」

慌てて振り返ったそこには、黒髪に眼鏡をかけた黒ずくめの男が、口元に薄く笑みを掃いて立っていた。
その姿を見た瞬間、悟空は自分の身と金蝉の身に何があったのか、思い出した。

「ぁ…ぃあ…あぁぁ…いやぁぁああ───っ!!」

引き裂くような悲鳴が喉を迫り上がり、悟空はその男から身を守るように頭を抱えて蹲った。
悟空の上げた悲鳴に呼応するように庭中の植物たちがざわめき、信じられない速さで悟空の身を守るようにその身体を中心に絡み合う。
男はその様子を驚いた様子で見つめていたが、何か思い至ったのか、ポンと軽く手を叩くと、それは嬉しそうに笑い出した。

「そう、そうだったんだ。金蝉の力じゃなくて、君だったんだぁ」

男は嬉しそうに何度も頷いた。
そして、悟空の傍から男をを排除しようと襲ってくる植物たちを煩そうに払いながら、植物が覆う中へ手を突っ込み、頭を抱えて蹲る悟空の襟首を掴んでそこから引きずり出した。

「ひぁ…っ」

怯えて見開かれた瞳に、男の嬉しそうな笑顔が映る。

「金蝉を手に入れることは叶わなかったけど、代わりに君という素敵な素材が手に入ったとは。ボクは本当に幸運ってことだよねぇ」

そう言って、男は笑みを深くする。

「存分に役に立ってちょうだいね。そして、素晴らしい金蝉以上の成果を見せてちょうだいね」

「ね?」と、念を押すように悟空に頷くと、男は悟空の身体を無造作に投げ捨てた。

「きゃぁぁ…」

細い悲鳴の尾を引いて小さな身体が宙を舞う。
地面に身体が叩き付けられる直前、植物たちの手が幼い身体を受け止めた。

「もう、君はボクのモノだからね。逃げ出したり、逆らったりしちゃダメだよ」

男は心底楽しそうに笑って、悟空に背を向けた。
植物たちの腕の中で男の背中を悟空は、呆然と見つめていた。









   ◇◇◇◇◇









三蔵が少年に再び手を伸ばした途端、少年は弾かれたようにベットから逃げ出した。

「な…おい!?」

驚く三蔵の脇をすり抜け、部屋の外へ少年は走り出ていく。
一瞬、呆けたようになった三蔵も慌てて少年の後を追った。

廊下を走り抜け、階段へ。

まだ、高熱を纏った身体は、少年が思うほどに言うことが利かず、目眩が襲った。
タイミングは悪い方へ重なり、少年は階段を踏み外してしまった。
咄嗟に捕まろうと手すりに伸ばした手は微かに指先が触れただけで身体がもんどり打つ。
何もない空間へ投げ出された少年の身体を掴もうとした三蔵の手は今一歩届かず、少年の身体は宙を舞い、階下へ落下してゆく。
三蔵は落下する少年の姿に思わず階下に置いてある鉢植えのベンジャミンを呼んだ。
すると、ベンジャミンの枝がするりと伸びて、落下してきた少年の身体を枝を広げて受けとめた。
少年は身体にくる衝撃に耐えるように目を瞑っていたが、代わりに身体を包む柔らかな感触に驚いて目を開けた。

「…ぇ…?!」

がさりと鳴る自分の身体を包むベンジャミンの葉のクッションを信じられないと、呆然とした顔で見やる。
三蔵は階段を駆け下りて、ベンジャミンの腕の中の少年が無事なことを確認すると、

「すまなかったな…」

そう言って、ベンジャミンの葉を撫でた。
すると、ベンジャミンが小さく葉を振るわせ、少年を床に下ろした。
そして、少年の頭をひと撫でして、見ている間にベンジャミンは元の鉢植えの姿に戻った。
少年はその一連の行動を、元の姿に戻り、何事もなかったように植木鉢の中で佇むベンジャミンをただ、その大きな瞳を見開いて見つめていた。
三蔵は立ちつくす少年に近づくと、

「無事だな?なら、まだ熱が高い。ベットに戻れ」

そう、声をかけた。
少年は弾かれたように間近で聞こえた三蔵の声に振り返り、その姿が目の前にあることに小さく息を呑んで思わず後ずさった。
その背中にさわりと葉が触れた感触に、少年は今度は背後を振り返った。

「……ぁ」

少年を助けたベンジャミンの枝が少し伸びて、少年を押し留めるように優しく背中に触れていた。

「…っのお節介」
「えっ?!」

三蔵の呆れたような、照れたような声に、少年はまた、三蔵を振り返り、何度も三蔵とベンジャミンを見比べた。そうこうしているうちにくらりと目眩を少年はまた起こし、少年の意識は暗転した。









   ◇◇◇◇◇









「どうしてうまくいかないんだろうねえ」

画面に流れる数字を見ながら男は手に持ったボールペンで自分の頬を叩いた。

「もう少し増やしてみますか?」

男の背後から、同じ画面を見ていた女が声をかける。

「う─ん、どうかなあ…これ以上増やすとあの子自身が壊れちゃうからねえ」
「でも、巧くこちらがコントロール出来なければ廃棄も考えないといけなくなりますよ」
「それはもったいない…」
「もう、〈妖〉の生きたサンプルはあのハーフの子しかいないのですから」
「そうだねえ…」

男が見つめるモニター画面の向こう、ガラスで仕切られた向こう側の部屋で床に座り込んでいる悟空の姿があった。

悟空がこの男と女の所属する組織の研究所に落ちて何年が経ったのか。
まだ幼かった姿が少年のそれへと変わるほどであった。
しかし、悟空は同じ年齢の子供と比較すれば、ずいぶんと成長が遅いのか、標準とされる背格好より小さかった。
大地の色を写した亜麻色の髪と小さな顔の大半を占めている大きな蜂蜜色の瞳は、幼い頃から何も変わっていない。
だが、澄んで明るかった瞳は暗い翳りに彩られ、健やかで真っ直ぐな心はいつも怯えに竦んでいた。




あの日、金蝉を失った日から悟空を取りまく全てが変わってしまった。

悟空はニィと名乗る男と組織の実験動物となったのだった。
最初は幼いが故に安定しない精神を安定させるためと称して様々なクスリが悟空に投与された。
そのたびに高熱や全身の痛み、嘔吐、幻覚に苛まれ、幼い精神が安定するどころか、休まることがなかった。

そして、不安定な状態が日常になった。
お陰で押さえきれない力が無意識に溢れ、悟空は制御できない力に半ば酔った状態に陥った。
それを待っていたように研究所の人間は、悟空の能力の扉を無理矢理こじ開けた。

制御できない力は悟空の幼い精神を苛み、その力に呼応する植物たちが暴走した。

悟空に与えられていた庭の草木は生い茂り、研究所の周囲の植物たちも異常な繁茂、増殖を見せた。
悟空の力が悟空によって押さえられるまで植物たちの暴走は続き、不安定ながらも悟空が力の制御を身につけた頃には、研究所の周りは深い森へと変貌していた。

そして、悟空の庭も鬱蒼たる森に変わっていた。
力に引きずられる己を引き戻すために悟空は体力も気力も根こそぎ使い果たし、もともと華奢で成長の遅い身体はより一層痩せ細り、小さくなった。
それと反比例するように力だけが、暴走の危険を孕んで大きく悟空の中で息づいていた。



自然と会話し、自然を操れる力。



それは人外の存在を示す力だった。
世界は人とそれ以外の存在が共存していた。
だが、科学と言う名の人工的な力が人の手に生まれた時から、人とそれ以外の存在との間に亀裂が生じた。
世界の大半を占める人にそれ以外の存在達が勝てるはずもなく、彼らはひっそりとその姿を人の間に紛らせ、姿を消していった。
しかし、人は科学という力を手に入れてより貪欲になり、人外の存在をその手に欲しいと思い始めた。

その異能な力が。

だが、時既に遅く、人外の存在達はその存在を世界に隠してしまっていた。
それでも人は貪欲に求め、狩った。
張り巡らした網に時折掛かる人外の存在は、そんな人々の格好の餌食となった。

実験動物として。
兵器として。

それでも世界は人外の存在を隠し、世界は波立つこともなく平和に見えた。

悟空は金蝉という人外の存在とごく普通の人の母親から生まれた。
異類婚で生まれた子供は等しく黄金の瞳を持って生まれてくる。
悟空もまた、例外なく金眼を持って生まれていた。

そして、半分人間、半分人外の血を引く悟空に、金蝉の力が受け継がれた。
それが異能を欲する人間の網に引っかかった。
それが始まり。
それが全ての元凶。
温かな優しいもの全てが悟空の元から剥ぎ取られた。









   ◇◇◇◇◇









少し冷たい手のひらが触れて、優しく髪を梳かれた。
労るように頬に触れ、安堵する吐息が聞こえた。
その手が頬から離れる──そう思った瞬間、目が覚めた。

最初に目に入ったのは、暖かな飴色になった天井とレトロな飾りの灯りだった。
しばらくそれを眺めた後、頭を巡らせば、枕元に青年が座っていた。

陽の光を集めたような金糸の髪と深い紫暗の瞳。
通った鼻筋と綺麗な弧を描く眉、紅を薄く掃いたような口唇。
そして、透き通るような白い肌とその額の中心に紅い宝石。

その面差しに少年は見惚れ、やがて瞳を見開き、枕元に座る青年に飛びつくように抱きついた。




騒動から二日が経っていた。
寝かされていた部屋から逃げだし、階段から落た怯えきった少年は意識を失ったあと、丸二日眠っていた。
その間、うなされることもなく安らかな眠りを与えられたようだった。

額に触れて熱が下がったことを確認した三蔵は、するりと髪を撫で、やつれた頬に触れた。

最初に目を覚ました時に見た瞳の色は金。
あの瞳は半妖の証。

では、この少年が行方不明の兄の落とし子ということになるのだろうか。

人である女性を心から愛し、自分と父親の前から姿を消した兄。
自分とは正反対に優しく、慈愛に満ちた人だった。

大地を自然をこよなく愛し、慈しんだ父親が寿命を向かえた後、三蔵は父親と兄と三人で暮らした家を離れた。それは暖かな想い出のある家で独りで暮らすことに耐えられなかったからか、それとも父親の死を行方の知れない兄に伝えたかったのか、兄が幸せかどうか知りたかったのか、今ではその理由さえ思い出しも出来なかった。

実際、どんなに手を尽くしても兄の行方に繋がる手がかりは何一つ無かった。
もう二度と逢えないのだと諦めていた。
が、諦めなくても良いのかも知れなかった。
この自分が助けた少年が唯一の手がかりであれば、の話ではあったが。

三蔵は少年の安らかな寝息に安堵した吐息をついて、枕元にずっと絶やさず置いてあった氷の入った洗面器を片付けようと少年の頬を撫でていた手を離した。
それを待っていたかのように少年が、はっとしたように目を覚ました。
しばらく焦点の合っていない視線が天井を見つめ、やがて少年が頭を巡らせた。
そして、三蔵の顔をじっと見つめたかと思うと、三蔵に飛びつくように抱きついてきた。
三蔵はその勢いに座った丸椅子から少年と共に転げ落ちた。

「…ってぇ」

少年の身体を膝に載せた形で三蔵は床に座っていた。
ぶつけた尻がズキズキと痛む。
一方、少年は三蔵のそんな様子にお構いなしに首にしがみついていた。
そして、

「金蝉…金蝉、金蝉…」

と、どこかで聞いた名前を呼んでいた。




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