み干した真実





春にもかかわらず異常と言えるまでの気温の低下は、今日明日が山場のようにきつく厳しいものとなっていた。
桜はその花を閉じるかのようにその開花を遅らせながら、未だに散乱と咲き誇っている。
その一片が馬車の中へと紛れ込んでくると、すかさず掌で悟浄が掴んで見せた。

「花も厳しいだろうが、人はもっと耐えしのげん寒さだ」

掴んでいた掌を広げ、風と共に一片はまた窓の外へと舞い戻っていく。
八戒はそれを目で追いながら、呆れたように肩を落としてはため息を吐いた。

「そう言うのなら、その窓を閉めれば良いでしょう」
「そうだった」

と悟浄はおどける声で言った。

「八戒の言う通り」

悟浄が窓を閉める為に腕を伸ばし、縁に指を掛けた時だった。
俺は無言でその手を制すと、二人は俺の行動に驚いたように顔を上げ、同時に何か言葉を促すような視線を向けてくる。
俺はそのままそれへと顎をしゃくり、二人は釣られるように窓の外へと顔を向けた。
悟浄は軽く口笛を吹き、八戒は驚愕の表情を作りながらも、その顔は蒼ざめていた。

「あのお方は孫家の者でしたよね?」

八戒の言葉に悟浄が小さく頷いてみせる。
「舞いが得意とか。それ以上に美女だと噂で聞いてはいたが、噂だからな。当てにしてなかった。でも、噂になるだけのことはある」
「ええ、それは僕にも届いていましたが」
「お前の所にも?珍しいな」

二人の会話は今は鬱陶しいもの以外何者でもなく、俺は苛々としながら前にいる使用人に声を上げ、馬車を門の前で止めるよう仕向けた。
けれど相手の反応は薄いものである。

「聞こえんのか」
「いいえ、しかと耳に入れております。けれど、それは出来ぬ願いなのです」

俺は目を細め、眉間を寄せた。
八戒と悟浄も同じように違和感を感じているようだった。
俺はもう一度同じ事を繰り返し、それでも駄目だと言い張る使用人のその意図が解らず、諦めるようにため息を吐き出した。

「なら良い。勝手に何処までも走ってろ。俺は降りる」

学帽を深くかぶり、馬車のドアを開けていると、使用人は悲鳴に似た声を上げた。

「いけません。若様、どうぞこの老いぼれのお話をお聞き下さい。決して降りてはなりません」

俺は馬車から飛び降り、今尚叫び続けている声を遠巻きに聞きながら、門の前で頭を下げ続ける女の傍へと向かった。
なりません、と悲痛な声が聞こえる。



辺りには散った桜の花弁があり、女の長い髪を浮き立たせるように周りに集まっている。
両指三本を地に押し付け、その姿勢を崩すことなく、女は振袖を気にする事も無く頭を下げ続けていた。
その顔が、徐にこちらへと上げられる。
俺はその女の顔立ちに驚き、やはり血の繋がった親子なのだと改めて気づいた。

「三蔵様でいらっしゃいますでしょうか?」

女の唇は酷く青冷めて、細い身体はその震えを止めることが出来ぬ程に小刻みに揺れ、一体いつからこの場にいたのだろうか。
俺は一度だけ頷いて見せた。
それを肯定と理解した女は、もう一度先ほどと同じ位置まで頭を下げ、会いとう御座いました、と震える声でそう呟いた。
漆黒の髪が肩から流れ、また顔が上げられる。

「三蔵様。私めは命をかけるつもりでこちらに参った身で御座います。どうか、どうか、一人の母である私めのお話を聞いて頂きたいのです」
「それは構わんが、しかしここでは風邪を引くだろう。屋敷へと入ってその話を聞こう」
「いいえ」

と女は震えていながらも、はっきりとした口調で言った。

「中には入りとう御座いませぬ」
「・・・何故だ?」

女は覚悟を決めたように目を鋭い物へと変え、吐き出すように言い放った。

「この屋敷で、悟空は幽閉を言い渡されたのです。もう二度と母には会えますまい、と。そうここで覚悟を決めたのです。悟空が決めた事とは言えども、私めにはそのような場所へ足を踏み入れる事が出来ぬのです」

俺は頭部を殴られたような激しい激痛を覚えた。
女の言葉が上手く飲み込めず、何度も咀嚼するように無理やり飲み込んでみせる。
無理やり飲んだせいか、喉が焼けるように痛い。

「それは誠か」

とやけに冷静に呟く。

「嘘ではないのか」
「どうしてそんな嘘が付けましょう。これは誠の事です。三蔵様を疑った事も御座いましたが、今のお言葉でそれも消えうせました。どうか一度でもそう思ってしまった私めをお許し下さい」

女は泣く事も出来ぬ程に、その心に悲しみを抱いていた。
涙を流さなくとも、人は傷つき後悔の念に駆られる事が出来る。
それはこの女ばかりではなかった。
俺は女と同じ高さまで腰を下げ、肩肘を膝に置きながらそっと女の顎を掴み上げさせた。
瞳が絡み合い、この女の放つ独特な光を受けて、事の全てを知っているのだと咄嗟に思った。

「・・・庇ったのか?」

そう呟いた俺から目を逸らし、女は顔を伏せる。
その仕草が何を表しているかくらい、察しはつく。

悟空は俺を庇った。

それもその結果が幽閉という、残酷にも取り返しのつかない物だった。
気づいた時には全てが手遅れな状態なのだと、俺は崩れ落ちそうになる女の腕を掴み、焼かれる喉を掻き毟りたい衝動に駆られた。
女は袖で顔を覆いながら、声を殺し嗚咽し始める。
幽閉と言い渡されれば、もう誰一人として顔をあわせる事は出来ない。
大きな名称にもなるその罰は、長年聞いたことがなかった。
それが、まさかこんな形で聞くことになるとは思いもしなかった。

「悟空は三蔵様が全てだったのです。あってはならぬ思いだと、自分を戒め続けておりました。それでも思いという物は止める事は出来ぬのです」

女の声が、これ程までに強い響きを持って聞こえてくる。

「先日、悟空から手紙が届いた時、持つ手が振るえ、とても開けることは出来ませんでした。それでも自分を奮い立たせ、何とか封を破り、目を通したのです。そこには幽閉されたばかりの悟空がありました。三蔵様に出会った時のこと、もう何も心配することないと、そういった文がつらつらと並んでおりました。覚悟を決めた筈なのに、それでも三蔵様を一目見れたらと、そう最後に漏らしております。三蔵様、私めは心臓を打ち破られるような思いに否まされました。私めでは悟空を救ってやることも、願いを叶えてやる事もで出来ぬと知った時の、あの哀しさ!まだ死んでしまった方が楽なくらいなのです。途方にくれた時、たったひとつだけ、私めにも出来ることが思い浮かび、それが今回、命をかけて願い参った事なのです」

女は早口でそういい切り、苦しそうに切れる息を何とか整える。
そうして俺の指を払うように、また頭を下げ、倣うように指を地に押し付けた。

「お助け下さい。どうか、私めの息子を。悟空を、お救い下さい」

あなた様にしか出来ぬのです。

「どうか、どうか・・・・」

この時以上に、これが夢であればいいと願った事は、きっとない。




「若様、お待ち下さい」

手を伸ばし俺を制そうとする使用人らを押しのけながら、俺はドアを叩く事も無くそれを押し開けた。
父と母が好んで洋式を取り入れた名残のあるそのドアは、勢いまかせに開け放たれたのを知らせるかのように、軋む音をその部屋に響かせた。

「若様?一体そのお顔はどうなされたのです?」

執事の男が、座っていた椅子から立ち上がり、何もかもを知られているのを知らぬ、のんきな顔と声をこちらに向け、心配するかのように眉を顰めて見せた。
俺は靴音を鳴らしながら、ゆっくりと相手へと近づいていく。

「ひとつ、言って置きたい事がある」

執事の目の前で足を止め、視線を向ける。
相手の喉が何かを飲みこんだ。

「物心付いた時から、ずっと、ずっと言いたかった事だ」

斜め越しにある机の上にそっと両手を乗せ、身を乗り出すように相手に顔近づけて、更に耳元へと口を寄せる。完全に執事は怯え表情をその顔に貼り付けていた。
俺は目を細めながら、軽蔑するように睨み上げる。

「玄奘なんて糞食らえだ。俺はこんな物に何も望んじゃいねぇ。父と母を哀れむ位、玄奘はあってはならないもんなんだよ」

相手はひっ、と喉の奥を鳴らしながらも、抵抗するかのように首を振ってみせる。

「若様、何を口にするのです。そんな事、思っていたとしても言ってはなりませんよ。玄奘ほど誇らしい物等あるはずがないのです」

俺は途端に首を締め付けるように相手の胸倉を掴み上げ、机の上に叩き付けた。

「お前、何年この家に使えてんだ?そのくせ何も理解してねぇんだな。お前だろ、孫に幽閉を言い渡したのは」

相手は歯をガタガタと擦り合わせ、目を泳がせながらようやく全てを理解した。
自分がした事が俺にばれた事に戸惑いを隠しきれないのか、相手の額に汗が吹き出る。

「し、しかし、あ奴が言った事です。その罪を償うと、あ奴が言ったのです」
「言ったんじゃねぇ。言わせたんだろ。お前が、あいつに」

そもそもあいつの性格を考えれば、無理なく出来たことだろう。

「そう言うに決まってるだろうが」

違う、違う、違う。

執事の声が何度も同じ言葉を繰り返し、しまいには頭を抱え込んで泣き叫び始めた。
若様を思ってしたのです、玄奘の恥だと、そう思ったのです、とぼやきながら、相手は唸りを上げて机の上で悶え続けている。

「場所は何処だ」

そう言っても、相手は首を横に振るだけで、答えようとはしない。

「何処だ」
「若様の為なのです。聞いてはなりません」
「何処だ」

と俺は繰り返す。
相手はまた同じように首を振り、その顔を両手で覆ってみせる。
開け放たれたドアには、騒ぎを駆けつけた使用人らが集まっていた。
皆顔から血の気が遠ざかり、俺たちから目を逸らす事が出来ずにただ呆然と、震えるように見遣っている。
俺は荒々しく舌を鳴らし、掴み上げていた執事の胸元から手を放した。

放心したように動く事の出来ぬ相手は、出鱈目な呼吸を繰り返し、全てを隠すかのように両手で顔を覆って見せる。
胸糞が悪くなり、俺は一刻も早く部屋から立ち退きたい衝動に駆られ、踵を返して廊下へと向かう。
群がる使用人らはすっと道を開け、慌てふためいてその場を去った。
けれど俺の耳元で、一人の使用人がその騒ぎを利用し、小さな声で呟く。

「若様、場所は私めがお教えいたします」

俺はそう告げた男を見返し、その落胆した表情に目を見開いた。

「いえ、初めからそうするつもりだったのです。私めにはもう耐えられそうにもありません。あの方を見るのは、酷く胸が痛むのです」

手紙を渡したのも、私めで御座います、と男は下唇を噛み締め、俺に救いを漏らした。




── 続く




2006/5.26

三蔵はきっと、静かに自分を憎むような気がします。
michikoさまに愛を込めて。

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