忘れないよ、きっと…。

この綺麗な景色をきっと、忘れない。



scenery
強制的に観世音菩薩によって下界に二人して落とされた。

淡い光に包まれて降り立った下界は、ちょうど青葉の頃。
抜けるような青空と白い綿雲。
天界よりも温かく力強い陽差し。

地上に降り立った二人にまとわりつくように風が、金糸を揺らし、大地色の髪を撫でた。

悟空は傍らに立つ金蝉を見上げてふわりと、笑った。
繋いだ手に少しだけ力を入れて。
それに気が付いた金蝉が見下ろし、片眉を上げた。

薫る世界の香り。
むせかえるような生命の息吹と鼓動。
全てが躍動していた。

金蝉は悟空の嬉しそうな顔から視線を上げて、今、自分が立っている地上の姿に目をやった。
天界とは違う命の謳歌に、金蝉は心地よさを感じた。
それが、自分の養い子に感じる心地よさと同じだと。

大地が生んだ愛し子。
天界の怠惰な生ぬるい世界よりもこの命に溢れた世界の方が相応しいと納得して。
また、聴こえる大地の声に金蝉は母の嘆きを知る。
我が子を還せとかいなを広げる大地に子供を委ねたいという思いを抱く。
そして、金蝉はこのままこの子供をここに置いて帰るべきなのだと理解する。
だが、ここに手放したくない自分がいて。
この小さな太陽のいない生活など考えられなくて。



我が侭を許せ…



心の内で大地に詫びて、金蝉は悟空に声を掛けた。

「で、これから何をするんだ?」

















擦れ違う人が皆振り返る。
流れ落ちる絹の金糸を無造作に束ね、白磁の肌に薄紅の唇。
青い影を落とす睫毛に煙る紫暗の宝石は紫水晶。
しなやかな長身の肢体に、良く通る耳に心地よい声。
微かに綻ぶ口元の微笑みは、傍らの幼子に向けられて。

繊手を握る幼子もまた人の目を惹いた。
風に舞う柔らかな大地の髪と桜色の肌、まろい頬。
華の容に咲くは黄金の大輪。
繋ぐ手を握り締めて、見上げる笑顔は太陽の華を連想させた。

「なあ、金蝉、金蝉、あれ」

指さす先に目をやればショーウィンドゥの硝子の向こうで小さなクマの人形達が楽器を演奏しているのが見えた。
悟空は金蝉の手を引っ張って、その店先に近づくと、ガラスに張りつくようにして中を覗いた。

「なあ、なあ、これ何て言うんだ?」
「オルゴール」
「オルゴール…か…」

小さな値札に書かれた名前を読んで答える金蝉に悟空は不思議そうに小首を傾げて熱心に見入る。
その姿に金蝉は苦笑を浮かべ、悟空の髪を掻き混ぜた。

「…う、ん、何だよ?」

邪魔するなと軽く睨みながら悟空が金蝉を振り返る。

「中へ入ってみるか?」
「いいの?」
「ああ、別に何をするって決めてないからな」
「うん」

嬉しそうに頷く悟空を促して二人はその店に入った。




中はまるでおもちゃ箱のようだった。
天井からぶら下がる操り人形や飛行機の模型。
棚に並ぶ人形は種類を数えるのも嫌になるほどの数が並び、プラモデルの箱や見たこともない種類のおもちゃが所狭しと置かれていた。
その一角に様々なオルゴールが並んでいた。
店内には、ショーウィンドゥで動いているクマ達が演奏するオルゴールの音が聞こえていた。

「凄い…」
「あ、ああ…」

戸口で二人立ちすくんで動けなくなって居るところへ声が掛けられた。

「いらっしゃいませ」

声の方を見れば、穏やかな微笑みを浮かべた老爺が店の奥から出てきた所だった。
その老爺の声で呪縛が解けたように、二人は店の中へと足を踏み出した。

「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
「いや…」
「そうですか、ではごゆるりと見てやってくださいませ。お気に召したものが見つかりましたら、声を掛けて頂ければよいですので」
「わかった」

金蝉に丁寧に礼をして、老爺は店の奥へ戻っていった。

「な、なあ、金蝉」
「何だ?」

くいくいっと金蝉のシャツを引っ張り、悟空は小さな陶器の入れ物を指さした。
それは白い陶磁器に紫の小花が染め付けられ、金彩で縁取られていた。

「これか?」
「うん…」

蓋を開ければ耳に馴染む音楽がぽろりぽろりと流れた。

「気に入ったのか?」
「…ダメ?」
「いや、構わん」
「ありがと、金蝉」

悟空は金蝉の腕に抱きつき、花ほころぶ笑顔を浮かべた。
金蝉はそんな悟空の頭を軽く撫で、店の奥へ声を掛けたのだった。






ぶらり、ぶらりと街の通りを歩き、気になる店を覗いたり冷やかしたり。
擦れ違う人々の熱い視線を受けながら、親子にも恋人同士にも見える二人連れが歩いてゆく。






初めて訪れた地上は、見るもの聞くもの全てが目新しい。
エネルギッシュで粗雑で、大らかで、逞しく。
綺麗で温かくて優しい。
翻る幼子の笑顔。
弾ける声と光。



お前にはここがよく似合う



買い与えた肉まんを美味しそうに頬ばる悟空の姿に口元を綻ばせながら、金蝉は休憩に選んだ公園の木々に視線を移した。

その先に広がる手入れのされた木々。
ポプラ、クヌギ、シイ、イチョウ、サクラにモミジ。
四季の移ろいを楽しめるように植えられた木々。

常春の咲き急ぐ事もない天界の桜の花。
季節の移ろいなどなくて。

大地の子である養い子にとって相応しくない場所。
それでも───



我が侭だな…



小さくため息を吐いて、金蝉は座っていたベンチから腰を上げた。

「金蝉?」

悟空がどうしたのかと、見上げてくる。

「夕焼けだ、そろそろ帰る時間だ」
「…もう?」
「そうだな…」
「そっか…」

ほんのりと茜色に染まった空を背景に立つ金蝉に悟空は頷いた。

「あのさ、展望台に行ってから帰っちゃダメ?」
「どうした?」
「…うん」

少し俯いて悟空は口ごもった。

「悟空?」

つい今の今まではしゃいでいた悟空の変わりように金蝉は戸惑う。

「悟空?どうした?」

膝を付き、悟空と視線を合わす。
すると、悟空がふわりと金蝉に抱きついた。

「…悟空?」

天界では抱き上げることも叶わない幼い身体は、今だけ重たい枷を外されて軽い。
金蝉は抱きつく悟空をそのまま抱き上げた。

「…こ、金蝉…?」
「今だけだ」
「……うん」

ぎゅっと、金蝉の首に抱きつき、悟空は小さく頷いた。

「で、どうした?」
「…あのね、俺…覚えておきたかったんだ、ここの景色」

ゆっくりと歩き出した金蝉に抱かれて、悟空は茜に染まった空を見上げた。

青かった空が橙色や赤、紫色に変わってゆく。
天界では見られない夕焼け。

朱に染まった雲も少し湿り気を帯びた風も一日の終わりを告げる太陽の色も全てを覚えていたくて。
泣きそうなほど綺麗だから。
その色に染まる金蝉の姿が痛いほど綺麗だから。

「楽しかったから…」
「そうか」
「うん…」

頷いて、漸く金蝉の顔を見れば、紫暗が穏やかに頬笑んでいた。
そして、微かに感じた温もり。

「……こ、んぜ…ん…?」

茜の色をはいた金瞳が見開かれ、次いでその容が朱に染まった。
それに金蝉はもう一度、今度はしっかりと唇を重ねた。

「時間だ」

額の金鈷に触れて、金蝉は笑い、やがて二人は淡い光に包まれた。
光が消えたその後を名残惜しげに夕風が、大地の子供を呼ぶように天に向かって吹き上げたのだった。




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