心のイタミ、小さなトゲ




星が光り、月の輝く、すっかり闇に覆われた空。




お腹も空いたし、だんだん眠くもなってきた。
真っ白いシーツに寝転んだまま、子供はじっと一点を見つめている。
一瞬の動きすら見逃さぬよう、閉じたままの扉をじっと注視する。
顔を顰めてじっと見つめていたお陰で、眉間にもしわがよってしまった。
なんとなく眉間が痛くなってきたなぁ、と子供は人差し指で撫でてシワを伸ばす。


ピクリ、と彼の何かが反応した。
ガバリ、と寝台から飛び起きる。



あの人の、気配だ!


つまらなそうな部屋の空気が一転、心の底から喜びが浮き立つような雰囲気に変わる。


大好きなものがある。
綺麗で、不機嫌で、短気で、やさしくなんてないけど。
それでもそれでも、大好きな大好きな、


「三蔵っ!おかえりっ」


満面の笑みを浮かべて、扉の先にのぞいた白い法衣に飛びついた。
天地あまねく広がる桃源郷において人々の尊崇と畏敬を集め、仏教界、そして小さくはこの寺院においても比類なき力を持つ最高僧。


―――スパーン


「うるせえよ、バカザル」


白磁の美貌、法衣の襟元にこぼれかかる見目に鮮やかな金糸、冷たくも高雅な美しい光りを宿すその紫暗。
第三十一代唐亜玄奘三蔵法師その人。 

執務を終え、自室に戻ってきてより三秒後にその最高僧三蔵からハリセンでシバかれたのは、その彼の養い子。
異端と呼ばれる大地から生まれた生命。
今より遡ること五百年前の天上においては、斉天大聖との異名を取ったという伝説の大妖怪、孫悟空。


「三蔵、ご飯食べよっ!」


ハリセンのダメージからも即座に立ち直り、保護者の法衣にじゃれ付く。
やわらかな大地色の髪に、その色を以ってしてのみ異端を名乗るにしては、あまりに美しいつぶらな金靖眼。
見た目はきわめて人畜無害の、お子様仕様。(中身も然り)


「先に食っていろといっただろう……」


満面の笑みでせかす子供に、三蔵は大きく息をついて額に手をやった。
その様子を見るに、おそらくは執務の合間に何か軽く口に入れてきたのであろう。


「いいじゃん、大丈夫だって」
やっと帰ってきてくれた。
ずっと、待っていた。
嬉しくて嬉しくて、もっと近くに寄りたくて。


しかし、


「わけのわからんことを言うな、俺は疲れた、寝る。てめえで勝手に食ってろ」


言うなりじゃれ付く悟空の腕を振り解き、法衣を脱ぎ捨て寝台に向かう。
「っ…………じゃあ、俺も寝る」
「ふざけんな、なぜ俺がてめえの腹時計で目覚めねばならん」


とっとと食え、と言い捨てそのままさっさと三蔵は布団にもぐってしまう。
もうこれ以上構ってはもらえないと悟った悟空は、しょぼん、とうなだれてテーブルの上の夕食に向かった。


つまらない


箸を握って一口二口、突付いてはみたが、結局美味しいとは感じられず、そのまま箸を置いてしまう。
ここ数ヶ月、ずっとそんな調子だった。
なんだか近頃身体が軽くなったように感じるのは、気のせいではないと思う。



食べ終えた夕食は、自分で片付ける。
口をつけなかった食事は、もったいないけれど残飯入れへ。
ボタリボタリと皿からバケツに落ちていく食べ物は、とても悲しそうに見える。
食べ物を残すなんてコト、もちろん本意ではないけれど、本当に入らないのだからしかたない。



食べかすのついた皿を、水の張られたタライに入れる。
ゆらゆらと水底に沈んでいく食器を見ながら、悟空はらしくもなく、深くため息をついた。


また今日も、ちっとも話できなかったな…


部屋に戻ってきた悟空は、すでに寝入っているらしい三蔵の背中を見やった。



三蔵が素っ気ないだなんて、いつものことだけれど……。


でも……でも、三蔵は『アノ人』にだけはちゃんと話をする………。


思い出せば胸の辺りが、チクンとする。
夜具の隙間から覗く金の髪に触れたいと思うけれど、実行に移すこともできなくて、悟空は夜具を引きかぶった。


「痛い………な」


出所のわからない痛みを引き起こす欠陥品の胸に、悟空はそっと手を当てた。






++++













コンコン








三蔵が定時までに目覚めないとやって来る僧がいる。
悟空の言う、『アノ人』の正体。
今もまた、彼が外にいるのだろう。
最近になって寺にやってきた、年のころは二十の後半ぐらいの、いくらか若い僧だった。
もともとは別の三蔵付きの僧がいたのだが、体調を壊したとかで今は彼が三蔵の側係を務めている。
近頃では、三蔵の秘書のような役割を担っている僧だが、悟空は彼と口など一度も利いたことがない。
悟空から彼に話すことなど何もなかったし、なにより避けていたのだから当然だ。


彼は、傍から見ていても、有能な僧だった。
三蔵が小さく動けばお茶が出てくるし、三蔵が少し手を動かすだけですぐに出来上がった書類を運んでいく。
そして彼の行動の全ては、三蔵の意にかなうものであるらしく、彼が三蔵からの叱責を受ける場面に行き当たったことは一度も無い。
よく気がつき人の機微にも敏感な彼を、三蔵も重宝しているように見えた。



悟空はといえば、お茶を運べば零すし、弊害として大事な書類をダメにしてしまった事も数知れない。
三蔵に怒鳴られた回数なんてもう忘れてしまった。
どう控えめに考えても、迷惑と思われこそすれ、役に立つなどとは微塵も思われていないこと請け合いだった。
そう思うと、やはり落ち込んで悲しくなる。
だが、泣けばうざいと言われることは目に見えているので、浮かびそうになる涙をあわてて振り払う。


なんで、あの人にはできるのに、俺にはできないんだろう……


この胸の奥でもやもやする気持ちが何なのか、悟空にはよくわからない。


隣の寝台の三蔵がまだ目覚めていないことを知ると、悟空はもぞもぞと起き上り冷たい床に足をつけ、三蔵の肩をそっと揺すった。
いつもなら、小さな物音がしただけでもすっぱりと目を覚ます三蔵なのに、今日はなかなか目覚めない。
ごろり、と寝返りを打った三蔵の肩をなおも揺する。


「三蔵、朝だって………っ!」


ふいに伸びてきた三蔵の腕に悟空は腰を絡め取られた。


「あ、う?さ、さんぞ?」


自分の腰にがっちりと絡みついた三蔵の腕、悟空のお腹辺りには彼の頭が埋められている。
あまりのことにうろたえてそのまま声も立てられずにいると、急にくぐもった声が聞こえてきた。


「痩せたな………」


「ふえ?」

 
あわてていた悟空と、霞がかったような三蔵の声が重なり、悟空の耳に三蔵の言葉は届かなかった。
絡めていた腕を解き、三蔵はかぶっていた夜具を剥ぎ起き上がると、扉を開けいつものあの僧に小さくなにごとかを告げた。
いつものことながら、三蔵とあの僧が話していることはうまく聞き取れない。
たまには何か仕草で会話しているようなところすら見つける。


三蔵と僧が自分にわからないように話をするにつけて、何か嫌な感情が悟空の中には広がっていく。


自分に構ってくれないのを我慢するのだって今までは平気だった。
三蔵が、他の僧にも冷たいのがわかっていたから。


だが、あの僧に限っては必ず近寄っていって何か話をする。


自分だって、側に寄りたいのに。
話をしたいのに。





++++






三蔵は、俺なんかと一緒にいるより……あの人と一緒の方がいいんだ。


「そうだよね、おれ、何もできないもんな……」
三蔵の仕事を邪魔するわけにも行かず、結局今日も執務室の見える木の上で、悟空はぶらぶらと足を揺らす。
「どうしたら三蔵の役に立てるかなぁ」


ピイピイ―――

ポツリともらした悟空の言葉に、最近友達になった小鳥の、孵ったばかりのヒナが返事をする。
いつもならキレイな青い羽の親鳥がかわるがわるヒナの世話をしているのだが、今日は出かけて居ないらしい。
慎ましやかな巣の中で、日に日に育っていく様子を見るのが好きだ。
三つあった卵は、一つしか孵らなかった。
たった一羽孵ったヒナを、親鳥は、それはそれは大切に世話をしている。
ここ数日で、目も開いてよたよたと歩き回るようになった。
ふわふわとした綿毛のような羽はまだ灰色だけれど、きっともうすぐあの親鳥のようなつややかな青い羽に生え変わるのだろう。


ピイピイ、つぶらな瞳で悟空を見つめては鳴くヒナから視線をそらす。



今日は、三蔵と話ができるといいなぁ………


太い幹をいっぱいに伸ばして、太陽の光を受ける木。
ザワザワ、緑いっぱいの葉は風と戯れて音を立てる。
枝と葉の隙間から見える、澄んだ青い空には美味しそうな綿雲。


美しい自然の音に心を乗せ、悟空はゆっくりと、瞳を閉じた。










ピイッ、ピイィッ――




常と違う調子のヒナの声に、ゆったりとしたまどろみのふちにあった悟空の意識が覚醒する。


生えそろわない羽を必死にばたつかせ、ヒナはもがいている。
巣の外へ出ようとでもしたのだろうか。
小さな爪が巣の縁のやわらかい草に引っかかって、巣の外に半ば飛び出した状態で宙ぶらりんになっている。
このままでは草が切れて落ちてしまう。



「あぶな………っ!」


あわてて手を伸ばしたその先にやわらかな羽毛が触れた。
その瞬間、ズルリ、とすべる感覚。


くるりと反転した視界の端に、美しく輝く太陽を見た。


―――キレイ。


心なしか遠ざかっていく金色の光。
その先しばらくの記憶は無い。





































ふわり、と意識が浮上する。
白くもやがかっていた視界が、常の彩りに塗り替えられていく。



「さんぞ………?」


「やっと、起きやがったか」


キレイな金色。
目の前に三蔵が居た。
その彼は、大きく息をついて、忌々しそうにそう云うとすぐに悟空のそばから離れて行ってしまう。

「俺………」

「木から落ちた。余計な手間掛けさせんじゃねえよ」

「……ごめんなさい」
意識が完全に覚醒するとともに、ずきずきと身体が痛む。
見ればあちらこちらに白い包帯が巻いてあった。

「一日寝てろ。サルだからな、たいした怪我はしてねえよ」
顔をしかめた悟空に、ぞんざいながらそんな声がかかった。


「ああっ!」


ふいにあがった悟空の声に、不機嫌至極な三蔵が振り返る。

「……なんだ」
「あ、あの」

………ヒナは
そう聞く前に、三蔵は云った。
「てめえが後生大事に握ってた鳥ならな、祐賢のヤツが巣に戻した。てめえの大層な包帯を巻いたのもあいつだ。あとで礼でも言っとけ」
「ゆう、けん?」
「ああ?いつも来るだろうが」
云われて、たぶんあの僧のことなのだと推測をつけた。
同時に、気分が沈む。


「シけた面してんじゃねえよ、怪我はたいしたことねえって云ってるだろうが」


三蔵の手が伸ばされ、やわらかい髪をくしゃりと撫でた。
「うん、へーき。だいじょーぶ」
幸せそうな笑顔を見せる子供に、三蔵は詰めていた息を一瞬緩める。

「仕事に戻る。祐賢を残しておくからな、なんかあったらあいつに言え」

一瞬の悟空の表情の強張りを三蔵は見逃さなかったが、その場では何も言わず静かにドアを閉じた。


なんか、ヤだ。



あとで思えば、自分は彼が自分のそばにいる間中、不機嫌な顔をしていただろうと思う。

彼は、やさしい人だった。
近くで見たことなど無かったから、祐賢という僧がいつもどんな顔をしているのかも知らなかった。
穏やかな表情で、彼は始終悟空に優しくしてくれた。
喉が乾いたと思えばすぐにそばの水差しからコップに注いで手渡してくれた。
お腹が空いたと腹部に手を当てれば、いつの間にか姿を消していた彼がどこから持ち出してきたのか、数個の月餅を差し出してくれた。

よく気のつく人だと思った。
三蔵が、重宝がるのも当然だと思った。
もっとイヤな人だったらよかったのに、と思った。
浮かびそうになる涙を必死に噛み殺す。


泣いちゃ、ダメだ。


受け取ろうとしない悟空の手に無理やりそれらを押し付け、彼は微笑んでそのまま部屋を出ていった。



カタン


部屋の中に、一人取り残される。
嫌な、気持ちだった。
彼は、悟ってしまったのではないか?

自分が、彼と同じ空間に居たくないと思っていることに。


彼は、どこに行ってしまったのだろう。
三蔵のところに戻ったのだろうか。
三蔵に自分の態度の悪さを報告するだろうか。
三蔵はそれを聞いてどう思うだろう。
嫌われてしまうだろうか。
もう要らないといわれてしまうだろうか。
どうしたらいいのだろう。





お茶も淹れられない。
手伝いもできない。
役に立たない。
たくさん迷惑をかけてるの、わかってる。


だけど、だけど………




俺から、三蔵をとらないで




膝の上に落ちた月餅を眺めながら、悟空は清潔なシーツを精一杯握り締めた。





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