在した時間が降り堕ちる





食事を持ってくると言ったのは、もしかして気休めだったのだろうか。
あれから一向にそんな気配は感じられない。
それ以前に、二重扉に近こうとすることさえ拒んでいるようだった。

誰の存在も感じられない広い空間。

明けようとしない夜は、今でもこの部屋に光を差すことはなく、ただ孤独と恐怖を投げ続ける。
初めは何も感じなかったにしろ、机にあるライトを付けなければ一気にこの部屋は闇となり、それに気づいてからというもの、俺は酷く光を求めた。

闇と光、その二つを考えると、もう駄目だった。
粗末な窓が備え付けられているにも関わらず、朝を迎えた気がしない。
俺の前からふっと光の世界が遠のいたように思い、よく考えてみれば、部屋に入ってからまだ日が経っていないだけの事に過ぎないのだろう。
まだ夜も明けていない内から、俺は怯えているのだろうか。
でも、俺は何から怯えているのか、全く解らなかった。

そんな時、空けていたはずの窓から微でもあった光が消え、遂に俺の周りは何も見えなくなる。
自分の手先を確認しようと持ち上げたが、俺の目には何も写そうとはしない。
どっと汗が流れ、そのまま自分が今確かにここに存在しているのか確かめようと、両腕で自分をきつく掴み抱いた。
身体を曲げ、畳に額を押し付け、ひたすらに自分という者の脆さを感じる。
徐々に自分の息遣いも聞こえなくなり、風も月の光も、寒さに身を縮めていたはずなのに、その寒ささえも感じなくなった。
死というものが、急速に俺の身体を駆け巡る。
ようやく俺は闇の息遣いというものを理解し、畳から額を離して顔を持ち上げた。

制服に皺をつくりながら身を縮め、震え始める自分の身体を知っても、もうどうすることも出来ない。
呼吸が乱れ出し、溢れる涙が頬を伝う。
畳にひとつの雫が落ち、ぽたり、とその音だけが聞こえた。
波も何もない水に赤い血が落ち、その色をじわりと広げさせる光景がありありと目の前に現れる。
背筋にかけてぞっと悪寒が通り過ぎ、俺の息は更に乱れ始めた。

何も存在しなかった空間に、突然錠の擦れる音が響き渡る。
俺は気力のない顔を扉へとのろのろと上げ、錠の開けられる気配を感じた。
俺は咄嗟に立ち上がり、襖に圧し掛かるように力を込めては、ぐっと圧迫される胸に吐き気を覚えた。
思い切り胸元を掴み上げ、力の加減が解らず征服の釦を千切り取る。
ひとつの釦が畳へと転がった。

「悟空さん?ここを開けて下さい」

聞き覚えのある声が襖を隔てた向こう側から聞こえてくる。
俺は返事を返すことも出来ない程に、呼吸の仕方さえも忘れてしまっていた。
部屋にはただ荒い息遣いが聞こえるだけだ。

「どうかしたのですか」

と襖をこじ開けようとする相手の声は、酷く甲高い。

「ここを開けて下さい」

開けてはいけない気がして、俺は声も上げず首を左右に振り続けた。
息苦しいせいで視界に写るものもおぼろ気になり、拳を襖に叩きつけて自分を奮い立たせようと歯を食いしばる。
そうえば、俺は相手に聞きたい事があったのだと気づき、途切れる声を振り絞って呟いた。

「どうして、食事を。持って来てはくれないのでしょう」

相手側から落胆の声が上がる。
いいえ、いいえ、と繰り返しながら、その時にも襖を開けようと力を加えていた。

「悟空さん。私めはちゃんとお持ちしておりました。何度も何度もこちらへ参ったのです。その度にお声もお掛けしたのです」

何度も?

俺は体中から力が抜け落ちるのを感じ、その場に蹲る。
きしりと胸が音を立てた。

「手紙を受け取った日から、もう半月が経とうとしております。その間、悟空さんは何も口にしてはいなのですよ。ああ、どうか目をお覚まし下さい。彼方はあの日から時を刻んでいないのです」

俺は瞼を閉じ、胸の痛みに耐えようと額を地へと擦りつける。
ふと、窓の外へと視線を向けた。
見える桜が咲き乱れ、花弁と入り混じるように、白い、儚い雪が降り落ちる。
まるで錦絵の雪姫を思わせるその景色に、俺は堪らなく涙を流す。

俺も縛られていたのだ。

あの桜に縛り上げられ、まやかしを見せられ続けていた。
俺はそれに気づかず、闇を恐れ、震えていた。その度に闇は俺を食いちぎって行ったのだろう。

「ああ、若様。やはりもっと早くお教えすれば良かった。こうなる前に、お教えすれば良かった」

襖からずるずると流れるように全てが崩れ落ちる。
なぜ開けてはいけないと思ったのか、やっと解った。

「お前は下がれ」
「しかし」と相手は言った。
「下がれ」

有無を言わせまいとする、低い声が彼を制した。
もう、襖を押さえる力は残っていない。
俺は瞼を閉じる瞬間に、雪桜を捕らえた。

雪が紅く染まり始める。

すっと襖が開けられ、久しく感じることの無かった人の気配を実感し、俺は目を開けて顔を持ち上げた。
襖が閉められ、また、闇だけが舞い戻る。
けれど、その空間には別の生を感じた。

腕を掴まれ脱力しきった身体を引き寄せられると、暖かい胸へと押し込まれる。
力強く掻き抱かれたが、俺は頬を擦り付けるように相手の腕に縋りついた。
顎に手を置かれ、上を向かされる。

視線が絡み合い、俺は確かに紫瞳を捕らえた途端、すっと唇を親指でなぞられる。
荒く上がっていた呼吸が止まり始め、不意に相手の顔が近づいてくる。
俺は顔を背け弱弱しく首を左右に振ったが、相手は力任せに顎を掴み、また正面へと向かせた。
俺は甲を口に押し付け、俺はまた一筋の涙を頬に流す。
相手はその掌を舐め上げ、甘噛みを加え続けながら空いている手で制服の釦を外し、俺が千切り取った釦に気づいたのか、細く整った眉を顰めた。

「名を」

と相手は呟く。

名を呼べば、歯止めが利かなくなる。
それは互いにわかっている事だった。
それでも、俺は同じように名を求めていた。
その口から、その声で、俺の名を呼んで欲しかった。
瞼を閉じれば、溢れるように涙が流れる。
それを掬い上げるように、相手はそっと目じりに接吻を降らし続けた。

「若様」

そう言ったものの、相手は目を細めるだけで接吻を止める気配はない。

「俺の名は、それじゃねぇ」

頼むから、名を呼べよ、と相手は呟く。
空から雪桜が降り注ぎ、雪は紅く染まり上がる。
そんな中で、俺はまた禁忌へと一歩歩み寄った。

「三蔵」

と俺は甲を取り、躊躇いもなく口にする。

「三蔵、三蔵・・・」

噛み付かれるように口を塞がれながら、俺は知らず知らず祈った。
震える手を三蔵の首元へと持ち上げ、ぐっと掴むと玄奘の家紋を引きちぎり、畳の上に放り捨てた。
その家紋は俺の釦に当たり、鉄の音を鳴らしてその動きを止めた。
口付けを止め、鼻先が擦れあう程度まで顔を離しながら、俺は確かめるように三蔵の頬や目尻や唇に触れ、その額へと唇を押し当てた。

「もし、後世に生まれ変わる事が出来るのなら、俺は、また必ず三蔵を求めるよ」
「ああ」
「きっと、きっと見つけ出してみせるから」

頬に、冷たく雫が降り落ちる。
俺は三蔵から零れる涙を、愛しく、途方も無い物に感じた。

本当にその愛以外に何もいらないと思える程、俺は三蔵を愛していた。








Epilogue




垂れる汗を拭いながら人ごみを掻き分けるように進み、炎天下にしている犯人である太陽を見上げて、俺は無意味になる愚痴を零した。

明日は例年通りに初夏の陽気に戻る筈らしいが、そんな事が信じられそうにもないくらいに、今日の気温は異常な程外に出かける人たちをだらけさせていた。
まだ明日から蝉の鳴き声が聞こえてくる、と言われる方が説得力がある。
俺は一刻も早く目的の場所に着こうと踏ん切りをつけて、また人ごみへと舞い戻った。

日陰を意識しては逆方向に進む人達をやり過ごしていると、ふと、目の前に一片の花弁が見えた気がして、俺は無意識に立ち止まり、後ろから携帯に向かって喋り続けている人にぶつかったが、小さく謝ってすぐさま後ろへと振り返る。
何かが急速に頭の中を駆け巡り、俺に何かを語りかけていた。
俺はそれを想像しようとしたが、軽くかぶりを振って、やめた。
上手く行きそうになかった。




声が在り歌が在り言葉が会ったのは、偶然ではない。






end




2006/5.27

ここまでの長旅のお付き合い、ありがとうございました。
そして何よりもリクエストして頂きました
michikoさま。
まさかこんな流れになってしまうとは、きっと想像もしていなかったと思います。
ももも申し訳ないです・・・。
それ以上に感謝の気持ちでもいっぱいです。
本当にありがとうございます。
最上級の愛を込めて。




<露 湖 様 作>

露湖さまのサイト「derashine」で募集されていたキリ番17777Hitに立候補して、書いて頂きました。
リクエストは「お互いがお互いを追っかけあって、最後にはちゃんと出逢うお話」というものでした。
簡単なようで難しい(書く人のみになって考えれば、偉く難しいと気付いた私)私の我が儘に、こんな素晴らしい長編で答えて下さいました。
大正時代のちょっと怠惰ででも厳格なくせに開放的で内包するエネルギーの激しい時代の三蔵と悟空です。
文章がとても文学的で、どうやって二人はお互いを見つけたのか、どうやって出逢うのか、とてもどきどきして続きを待ちました。
こうして出逢った二人、お互いに家を背負い、身分の差もあって、前途多難ではありますが、
きっと周囲を巻き込んで納得させながら、それでも密やかで熱い愛情を深めて行くのでしょう。
未来、声が聞こえて、また、二人は出逢い、恋に落ちるのでしょうか?
巡り会いは必然、出逢いも必然、恋は運命なんでしょうね。
もっと、もっとこの二人のお話が読みたいと思いながらも、満足感の味わえるお話でした。
露湖さま、本当に素晴らしいお話をありがとうございました。
幸せですvv

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