堕在になろうとも、其れすら刹那に愛しよう
酷く春風が吹雪く夜だった。 「おや、月が食い尽くしているようですね」 ふっと陰ったのは、俺の背後へと突然現れた父のせいで、夜中に出歩いている俺を咎めにやってきたのではなさそうだった。 「俺は、桜が月へと昇りたがっているように思えます」 父も俺の横に腰を降ろし、袖から見慣れた煙草を取り出した。 「また、叱られますよ」 俺は呆れたようにため息を吐き出すと、葉を詰めて火をかざしている父を横目に桜へと顔を向けた。 「桜が美しいのは、その分人間を肥料にしているからなんです」 飛び散るその桜は、中央にある池に落ち、水面で花筏を作りながらやがて水の中へと沈んだ。 「知っていますか?」 俺は父のおどけたような声に攣られて、顔を上げた。 「桜が咲く頃に雪が舞い散れば、災いの兆しだと」 俺は夜空に向かって吐き出された紫煙を目で追いながら、肩を竦めて見せた。 「雪が降るのは春ではありません。桜は春に咲きます」 それに、と父は口に煙草を咥えて、腕を袖の中へと隠した。 「私にはどうしても災いが降ってくるようには思えない。それより、なんとも美しい景色だとは思いませんか?思いを巡らせるだけで、その風景を愛しく感じる。私は、死ぬ前に一度見てみたいと思っているんです」 そう告げた父の横顔や、あの時のくっきりとした輪郭が、今ではおぼろけとなって曖昧な形になっている。
やけに上手く止まらない制服の釦を気にしながら、首の肉を噛まないように、と注意されながらも俺は首元の釦を何度も外したり付けたりと繰り返していた。 「下手くそだな」 いつも自分でしないからだろう。 「何故来たんだ?」 後で八戒も来るだろ、と悟浄は軽い口調でいいのけた。 「光明さまが亡くなってから、この家は随分寂しくなったな」 偶然というものは無いのですよ。 「あの人は陽だまりの様な人だったからな」 悟浄が棚にある写真へと手を伸ばした時、遠慮するかのように部屋のドアを叩く音が聞こえ、返事をする間もなく八戒が顔を覗かせた。 「間が悪かったでしょうか」 八戒は場のぎこちない雰囲気を察し、顔を渋らせながら静かにドアを閉めた。 「いや」と俺は二人に椅子を勧める。「いつもの事だろ」 二人は勧められた椅子へと座ると、八戒は悟浄が手にしていた写真を見て物哀しそうな表情を作り、悟浄もそれに気づいたのか、その写真を八戒へと手渡した。 「今でも突然に姿を現すのではないのかと、そう考えてしまいますね」 八戒は一度その写真を撫で、元の棚の上へと収めた。 「父が居た時よりも、今は家全体がピリピリしてやがる。地位争いだろうがな」 八戒は疲れきったようなため息を吐き出しながら俺へと見遣り、俺はその顔を見て、先が見えた話に嫌気が差し、顔を逸らした。 「気持ちは解りますが、僕らの身にもなって下さい」 俺はちらりと視線を向け、また外へと向ける。 「皆、気が立ってるんだよ。お前だけだろ、女の噂もなければそういった素振りも見せない。こういうのに聞き飽きたんなら、上辺だけでもそう振舞えばいい」 悟浄はにやりと口元を吊り上げながら、黒革で出来た靴を見せ付けるように足を組んだ。 「仮にしたとしても、相手が傷つくだけだ。それに、面倒だろ」 俺と悟浄は同時に八戒へと視線を流した。 「いつにもなく、口が滑りますね」 「・・・何故だと思う?」と俺は肘掛に腕を乗せてくつりと喉を鳴らした。 「父が言っていた言葉の意味が、やっと解った」 偶然などない、あるのは必然だけだ。俺はその理由を見出した。 「俺は絶対縁談などしない。また聞かされたとしても、そう俺が言っていたと突き返してやればいい」 「ええ、そうさせて貰います」と八戒はいかにも迷惑そうに呟いた。 「その、あなたが見つけた意味とはなんですか?」 馬車へとたどり着き先に立った使用人がドアを開くと、俺たちは身を屈めながら中へと入り込む。 「煙草が欲しいな」と俺はぽつりと呟く。 「悟浄」と八戒は咎めるような声を出す。 「どうしても、もう一目見たい奴がいる」 それは、俺を見ては微笑んで、愛情をくれた父でもない。 「誰なんです?」
たった一度、その一度で十分だった。
|
2006/5.01
「お互いがお互いを追っかけあって、最後にはちゃんと出逢うお話」というリクでした。
17777HITにありがたくもリクエストして下さいましたmichikoさまに、大いなる感謝を込めて!
それだけは止めておこう、と思っていたのですが、続いてしまいます・・・。ごめんなさい!(土下座)
あああ愛だけはたんまりこもっております。
是非時代は大正初期を想像して下さい。古き良き時代です。
(まだ序章ですが、本人さまに限り、良ければお持ち帰りください)