在になろうとも、其れすら刹那に愛しよう




酷く春風が吹雪く夜だった。
締め切ったはずの窓から、それでも隙間をみつけては桜の花弁が中へと入り込み、目を閉じても眠る気はなれない俺の口元へと舞い落ちる。
俺はその花弁を掴み取り、ゆっくりと身体を持ち上げ月明かりが入り込んでくる窓際まで歩いた。
庭に植えられている桜が、月の光を拾い集めたかのように冷たく光り輝いていた。
目の前で見たくなった俺は、物音を立てぬようにドアを押し開け、暗闇へと打って変わった廊下を進み、脚を使わなければ届きそうもない天井は、よりその闇を濃くしている。
庭が一面に見渡せる廊下まで行き、俺は足を組みながら床へと腰を降ろした。
途端に、花弁が夜空へと舞い上がる。

「おや、月が食い尽くしているようですね」

ふっと陰ったのは、俺の背後へと突然現れた父のせいで、夜中に出歩いている俺を咎めにやってきたのではなさそうだった。

「俺は、桜が月へと昇りたがっているように思えます」
「そうですね」と父は微笑みながら頷いた。
「この前、お伽話で聞いたんです」
「おや」と父は首を傾げた。「何でしょう」

父も俺の横に腰を降ろし、袖から見慣れた煙草を取り出した。

「また、叱られますよ」
「あなたも夜中に出歩くのは良くないでしょう?共犯です」

俺は呆れたようにため息を吐き出すと、葉を詰めて火をかざしている父を横目に桜へと顔を向けた。

「桜が美しいのは、その分人間を肥料にしているからなんです」
「ほう」
「そう思うと、あの舞い上がる花弁は魂を持っているように感じます」

飛び散るその桜は、中央にある池に落ち、水面で花筏を作りながらやがて水の中へと沈んだ。

「知っていますか?」

俺は父のおどけたような声に攣られて、顔を上げた。
月の光が父を照らし、俺の目を眩く細める。
くっきりと浮かんだ父の輪郭だけが、はっきりと目に焼きついた。

「桜が咲く頃に雪が舞い散れば、災いの兆しだと」

俺は夜空に向かって吐き出された紫煙を目で追いながら、肩を竦めて見せた。

「雪が降るのは春ではありません。桜は春に咲きます」
「自然はきまぐれなんですよ」

それに、と父は口に煙草を咥えて、腕を袖の中へと隠した。

「私にはどうしても災いが降ってくるようには思えない。それより、なんとも美しい景色だとは思いませんか?思いを巡らせるだけで、その風景を愛しく感じる。私は、死ぬ前に一度見てみたいと思っているんです」

そう告げた父の横顔や、あの時のくっきりとした輪郭が、今ではおぼろけとなって曖昧な形になっている。
それよりもあの日を思い出せば、父が昇らせた煙や、舞い散っていた花弁が浮かび上がり、そして、父が叶える事の出来なかった小さな夢のひとつを、俺は鮮明に思い出した。




やけに上手く止まらない制服の釦を気にしながら、首の肉を噛まないように、と注意されながらも俺は首元の釦を何度も外したり付けたりと繰り返していた。

「下手くそだな」

いつも自分でしないからだろう。
同じ制服に身を包んだ悟浄が、嫌らしい顔つきで部屋へと入り込んでくる。
俺は一気に顔を顰めながら、手を伸ばして釦をかけようとした使用人を右手で制すと、荒い手付きで首元を絞め、傍にあった椅子へと腰掛けた。

「何故来たんだ?」
「一緒に行くならば、是非学校までお送りします、って言われたからな」

後で八戒も来るだろ、と悟浄は軽い口調でいいのけた。
俺は苛々しながら窓の外へと見遣ると、門の前にはまだ早い筈だが馬車が備えられている。
前足を浮かせながら二頭の馬が前踏みをして鉄の音を響かせ、甲高い声を上げ高ぶっている馬をあやすかの様に、一人の男が視界へと写り、俺はすぐさま視線を逸らした。

「光明さまが亡くなってから、この家は随分寂しくなったな」

偶然というものは無いのですよ。
父が口癖のように何度も俺に言い聞かせた言葉の意味を、俺は何よりも考えているのではないのだろうか。
勉学よりも、雑学よりも、父が与えてくれる言葉は何よりも重みがあった。

「あの人は陽だまりの様な人だったからな」
「叱り付ける事もなかったし、何より優しい方だったよ」

悟浄が棚にある写真へと手を伸ばした時、遠慮するかのように部屋のドアを叩く音が聞こえ、返事をする間もなく八戒が顔を覗かせた。

「間が悪かったでしょうか」

八戒は場のぎこちない雰囲気を察し、顔を渋らせながら静かにドアを閉めた。

「いや」と俺は二人に椅子を勧める。「いつもの事だろ」

二人は勧められた椅子へと座ると、八戒は悟浄が手にしていた写真を見て物哀しそうな表情を作り、悟浄もそれに気づいたのか、その写真を八戒へと手渡した。

「今でも突然に姿を現すのではないのかと、そう考えてしまいますね」

八戒は一度その写真を撫で、元の棚の上へと収めた。

「父が居た時よりも、今は家全体がピリピリしてやがる。地位争いだろうがな」
「それは、三蔵に譲り受けられるんだろ?」と悟浄が首を傾げる。
「それはもう揺ぎ無いでしょうが、でも、それだけじゃ足りないのでしょうね」

八戒は疲れきったようなため息を吐き出しながら俺へと見遣り、俺はその顔を見て、先が見えた話に嫌気が差し、顔を逸らした。

「気持ちは解りますが、僕らの身にもなって下さい」
「その言葉、そっくり返してやる」
「訪ねる度に、あなたに縁談の話を聞かせてくれと、そう言われます」

俺はちらりと視線を向け、また外へと向ける。

「皆、気が立ってるんだよ。お前だけだろ、女の噂もなければそういった素振りも見せない。こういうのに聞き飽きたんなら、上辺だけでもそう振舞えばいい」

悟浄はにやりと口元を吊り上げながら、黒革で出来た靴を見せ付けるように足を組んだ。
悟浄はそう言った事には有名な奴で、噂を耳に入れるたびに相手の名前が変わっているを、俺は良い様には思っていない。
そもそも、興味もなかった。

「仮にしたとしても、相手が傷つくだけだ。それに、面倒だろ」
「面倒?」と八戒は笑みを絶やさず繰り返した。「そんな事はないでしょう」

俺と悟浄は同時に八戒へと視線を流した。
二人の肩越しに見える時計が、いつもと同じ動作でその振り子を揺らしている。

「いつにもなく、口が滑りますね」

「・・・何故だと思う?」と俺は肘掛に腕を乗せてくつりと喉を鳴らした。
二人は考える仕草だけは見せたが、すぐさま首を左右に振って、話を促すように黙り込んだ。
朝靄が掛かる真新しい空気が徐々になくなり始めた頃、また、馬の鳴き声が聞こえてくる。

「父が言っていた言葉の意味が、やっと解った」

偶然などない、あるのは必然だけだ。俺はその理由を見出した。

「俺は絶対縁談などしない。また聞かされたとしても、そう俺が言っていたと突き返してやればいい」

「ええ、そうさせて貰います」と八戒はいかにも迷惑そうに呟いた。
俺たちの話が耳に入らないように身を遠ざけていた使用人が頭を深く下げながら、誰も気分を害さないタイミングで姿を現し、そろそろ出なければならない時刻だと告げると、俺たちは椅子から立ち上がり、門で構えている馬車へと向かった。
それで、と八戒は向かっている途中で、深く考え込んでいるような声で呟いた。

「その、あなたが見つけた意味とはなんですか?」
「ああ、それは俺も気になった」

馬車へとたどり着き先に立った使用人がドアを開くと、俺たちは身を屈めながら中へと入り込む。
ドアが丁寧に閉められ、紐の叩く音が聞こえると同時に、馬車は動き始めた。
部屋よりも鮮明に写る風景を見遣りながら、俺は持っていた鞄を横に置き、腕を組む。

「煙草が欲しいな」と俺はぽつりと呟く。
「こんな所では絶対止めてください」
「何、俺も欲しいんだけど」

「悟浄」と八戒は咎めるような声を出す。
煙草を口にしたのは、父が冗談半分で俺に差し出したのが初めだろうか。
ろくな吸い方もせず、目に涙を溜めて咽返ったのを、父は声を殺して笑っていた。
自分でも自覚している性格のせいで、俺は無理にでも一日に一度は煙草を口にするようになり、それを見て父は、煙草仲間が増えた、と喜んでいた。

「どうしても、もう一目見たい奴がいる」

それは、俺を見ては微笑んで、愛情をくれた父でもない。

「誰なんです?」
「・・・さぁな」と俺は言った。「まだ名も知らん」


たった一度、その一度で十分だった。
俺はきっと、あの日お前に出会う為に、生まれ生きて来た。
あの出会いは、必然だった。




── 続く




2006/5.01

「お互いがお互いを追っかけあって、最後にはちゃんと出逢うお話」というリクでした。
17777HITにありがたくもリクエストして下さいましたmichikoさまに、大いなる感謝を込めて!
それだけは止めておこう、と思っていたのですが、続いてしまいます・・・。ごめんなさい!(土下座)
あああ愛だけはたんまりこもっております。
是非時代は大正初期を想像して下さい。古き良き時代です。

(まだ序章ですが、本人さまに限り、良ければお持ち帰りください)

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