てを伸ばせば、見える罪
「只今」
玄関先でそう声を掛け、俺は促すように相手を中へと招き、入り口のドアを閉めている間に、足音を抑えた母の姿が目に入った。
「お帰りなさい。今日はお友達も一緒なんですね」
「突然伺ってしまって、申し訳ないです」
いえ、と母は白い肌にくっきりと浮かんだ紅い唇を持ち上げながら、そういう意味で言ったのではないと言うかのように微笑んで見せた。
俺は二人に中へ入ろうか、と告げて、靴を隅へと固めた。
「夕食をどうぞお食べになってくださいね」
「そのお気持ちだけで十分ですよ」
「いいや、是非口にして行ってくれ」
部屋へと向かう途中でそう言い合いながら、初めは遠慮していた相手も俺たち親子に負けたのか、最後には素直に頂いていくことになった。
母は深く頭を下げてからその場を後にし、若者二人で話したい事もあるだろうと、後で食事を部屋に持っていくと言っていそいそと奥の部屋へと去った。
「いつ見ても美しい方だな」
相手は母の後ろ姿を眺めながら、そう呟いた。
「後で伝えておくよ」
「ああ、是非頼む」
俺たち二人は互いに笑い合うと、また部屋へと向かい始めた。
「お前の家を訪ねると、肥えてしまわないか不安になる」
母は俺が連れてくる相手には必ず沢山の食事を出してもてなした。
俺がいつまで経っても大食いなせいで、母は若者は皆そうなのだと勘違いしているのだろう。
それでも出された物は全て平らげて行くのだから、母の手料理はどこの店よりも美味いものだった。
「いつか店を開いたりはしないのか?」
「その時は祝いに来てくれよ。勿論金は取るけど」
相手は腕を組んで渋った顔を作りながら、困り果てたように頭を掻いた。
「店が出れば嬉しい事に変わりないが、そうなると複雑だ」
「正直な奴だな」
俺はたどり着いた部屋の襖を引き、片手を差し出して相手を先に通らせる。
俺の部屋にあるものは数える程の物しかなく、元々殺風景だった部屋の雰囲気を更に物悲しいものにさせていた。
それでもこのままにし続けているのは、部屋から見える景色があまりにも素晴らしいものだったからで、物で溢れ返った部屋だとその景色を壊してしまうからだった。
「それで、話って何だ?」
俺は襖を閉め、外を眺めている相手に目を遣った。
「ああ、そうだったな」
「忘れてたのか?」と俺は眉を顰めた。
「いや、何。何だか間違いのような気もしてきてな」
「解らないだろ、言ってみないと」
そうだな、と相手は学生帽をそこでようやく取ると、その場に座り込んで、また外へと顔を向けた。
俺も相手の視線を辿りながら外へ向けると、沈みかけている日が辺りを紫に染め上げ、反対側の空はうっすらと夜の訪れを知らせるように暗く染まっている。
強い風が舞い込んだかと思うと、遠くの方から馬の甲高い鳴き声が響いた。
「あの家紋は、玄奘だな」
相手は窓から顔を突き出すようにそう言うと、すぐさま身を引いてこちらへと振り向いた。
俺は咄嗟に立ち上がり、相手よりも身を乗り出すようにして窓縁に手をやると、身体を支えながら外を覗き込みその馬車に掲げられている家紋を見遣って、頭をうなだれた。
金の刺繍で彩られた家紋は、日の光で赤黒く見える。
「どうかしたか?」
俺の行動に驚いたように、相手は窺いながら眉を顰める。
俺は力の入らない目を相手に合わせながら、小さく首を左右に振って見せた。
「どうもしないさ。それより、お前こそ早く言ったらどうなんだ?」
すっと縁から手を離し、俺もようやく学生帽を取り机に置くと、俺が座るのを待っていたのか、相手はぐっと膝を掴んで下唇を噛み締めた。
「最近、物思いに耽ってはいないか?」
俺は一瞬息を詰まらせた。
それでも相手に気づかれないように深い深呼吸を一度だけしてみせ、母と同じように微笑んだ。
「俺がか?」
と俺は言った。
「まさか」
「勉学も身に入っていないように見えて仕方ない」
「それはお前に比べれば落ちるよ。馬鹿だな、考えすぎだ」
相手は人の感情を読める奴だった。
誰よりも気を配り、誰よりも一身に勉学に励み、誰よりも未来に希望を持っている。
それが彼の長所でもあったし、何よりも弱い部分でもあった。
相手は親しい友と同じ苦しみや喜びを感じ、それを共有したがっていたが、俺はこれだけは隠し通すつもりだった。
誰も巻き込んではいけない。
そういう隠し事もあるのだ。「だから、もうそんな顔はするな」相手は渋々と言った感じに頷き、母が持って来た夕食を平らげた頃にはすっかりとその気分も元に戻っていて、今日は済まなかった、と去り際に囁いた言葉に偽りはなかった。
「良い友を持ちましたね」
母と同じように相手の背に手を振りながら、ふと、母は静かにそう漏らした。
「ええ、俺はああいう奴を友に持てて幸せです」
「悟空」
と母は振り返る。
「きっとあなたもそう思われていますよ」
「そうでしょうか」
本当に、そうなのだろうか。
信頼しあえる友を、あいつには作って欲しいといつも願っていた。
俺なんかじゃなく、もっと、別の誰かを求めて欲しかった。
俺では役不足でしかない。
自分の事しか考えず、自分の事だけに生きているような俺に、あいつの友は似合わない。
母が中へと促したのを気に、俺はようやく手を降ろし、中へと戻った。
母の後ろに続きながら歩いていると、目の前でふいに母が立ち止まり、俺も横に顔を向けると、辺りは闇が支配した町へと打って変わっていた。
その中でも、やはりここから見える風景は心を奪われるような光を放っている。
「何を躊躇っているのです?」
母の声は凛と透き通った響きを持って、俺の元へと届いた。
俺は何かに堪えるように、掌に力を込めてぐっとその衝動に耐えた。
「俺は何も躊躇ってなどいません」
「いいえ」と顎を軽く引いてこちらを見遣る母の黒い髪が、風と共に流れる。
「いいえ」
その時確かに、母は涙を堪えていた。
流れる髪の間から見える紅い口元は小さく振るえ、まるで俺の変わりに傷を負っているような、心痛な表情をその髪に隠した。俺は思わず母の肩に手を添えて、軽くあやすように摩ってみせる。
「何も間違ってなどいません。俺は素晴らしい友と、誇らしい母さんを持てて幸せなんです」
それでも俺は、まだ求めていた。
「他に何を望むんですか」
その求めているものが、どんなに罪深いものなのか、俺は知ってなお求めていた。
母は意を決したように身体ごと振り向き、俺の手を払っては怒りと悲しみが入り混じった表情を俺にありありと見せつけた。
「お前をこんな時代に産んでしまった私がいけなかった。どんな罪を受けようとも、それは許されない事なのです。悟空、こんな母許してはくれるな」
ああ、そうか。
母は知っているのだ、あの日の事を。
あの日思い描いた俺の夢を、母は知ってしまったのだ。
知ってしまい、それから思い悩んだのだろう。
そう願ってしまった俺を罵るのではなく、自分自身を戒めたのだろう。
もう一度会いたいと、そう思ってしまった俺を悲しんだのだろうか。
それでも俺は、母を慰める為に微笑んでみせる。
「何を許さないんですか、母さん。心配しすぎですよ」
「あなたは優しくなりすぎた。自分を犠牲にする事に馴れてしまっているだけです」
「母さん。きっと疲れが溜まっているんです。今日はもうお休み下さい」
「悟空」
叫びににも似た声を上げながら、母はその場にうなだれた。
俺はそのまま襖の奥へと進み、母から逃れるようにその襖を閉め、自分の部屋へと舞い戻る。
友だけではなく、母にまでも知られていた。
その事が頭の中をぐるぐると回り、途端に吐き気に襲われたが、手を口に押さえつけて、何とか部屋へとたどり着いた。
目に焼きついたように、あの家紋が浮かび上がる。
玄奘家の印、触れてはならない、もっとも高い場所にあるその存在を、俺は何よりも求めていた。
あの人が玄奘でなければいいと、何度願っただろうか。
俺が位のある人間だったらいいと、何度願っただろうか。
どうしてこんな時代に生まれついたのだろうと、何度思ったのだろうか。
思えば思うほど余計に恋しくなり、何度も口から零れそうになった。
俺は制服の胸元を握り締め、畳へと崩れ落ち、ただ黙っているとふと、下の方から母の歌声が聞こえてくる。
それは誰もが悲しみに支配されそうな、そんな歌だった。
”心にも、あらで憂き世に、ながらえば、恋しかるべき、夜半の月かな”
あなたを求める事が罰だった。
それでも、そんな罰でさえ受けてもいいと、そう思う感情が罪でしかない。
あの出会いは、罪科だった。
── 続く
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