鬱陶しいことこの上ない。
いつになく静かな猿も。
いつもに増してくだらねえ仕事ばかりを回してくる能無しの僧どもも。
降り続く、雨も。
雨ニ打タレ、其ヲ思フ。
サアアァァァァ―――――
三日前から降り出した雨はまだやまない。
時折、庇すら無視して激しく振り込む雨。
「早く止めばいいのに」
晴れない空を恨めしげに見つめ、窓に水滴が当たっては、直線、あるいは曲線の軌跡を描いて落ちていく様を、少し伸びた前髪を揺らしながら目で追う。
目下、この少年の保護者たる玄奘三蔵法師は、大いに不機嫌であるらしかった。
彼に上機嫌なときなどあった試しはないが、それでも機嫌がよければ彼のまとう剣呑な雰囲気も丸くなる。
今も、この執務室で筆を握って書類に向かってはいるものの、三蔵の左右に山と詰まれた書類は遅々として減る気配がない。
第一自分がこの部屋に居るのを咎めだてしない。
何かがおかしい。
馬鹿だサルだと日々三蔵に罵倒されこそすれ、もともと人の心の機微には聡い子供。
そのくらいのことは意図せずともわかった。
水滴を眺めるのにもいささか飽きてきた悟空は、気づかれないように、そおっと振り返り、筆を持ったまま固まっている彼の様子を窺う。
常ならば、そろそろ三蔵のハリセンが落ちてきてもいい頃なのだ。
『視線が煩い』
そういわれて殴られたことも数知れない。
実際、昨日は殴られた。
自分が見ているのにも気づいていないのだろうか?
そう考えると、チクン、と胸の奥が小さく痛む。
ついには、窓際を離れ、三蔵の書き物机の向かい側に立つ。
それでも彼は何の反応も示さない。
だんだん、胸の奥がシクシクしてきた。
「さんぞ?」
膝を折り、机の端に指を掛け、あごを机の上に乗せ、二つ並んだ書類の山の合間から美しい保護者の顔を見上げる。
その声に触発されたかのように、三蔵の筆が再び流麗な線を描き出す。
しかし、自分を見てはくれない。
一抹の寂しさが悟空の胸をよぎった。
「さんぞっ!三蔵ってば」
自分でも煩いほどの声を上げる。
そうすることで、彼の意識を自分の元に引き戻したかった。
三蔵がなにを考えているのかはわからない。
ただ、そのことで自分が彼の視界から抹消されてしまうのは耐えられなかった。
遠くばっかり、見てちゃ、ヤだ。
「うるせえよ、サル」
やっと、言葉が返ってくる。
顔を上げることなく、彼は筆をおくと椅子を引き、袂から愛飲のタバコを取り出す。
休憩することにしたらしい彼の足許に膝でにじり寄り、悟空は三蔵の腿の上に腕をもたれさせ、頬をやわらかく押し付けた。
常よりも低い気温に、多少冷んやりとした法衣の上から、子供の体温がじんわりと染みとおってくる。
「鬱陶しい、離れろ」
「ヤダ」
「殴られてえのか?」
「………うん、そーかも」
返ってきた返事に、三蔵は狼狽した。
数度吸ったきりのタバコを、忌々しそうに吸殻の山と詰まれた灰皿に押し込むと、迷惑千番にも自分の腿に頬を押し付けている、いつになく静かな子供の脇に手を差し入れ、膝の上に抱え上げた。
「拾い食いでもしたか、それとも腹でも痛えか、どっちだ」
莫迦なのは拾ったときからだが、こうまで展開の読めない言動を続けられるとだんだん苛々してくる。
「三蔵が変なのはヤダ」
トントンとつづられる脈絡のない言葉に、次第に三蔵の不機嫌も増していく。
しかし彼にしては根気強く、それを突き詰めていった。
「変なのはてめえだ」
「ううん、違う。さんぞ、変だよ、雨が降ってから、ずうっと」
「………」
「おこらないし、俺のことたたかないし………ずうっと遠いトコばっかり見てる。俺、そんなの、ヤダ」
澄んだ金靖眼は伏せられて、その顔色をうかがい知ることはできない。
精一杯の悟空の言葉にさえ、三蔵の紫暗は深い色に染め上げられたまま何の感慨も浮かべてはいなかった。
だが、まだそのときまでは三蔵の心中には余裕があったのだ。
不安定になりつつある小猿を抱き上げて気遣ってやれるほどには。
++++
雨はそれから後も降り続いた。
四日、五日、六日目に入った頃から、三蔵はいよいよ陰鬱な重苦しさに身体を押しつぶされていくような不快な気分を味わっていた。
近年まれに見る集中豪雨は、高台にある寺院こそ水没させないが、長い石段の下に広がる長安の街の有様ときたらひどいものだった。
緩んだ地盤は脆くも崩れ温かな家庭を押し流し、決壊した堤を超えた濁流が町中を蹂躙した。
寄る辺を失った人々は、ひと時の休息を求めて高台の寺院へと集った。
老婆は数珠を摺り合わせて御仏の慈悲を乞い、命からがら逃げ出してきたと言う若い夫婦はこれからの先行きに顔を曇らせた。
飢えをしのぐための炊き出しも寺院総出で行われ、やまない雨に打たれながら必死の祈りを捧げる僧侶が群れを成した。
だが、次第に長安中を巻き込みつつある被害は、人のみに収まらなかったのだ。
「三蔵様っ!!………」
ガウンッ
雨で冷えた空気の中、床に開いた小さな穴からひと筋の硝煙が立ち上った。
「………殺されてぇか」
低く地を這うような最高僧の声。
常ならば、まだ若い僧侶はここですぐに去ったろう。
だが、事態は急を告げていた。
「お願いでございます。三蔵様っ、妖怪が寺院に入り込んでっ…………人々をその手にっ……法力僧たちだけではとても………どうぞお力を」
三蔵の殺気を伴う声にさえも引くことを許されぬほど、事態は緊迫していた。
大洪水は、人々ばかりでなく住む場、食料すらなくした妖怪たちを殺戮へと駆り立てたのだ。
哀願するような僧侶の言葉に、いち早く反応したのは部屋の隅でうずくまっていた悟空だった。
「どこ?」
「ああ………寺院の正門辺りだ………だが、おいっ」
「俺が行く。だから、三蔵はそっとしておいて」
僧侶の言葉を聞くと同時に、悟空は駆け出した。
タンと、廊下を蹴って庭に降り立つ。
雨でぬかるんだ道がバシャリと音を立てた。
緩んだ土が、ここ数日の雨の凄まじさを物語っている。
裏庭を駆け抜ける。
寺院正面の玉砂利を踏みしめた瞬間、むせ返るような血の臭気に悟空は顔をしかめた。
眼に映った現実は、ことの重大さを誰の口からも聞くことなく悟空の脳裏に正確に伝えた。
妖怪に引き裂かれた傷を抑えてうめくもの、今まさに妖怪の牙の餌食になろうとするもの。
じき子供が生まれるのだと、うれしげに悟空に話してくれた可愛らしい女性は、物言わぬ骸と成り果てた夫の千切れた頭を抱きしめて慟哭しながら笑っていた。
「このっ、やめろぉっ!!」
罪のない人々に血も涙もない殺戮を加える妖怪たちに向け、わなわなと震える手を押し隠し、如意棒を振り上げ地を蹴った。
++++
雨音がすこし弱くなった。
いつのまにやら飛び出していったサルはまだ帰ってこない。
何をしに行ったろう、もうじき夕飯の時間だと言うのに。
ふっと意識が現へと引き戻された。
「おい、サル………」
呼べど応える声はない。この近辺にはいないようだ。
三蔵は席を立った。
途端に鉛を喉の奥にこめられたような不快な感触が三蔵の身体をさいなむ。
部屋はいつの間にかすっかり冷え切ってきっている。どこかやわらかなあたたかさだけは残っていると思っていたのに。
三蔵は小さく舌打ちした。
いまひたぶりにあの子供に触れたかった。触れ、身体を開き、確かにそこにいることを確かめたい。でなければ雨に取り殺されてしまいそうだ。
部屋を出て、どこへいくとも無しに廊下を歩いた。
途中であった若い僧侶に、サルを見たかと尋ねれば、正門におりますと、震えた声が返った。
普段行かぬ場所に何の用かと三蔵はいぶかしんだが、教えられたまま正門への道程を歩んだ。
サアアァァァァ―――――
雨音がまた、強くなった。
正門へ経一歩近づくごとに気味の悪い瘴気が身にまとわりついてくるような心地の悪さが襲う。
雨に打たれる三蔵は血の気のない蝋人形のように、歩みを進めるごとに表情を失っていった。ただゆっくりと足だけが小さな影に引き寄せられるように動いている。
凄惨な血の海にたたずむ者。
大地色の髪は濡れそぼち、寂しげに背に張り付いている。
深い霧に包まれるように、光の届かぬ深海に沈められるように、漆黒の闇が三蔵の心を黒く塗りつぶしていく。
むごたらしい屍になど眼もくれず、三蔵の手はただ悟空のみを求めて彷徨った。
「ご、くう」
三蔵の手が触れる間際、小さく肩を震わせながら、振り返った金の瞳。
守れなかったのだ、と。
静かに幾筋もの涙を流しながら一言だけそういって、降り注ぐ雨の下、累々と連なるかつて人であったものを悟空は見つめ続けた。
悟空に伸ばされていた手は腱を切られたかのようにだらり、と力なく空を切った。
黒く塗りつぶされた深い淵から、一滴。また一滴と赤い雫が湧き上がってくる。
『………守れなかった』
どろどろと絡みつくような不快な感触。
幻影のように三蔵の脳裏によぎる幼い日の記憶。
一瞬、身体の力が抜け落ちる。
ガクリ、と膝は折れ、重力に従うままに両の手で地面に触れれば、どす黒い血の塊が指にまとわりついた。
遠いあの日。
降り続く雨。
血に染まった部屋。
赤く染まった手。
『守れなかった』そういったのは誰だ?
手のひらにべっとりと張り付いた血の塊の上に雨が降り注ぐ。
激しさを増した雨が、少しずつ血糊を押し流していく。
薄気味悪い赤い川が三蔵の腕を伝い始めた。
視線を上げれば、微動だにせずたたずむ背がある。
目の前が白く発光する。忌まわしい記憶がフラッシュバックする。
三蔵は歩き始めていた。
濡れて張り付いた金の髪が煩わしい。ぬかるみに足を取られて何度も膝をついた。
どこへ行くのか、何をしようとしているのか、何もわからなかった。
++++
どれほど雨の中にたたずんでいたろうか。
いつの間にか周りには幾つものかがり火が焚かれているようだった。常ならばまだ明るい時間だろうに、曇天は常よりも早く空の光量を根こそぎ奪いつくしていた。
目の前に広がっていた無残な屍はその数を減らしていた。
せわしなく動き回る僧たちが、こみ上げる吐き気を抑えながら片付けている。
御仏の慈悲を、と再び始められた読経の声が遠くから響き始めた。
悟空はヌルついた感触の拭えない両の手に視線を落とした。殺めた妖怪の返り血。泣き叫ぶ女の人を助け上げたときの血。どの血がついているのかはわからない。悟空にとってはどれも同じ血液にしか見えなかった。
まだ耳の側で誰かが泣くような声が聞こえる気がする。耳鳴りだろうか。
「悟空よ、お前はよくやった。お前がいなければ、これだけの被害では到底すまなかっただろうよ。何も気に病むことはない」
そんな自らを戒めるように雨の中に立ち続ける悟空の背に、老僧のやわらかい声がかかった。
「………」
「天災のもたらした不運だったのだよ」
「………」
「さぁ、もう中にお入り。お湯殿に浸かって汚れを落としなさい。それが済んだのなら三蔵様のお側にお行き。雨のお嫌いなあの方のこと、お前を待っておいでだろう」
微動だにしなかった悟空が、『三蔵』その言葉にはじかれたように振り返った。
「三蔵?」
「ああ、そうだよ。分かるね?」
ぼんやりと遠くを眺めているようだった悟空にふっと表情が戻る。
そう、雨を嫌うあの人の下へ早く帰らないといけない。
それだけが、彫像のように凍り付いていた悟空の身体を融かした。
色を取り戻し始めた悟空の背に軽く手を添え、寺の中に入るように促した。
小さく頷き、重い足取りが不規則なリズムを刻む。そんな中、悟空は思った。
もう終わった、終わったんだ。
なのに………胸の奥にあるこの重い固まりはなんだろう。
イヤな、予感?
ぐっと胸の辺りをつかむ。ただ痛みの正体は何もわからない。
湯煙に身体を包まれても、怪我とも返り血とも知れぬ血糊を洗い流しても、どんよりとした重石が悟空の頭を押さえつけていた。
湯殿を出れば、そこにはすでに新しい着るものが用意されていた。血にまみれたままの服はどこかに持っていかれたようだ。悟空としても、できることなら視界に入れたくはなかったので、これはありがたかった。
「これ………」
どうやら、寺の小坊主が着る僧衣だ。
悟空の服は全て三像の私室にある。
僧侶たちも、機嫌の悪い三蔵の側によるのは憚られたのだろう。
どこかおぼつかない手つきで、僧衣を着る。
三蔵が法衣を着るのは毎日のように見ているし、睦みごとの最中に三蔵の法衣を脱がせたこともある。
なんとなくそれらしく着る。上手くは着られなかったが、三蔵の部屋に戻るまでのつなぎだ。
支度を終えると、悟空はまっすぐに三蔵の部屋へ向かった。
雨足は少し弱まったようだが、止んではいない。
部屋の扉の前で、深呼吸を一つ。
なんと思われようが、明るく振舞いたい。煩いといわれてもいい、罵られてもいい。
三蔵が少しでも雨から意識をそらしてくれるなら、悟空はそれでよかった。
「さんぞ〜っ!」
勢いよく開いたドアの先の空気は冷たかった。
「………れ?」
人の気配がない。
慌てて部屋の扉という扉を開け始める。
「三蔵?……三蔵っ!?」
それが無駄であることはわかっていた。この部屋に三蔵はいない。
うろたえて気を張り巡らせれば、寺院の中にすら三蔵の存在を感じられないことに気づく。
悟空は金瞳を見開いた。
どうして気づかなかったろう。
三蔵の気配がココから消えていることに。
「さんぞっ、………さんぞぉっ!」
こんな雨の中、しかも外は暗闇に包まれて始めているのに。
胸の中をぞわぞわと虫に這いずり回られているような感触が悟空の身体を締め付けた。
「さんぞぉっ!!」
雨足がまた強くなった。
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