雨ニ打タレ、其ヲ思フ。
ポタリポタリ、と伸びた金の前髪から水滴が滴る。
どこをどう歩いたかは忘れた。
今、三蔵はぐったりと木に背を凭せ掛けていた。
遠い空はどこまでも重苦しい灰色一色に染められている。
根元に力なく座り込んだあと、身じろぎもせずに雲の行方を追い続けていれば、やがてはそれさえも更に重い闇に塗りつぶされた。
春先とはいえ冷たい雨に打たれ続けた身体は指の先までが冷え切っている。
小さくかじかむ手が、僅かに視界に入った。冷たいという感覚はこの身体に生きているのだろうか。
だが、そんな疑問は三蔵の脳裏には浮かばなかった。ただ幾度となく繰り返される赤い光景だけが三蔵の頭を灼く。じりじりと頭の奥に焼きゴテを押し当てられるように。
みろ、大事なものさえ自分は守ることができなかったではないか。
結局は自分も、弱者に過ぎない。
こんなどこだかわからない場所まで歩いてきて、いったい自分は何をしようというのか。
逃げている。
こんな雨にすらかき乱される。
言葉にならない思考の洪水が三蔵の意識を渦中に飲み込んでいった。
そのとき、ふと、脳裏にある光景が浮かんだ。
金色の瞳から、幾筋もの涙があふれ。
守れなかった者の骸を見つめながら声も立てずに泣いていた姿。
あんな泣き方は似合わない。
もしあの時、伸ばした手を下ろさずにいたら……なにか、違ったかもしれない。
三蔵はゆっくりと瞳を閉じた。
遠くから聞こえるあの声が、自分の望む者の声であったらいいとただそれだけを願った。
―――さんぞぉ、三蔵っ!
遠く聞こえる声は、自分だけが知っている幼くあたたかな光。
次に三蔵が眼を覚ましたのは、小さなあばら家の中だった。
ぱちぱちと火の爆ぜる音が聞こえる。
目の前の霞がかった映像の向こうから、すすり泣いている声がした。
おぼろげな輪郭を辿ると、それは……
「………ご、くう?」
「っ!?、さんぞうっ」
うろたえた声とは裏腹な慎重な動作。ゆっくりと三蔵に近づき、こわごわと覗き込んでくる。
濡れた服は子供が脱がしてしまったらしい、素肌にはかび臭い毛布が巻きつけてあった。
麻紐にかけて干された自分の汚れた法衣やアンダーウェア、その横に子供の服が眼に入る。バカザルにしては気が利いている。
みっともなく涙だらけの顔を丸めたコブシでこする様が眼に入った。
真っ赤に腫れた金瞳をなおもこすろうとする。それを見咎め、動きの鈍い手を伸ばして押しとどめれば、恐る恐ると三蔵の手を握り込み、腰を浮かしそっと三蔵の胸に頬を押し当てる。
「なにしてる」
「三蔵?」
「死んでねぇよ、サル」
「………うん」
胸に触れた子供の髪は湿って冷たかった。
雨はまだ続いているらしい。
くしゃりと濡れた髪をかきなでてやれば、ますます強く胸元にすがり付いて、子供は声を上げて泣き続けた。
一昼夜、探し続けたのだという。
三蔵がいないとうろたえ慌て、すぐさま雨の中に飛び込もうとする悟空を老僧がたしなめ、さし当たって必要そうな着替えや毛布、タオルやちょっとした食料などの装備をそろえて持たせてくれたこと。無残な町の様子、森の中の倒れかけた木々を見るにつけて胸がつぶれる思いをしたこと。そうしてやっと見つけた三蔵は、氷のように冷たかったのだと。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、悟空は切々と語り続けた。
「怖かった」
見つけた三蔵のあまりの冷たさに、死んでしまったのかと思った。
「遠くに、行っちゃうような気がした……」
かすれた声で言いながら、規則正しい鼓動を刻む胸から悟空はようやく耳を離す。
その途端だった。
胸の一部を抉り取られるような、ひどく不快な喪失感が三蔵の胸に宿ったのは。
粗末な寝台から三蔵は跳ね起きて悟空を引き寄せる。空気にさらされた上半身が隙間なく重なれば、暗闇に小さな灯火を得たような、そんなえも知れぬ安堵感が身を覆う。
忌まわしい記憶さえ、その存在に押し流されていくような不思議な感覚だった。
「俺、怖かったんだ」
「………」
「どこ探しても三蔵いないし」
「………」
「だから………れ、三蔵見つけたら絶対、絶対殴ってやろうって」
「………だったら泣いてねぇでとっとと殴れ」
三蔵の身体にしがみつくように抱きつく細い身体を三蔵はできる限りの力で抱いた。
あらわな首筋に噛み付くように唇を寄せれば怯えるように身をすくめる。
三蔵の身体はそれだけでなんともいえない熱い感覚に打ち震えた。
「さんぞぉ………」
「殴らねぇなら、抱く」
掠れた声とともに伸ばされた手を悟空は拒まなかった。
瞬く間にその手に衣服を剥ぎ取られ、その唇で舌で体中を愛される。
何度も激しい口づけを交わし、深い情動のままに互いの身体を求め合った。
「あっ………ぅん、っく……ああっ」
雨の音も何もかも、もう聞こえない。
聞こえるのはただただお互いを求める熱い息遣いばかり。
熱く張り詰めた楔は何度も悟空を奥深く貫き高みへと連れ去り、とろけるような快楽を与え続ける。
金の瞳を零れ落ちる涙が、いやいやと首を振るたびに美しく散った。
「さ…んぞぉ…もぉ…だ、メ………」
許しを求めても身体を食い破られるほど激しく求められ、それでも幼い身体は三蔵に愛される悦びに震えた。
容赦のない深すぎる快楽に翻弄されながらも、決して離すものかと互いの身体を抱き合う。
注ぎ込まれる熱に浮かされたように紡ぐ言葉は、三蔵に唇に吸い取られて宙に浮いた。
暖を取るための火に照らされたあばら家の中に、つがいあう二人の姿が影となって映し出される。
艶やかさを帯びた、息も絶え絶えな喘ぎと繋がった箇所から響く猥らな音。
夜が白むまで続く行為は、甘い充足感と一体感をもたらした。
そうして幾度めかの絶頂を極めたのち、疲れ切った身体は泥のように深い眠りへと落ちていった。
++++
「雨、止んでる」
粗末なガラス窓の向こうからは確かに日の光がのぞいていた。
三蔵の腕の中で目覚めた悟空は先に起きて自分を見下ろしていたらしい三蔵の胸にトン、と茶色い頭を押し付ける。
「………ああ」
「もう、平気?」
「………なにがだ」
ふい、と視線をそらす三蔵に悟空は花のほころぶような微笑を向ける。
「よかった、三蔵」
いつもながらの三蔵の様子に悟空はいくらか安堵したようだった。
拒まれないのをいいことに三蔵の胸にそっと頬を摺り寄せる。
「………」
「でも、大変だよ。帰ったら」
「………なぜだ」
「だって、三蔵二日も寺に戻ってないじゃん」
三蔵は顔をしかめた。
帰れば、僧侶たちが大挙して押しかけてくるのだろう。
鬱陶しい。
しばしの思案の後に三蔵は答えた。
「まだ戻らん」
「へ?なんで」
きょとん、とした金瞳が見上げてきた。
「サルを背負って帰るなんてゴメンだ」
すっ、と三蔵の指先が悟空の腰を辿った。
激しかった昨夜の営みを揶揄するような三蔵の笑みに、瞬時に頬は桃色に染まった。
「っ…………さ、さんぞぉ」
「別に俺ひとり帰っても構わんが?」
「………やだ」
コン、と軽く頭の上に落ちてきた三蔵の手を捕まえ自分の頬に押し当てる。
三蔵は苦笑にも似た微笑を浮かべ、小さな身体を引き寄せた。
雨は上がった。
木々の梢から朝日に輝く雫が連なって滴り落ちる。
三蔵の短い家出はもう二日ほど続いたそうである。
END