君にこの聲が届きますように (8)

ほんの短い時間、一緒に暮らしただけだった。
いつも何かに怯え、竦んでいた。
気を許した風でいて、どこか三蔵に対して緊張していた。
華奢で儚く、目の前にいても幻に思えるほど希薄な存在だった。

大切な兄が命を賭けて守ろうとした愛しい子供だからと言うわけではなかった。
草花や木々が可愛い、大事だと煩く訴えて来るからでもなかった。
ただ、素直な笑顔が見たいと、そう思ったのだ。
あの大きな蜂蜜色の瞳が、柔らかな色に染まって、小さな容がほころぶ様を見たかったのだ。

悟空が何をしてきたかなど、問題ではなかった。
自分だってこの手を血で汚したことなど、何度でもある。
人外の存在、〈妖〉である限り避けられない戦いもあるのだから。
だから、自分を責めることも、己が穢れた存在だなどと思わないで欲しい。
願いは今はいない兄と同じ、いや、それ以上に愛したいと思っているから────

「…悟空…もういいから」

三蔵は悟空の身体を抱きしめ、風の緊縛を解いた。

「……!!ぅぁあ…ぃあ」

途端、三蔵の腕から逃れようと悟空が暴れる。
身体を捩るたびに手に持った刃が三蔵を傷つけた。

「もう、終わった。もう、お前を脅かす奴らはいない。だから…」
「ぃあ…ぁぁ…うぁ」
「悟空!」

三蔵は腕の中で暴れる悟空と一緒に転がり、今度は三蔵が悟空を組み伏せた。
細い身体にまたがり、悟空の両腕を床に縫い止める。

「悟空…!」

言葉にならない獣の呻り声を上げる悟空の名前を三蔵は、何度も呼んだ。

「もう、大丈夫だ。怖くないから、悟空」
「ぃゃ…ぁあぅ…ああぁ」

三蔵の腕から逃れようと、悟空は背一杯首を伸ばして三蔵の手に噛みついた。
痛みに三蔵の顔が歪むが、悟空を拘束する力が弱まることはなかった。

「悟空…もう、怖くない。怖くないから…」
「…ぃあ…ぅう」

もう何を言っても自分の声は届かないのだろうか。
この純粋で脆い少年の心はこのまま壊れたままなのだろうか。
自分は間に合わなかったのか。

「もう誰もお前を傷つけたりしない。怯えなくても、怖がらなくても大丈夫だから…悟空」
「……ぅ…あ」

カランと、渇いた音を立てて悟空が握っていた刃がその手から落ちた。

「ご、くう…?」
「……ぃゃ…ぅあぁ…」

大人しくなった悟空の顔を覗き込んだ三蔵は、息を呑んだ。
険しく、憎しみと破壊衝動に彩られた燃えるような金晴眼。
その金晴眼から涙が溢れていたのだ。

「…悟空…お前……」
「…いゃ…やぁ…も…ゃぁ…」

獣の呻り声に聞こえた声に、はっきりとした言葉が混じる。

「悟空」
「た…け…ん……ぅ…」
「悟空、俺はここに居る。お前の目の前に居る」

正面から悟空の瞳を覗き込めば、濡れた金眼が揺れる。

「…さん…ぞぉ…た…けて…」
「悟空!」

舌足らずな涙に濡れた声が聞こえた瞬間、三蔵は組み伏せていた悟空の身体を抱きしめたのだった。









   ◇◇◇◇◇









怖かった。
恐かった。
助けを求めても返ってくるのは、どす黒い悪意ばかりで。

やっと出逢った綺麗なあの人に助けて欲しかったのに縋ることさえ出来ず、頑なに心を閉ざした。
それでもあの人は悟空に優しく、穏やかな安らぎを与えてくれた。
それは決して器用な愛情ではなかったけれど、その心は悟空の全てを柔らかく包んでくれていた。

その温もりに触れると、自分が犯してきた行為全てを許されているような錯覚さえ抱いてしまうほどで。
けれど、尻込みし、怯える自分が、素直に向けられる愛情を受け取ることが出来なかった。
それでもあの綺麗な金色の人の傍に居たくて。
離れたくなかった。
なかったのだ。

「…っく…さんぞ…さんぞぉ…」

力無く下ろされていた悟空の腕が抱きしめる三蔵に縋りついた。

「悟空…」
「さ、ん…ぞ…ぇっく…んぞぉ…さんぞ…」
「ああ、ここにいる。いるから」
「うん…うん…」

何度も三蔵の名前を幼子のように呼び、悟空は泣きじゃくった。
悟空の意識が戻った時、植物たちの暴走もまた、止まったようだった。
泣きじゃくる悟空を腕に抱いたまま、三蔵は改めて自分達の居る周囲を見回した。
暴走した木々が開けた大きな穴が、壁のあちこちに空き、崩れた天井からは満月の沈んだ夜空が見えていた。

悟空は三蔵の腕の中で、今までの恐怖を洗い流すように泣き続けた。
その泣き声に混じって、研究所を取り囲む森の植物たちの安堵する聲と三蔵に感謝する聲が三蔵に届く。
その聲に呆れながらも苦笑を漏らす三蔵だった。

どれほど泣いただろう。
ようやく泣きやんで顔を上げた悟空の顔は、付き物が落ちたように晴れやかだった。
その顔に三蔵は安堵の吐息をこぼし、悟空と共に立ち上がった。

「さて、帰るか」

強張った身体を伸ばし、三蔵はぽんと悟空の頭を叩いた。

「…ぁ…俺、えっと…って!」

一緒に居ても良いのかと、この期に及んで逡巡する悟空の鼻を三蔵が力一杯摘んだ。

「帰るんだよ。お前の家はあそこだ。誰が何と言おうとお前の帰る家は、あそこなんだよ。文句があるなら帰ってから存分に聞いてやる」

悟空の顔を覗き込んで告げる三蔵の言葉に、

「…いいの?」

赤くなった鼻を押さえて、悟空が泣きそうな顔で問えば、

「嫌でも連れて帰るさ」

そう言って、三蔵は、尚も何か言おうとする悟空の身体を抱き上げることで黙らせると、風に乗った。
舞い上がる寸前、三蔵の耳元ではにかんだ悟空の声が聞こえた。

「ありがとう、三蔵」
「ああ」

頷いた三蔵に、出逢って初めて、晴れやかな悟空の笑顔が返った。




end

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