のみ干した真実
春にもかかわらず異常と言えるまでの気温の低下は、今日明日が山場のようにきつく厳しいものとなっていた。 「花も厳しいだろうが、人はもっと耐えしのげん寒さだ」 掴んでいた掌を広げ、風と共に一片はまた窓の外へと舞い戻っていく。 「そう言うのなら、その窓を閉めれば良いでしょう」 と悟浄はおどける声で言った。 「八戒の言う通り」 悟浄が窓を閉める為に腕を伸ばし、縁に指を掛けた時だった。 「あのお方は孫家の者でしたよね?」 八戒の言葉に悟浄が小さく頷いてみせる。 二人の会話は今は鬱陶しいもの以外何者でもなく、俺は苛々としながら前にいる使用人に声を上げ、馬車を門の前で止めるよう仕向けた。 「聞こえんのか」 俺は目を細め、眉間を寄せた。 「なら良い。勝手に何処までも走ってろ。俺は降りる」 学帽を深くかぶり、馬車のドアを開けていると、使用人は悲鳴に似た声を上げた。 「いけません。若様、どうぞこの老いぼれのお話をお聞き下さい。決して降りてはなりません」 俺は馬車から飛び降り、今尚叫び続けている声を遠巻きに聞きながら、門の前で頭を下げ続ける女の傍へと向かった。
辺りには散った桜の花弁があり、女の長い髪を浮き立たせるように周りに集まっている。 「三蔵様でいらっしゃいますでしょうか?」 女の唇は酷く青冷めて、細い身体はその震えを止めることが出来ぬ程に小刻みに揺れ、一体いつからこの場にいたのだろうか。 「三蔵様。私めは命をかけるつもりでこちらに参った身で御座います。どうか、どうか、一人の母である私めのお話を聞いて頂きたいのです」 と女は震えていながらも、はっきりとした口調で言った。 「中には入りとう御座いませぬ」 女は覚悟を決めたように目を鋭い物へと変え、吐き出すように言い放った。 「この屋敷で、悟空は幽閉を言い渡されたのです。もう二度と母には会えますまい、と。そうここで覚悟を決めたのです。悟空が決めた事とは言えども、私めにはそのような場所へ足を踏み入れる事が出来ぬのです」 俺は頭部を殴られたような激しい激痛を覚えた。 「それは誠か」 とやけに冷静に呟く。 「嘘ではないのか」 女は泣く事も出来ぬ程に、その心に悲しみを抱いていた。 「・・・庇ったのか?」 そう呟いた俺から目を逸らし、女は顔を伏せる。 悟空は俺を庇った。 それもその結果が幽閉という、残酷にも取り返しのつかない物だった。 「悟空は三蔵様が全てだったのです。あってはならぬ思いだと、自分を戒め続けておりました。それでも思いという物は止める事は出来ぬのです」 女の声が、これ程までに強い響きを持って聞こえてくる。 「先日、悟空から手紙が届いた時、持つ手が振るえ、とても開けることは出来ませんでした。それでも自分を奮い立たせ、何とか封を破り、目を通したのです。そこには幽閉されたばかりの悟空がありました。三蔵様に出会った時のこと、もう何も心配することないと、そういった文がつらつらと並んでおりました。覚悟を決めた筈なのに、それでも三蔵様を一目見れたらと、そう最後に漏らしております。三蔵様、私めは心臓を打ち破られるような思いに否まされました。私めでは悟空を救ってやることも、願いを叶えてやる事もで出来ぬと知った時の、あの哀しさ!まだ死んでしまった方が楽なくらいなのです。途方にくれた時、たったひとつだけ、私めにも出来ることが思い浮かび、それが今回、命をかけて願い参った事なのです」 女は早口でそういい切り、苦しそうに切れる息を何とか整える。 「お助け下さい。どうか、私めの息子を。悟空を、お救い下さい」 あなた様にしか出来ぬのです。 「どうか、どうか・・・・」 この時以上に、これが夢であればいいと願った事は、きっとない。
「若様、お待ち下さい」 手を伸ばし俺を制そうとする使用人らを押しのけながら、俺はドアを叩く事も無くそれを押し開けた。 「若様?一体そのお顔はどうなされたのです?」 執事の男が、座っていた椅子から立ち上がり、何もかもを知られているのを知らぬ、のんきな顔と声をこちらに向け、心配するかのように眉を顰めて見せた。 「ひとつ、言って置きたい事がある」 執事の目の前で足を止め、視線を向ける。 「物心付いた時から、ずっと、ずっと言いたかった事だ」 斜め越しにある机の上にそっと両手を乗せ、身を乗り出すように相手に顔近づけて、更に耳元へと口を寄せる。完全に執事は怯え表情をその顔に貼り付けていた。 「玄奘なんて糞食らえだ。俺はこんな物に何も望んじゃいねぇ。父と母を哀れむ位、玄奘はあってはならないもんなんだよ」 相手はひっ、と喉の奥を鳴らしながらも、抵抗するかのように首を振ってみせる。 「若様、何を口にするのです。そんな事、思っていたとしても言ってはなりませんよ。玄奘ほど誇らしい物等あるはずがないのです」 俺は途端に首を締め付けるように相手の胸倉を掴み上げ、机の上に叩き付けた。 「お前、何年この家に使えてんだ?そのくせ何も理解してねぇんだな。お前だろ、孫に幽閉を言い渡したのは」 相手は歯をガタガタと擦り合わせ、目を泳がせながらようやく全てを理解した。 「し、しかし、あ奴が言った事です。その罪を償うと、あ奴が言ったのです」 そもそもあいつの性格を考えれば、無理なく出来たことだろう。 「そう言うに決まってるだろうが」 違う、違う、違う。 執事の声が何度も同じ言葉を繰り返し、しまいには頭を抱え込んで泣き叫び始めた。 「場所は何処だ」 そう言っても、相手は首を横に振るだけで、答えようとはしない。 「何処だ」 と俺は繰り返す。 放心したように動く事の出来ぬ相手は、出鱈目な呼吸を繰り返し、全てを隠すかのように両手で顔を覆って見せる。 「若様、場所は私めがお教えいたします」 俺はそう告げた男を見返し、その落胆した表情に目を見開いた。 「いえ、初めからそうするつもりだったのです。私めにはもう耐えられそうにもありません。あの方を見るのは、酷く胸が痛むのです」 手紙を渡したのも、私めで御座います、と男は下唇を噛み締め、俺に救いを漏らした。
── 続く |
2006/5.26
三蔵はきっと、静かに自分を憎むような気がします。
michikoさまに愛を込めて。