暖かい冬・前編 (2007.2.23〜4.25/寺院時代)
今年の冬は何だか、とても暖かい。
何かが狂ったように、真冬であるはずなのに暖かい。
いつもならまだ咲かない蝋梅が早々と咲いて、梅が節分より前に花開いて…今、目の前で桜が咲いている。
でも、まだ春節が終わったばかりだ。
桜は一番先に咲く種類の花だけれど、早くても来月になったらだ。

「……なんか…やだ…」

冬とは思えない青い空と温かな陽差しと綺麗に咲いた桜。

ねえ…一体何が起ころうとしているの?
何が起こるの?
それとも何かが狂ったの?

聴こえる大地の聲は苦しそうで、その聲を聴いているとだんだん不安になってくる。
心臓が痛くなる。

「…怖い……よ…」

裏山のいつもの場所で悟空は動けなくなった。











風がざわついている。
今年の冬は異常気象だと科学者達はもっともらしい原因を並べ立て、迷信深いもの達は祟りだ、災厄の前触れだと喧しい。
お陰でいらぬ仕事が増えて三蔵はいつになく忙しかった。
祈祷だ、加持だ、法要だと、三蔵を巫女か呪い師みたいに引っ張り出す。
そんなことは気休めだと、声を大にして言い放ち、全てを投げ出して騒ぎが収まるまで何処かに隠れていたいと、三蔵は思いながら山なす仕事を片付けていた。

その上、大地の愛し子である悟空の様子がおかしい。
何処か悩んでいるようにも、戸惑っているようにも、怯えているようにも見える。
そして、頭に響くあの声なき聲は、不安に怯えていた。

「…一体、何だって言うんだ?!」

その聲が三蔵の不安を煽るお陰で山のように堪った忙しい仕事もロクに手に付かない。
ざわざわと窓を叩くこの季節にしては酷く暖かい風を睨むようにして、先程からくわえたままだった煙草に三蔵は火を点けた。

「………うるせぇ…」

吐き出した紫煙に、声なき聲に向かってついた三蔵の悪態が重なった。











動けなくなってどれくらいそうしていたのか、不意に躯にまとわりついた風に悟空は顔を上げた。
その風に誘われるように空を見上げれば、空は見たこともない変わった色に変わっていた。

「…な、に?」

その空の色を見た瞬間、悟空の背中を寒気が走り抜けた。

「!!」

その悪寒に引っ張られるように振り返った悟空が見たのは巨大な光のカーテンだった。
空に揺れる虹色のカーテン。
幾重にも重なって、ゆらゆらと見たこともない色の空で揺れていた。

「…ぁ……」

その光景に息をすることも出来ずに、思わず悟空は後ずさった。
その足許が微かに揺れた。

「ぇ…っ?」

振動を感じた足許を見たその時、突き上げるような振動と爆発音が聞こえた。
悟空はその振動に足を取られて地面に投げ出され、強かに躯を打ち付けた。

「…ッ…一体、何が…?!」

痛む躯を起こして、立ち上がった悟空は土の津波に呑み込まれる寺院の姿を見たのだった。











がたがたと窓を揺らす風が、突然、窓ガラスを打ち破った。
砕け散るガラスから顔を庇って三蔵は、窓の横の壁に張りつくように避難した。
窓ガラスを打ち破って吹き込んで来た突風が執務机の書類を巻き上げ、部屋の中にガラスの破片と一緒にばらまく。
大きな音に驚いて、笙玄が執務室に飛び込んできた。

「三蔵様、何が…!?」

部屋の入り口で笙玄が立ち竦むのが見えた。
その時、酷く堅いもので頭を殴られたような衝撃が三蔵を襲った。

「…ッぁ!」

その衝撃と痛みに一瞬、意識が遠のき、三蔵は思わず膝を付いた。

「三蔵様!」

笙玄が慌てて駆け寄って来る気配に顔を上げたその時、また、激痛が三蔵を襲った。
声もなく頭を押さえて蹲った三蔵の肩に笙玄が触れる。

「三蔵様!大丈夫で……」

笙玄の言葉は最後まで続かなかった。
どおんという突き上げるような揺れを躯が感じたと思ったその時には、窓を突き破ってなだれ込んでくる土の濁流が三蔵と笙玄を押し包んでいた。
意識を失う寸前、悟空の悲鳴を三蔵は聴いた気がした。











一瞬、夢かと、悟空は思った。
けれど、地鳴りは続いていて、地面は揺れていた。
そして、目の前には土の濁流が寺院に向かって流れ出した姿を晒していた。
その光景を半ば呆然と夢見心地で見ていた悟空は、土の濁流が寺院を押し流したことをようやく思い出した。

「…ぁ、さんぞ…」

未だ揺れる大地に足を取られながらよく見える場所まで移動した悟空はその目の前に広がった光景に息が止まった。
山から流れ落ちた土の津波は三蔵の居るはずの建物を押し流していたのだ。

「さ……ぞ…」

膝が笑って立っていられない。

「ぁ…や…んぞ…」

近くの木に縋って、でも足は前へ動く。

「さんぞ…さんぞ…ぅ…三蔵──っ!!」

名前を呼ぶしか出来なくて。
足は前へ、前へ無意識に動いて、悟空は走り出していた。




走った。
息が出来ない程、必死になって走った。
寺院に近づく程に土の津波が何を押し流して、どこへ流れ込んだのかはっきり見えて、悟空の心臓は張り裂けそうだった。

崩れ落ちた山を振り返れば、赤茶けた地肌が見えて、薙ぎ倒された木々が根を空に向けている。
空はまだ見たこともない色に染まって、光のカーテンが揺れていた。

息が苦しくて、でも立ち止まることが出来なくて、悟空は走った。
大地の苦しげな聲が胸に響いて、風の呻きが聴こえて、躯中が痛くて、それでも止まることは出来なかった。

崩れた塀を飛び越え、瓦礫となった寺の建物をよじ登って、踏み越えて悟空は三蔵の仕事部屋を目指した。
山の上から見た時、土は三蔵と笙玄が何時もいる建物を押し流しているように見えたから。

「三蔵!」

静まりかえった寺院を悟空は三蔵の名前を呼びながら走った。
けれど、響くのは悟空の声だけで、悟空が呼ぶ声に応えてくれる声はなかった。




三蔵がいるはずの建物に辿り着いた悟空が見たのは、流れてきた土砂で建物が壊れ、半分以上土に埋もれた姿だった。
いつも悟空が外から三蔵を呼んでいた窓も、三蔵が難しい顔をして仕事をしていた部屋も全て土に埋もれて、土に壊されて瓦礫と化していた。

「三蔵…三蔵!」

そのあまりに無惨な様子に立ち竦むしかなくて、三蔵の名前を呼ぶしかできなくて、何をどうしたらいいのかもわからなくて。

「…三蔵!三蔵─っ!」

震える膝が、霞んで行く目の前が、何も聞こえない耳が、痛くて溜まらない躯が、何もかもが三蔵を呼んでいた。

「ッ…どうしてっ!」

かくんと折れた膝はもう立てなくて、悟空は溢れる涙と嗚咽を抱きしめてその場に蹲った。
と、微かに振動を感じた。

「……?」

地面に手を思わず付いたその時、また、突き上げるような振動と爆発音を聞いた。
悟空はそのまままた、大地に投げ出されたのだった。

大地の揺れに悟空は翻弄されて、何度も地面に躯をぶつけた。
ようやく揺れが修まった時には、辺りは先程よりも酷い土と瓦礫に覆われていた。

「…痛っ…」

よろよろと立ち上がって、三蔵の居た建物を振り返れば、そこはもう崩れて土にまみれた瓦礫の山のような状態になっていた。

「…ぁ…うそっ」

まろぶように近づけば、瓦礫と土の間から見覚えのある白い着物が見えた。

「……!」

悟空は一瞬、息が止まって、心臓がぎゅうっと締め付けられるように痛くなった。
けれど、その着物は見間違うはずもない三蔵の法衣だ。

「三蔵!!」

悟空はその着物を力一杯引っ張った。
すると、少し動いた。

「三蔵!」

それを頼りに悟空は着物を力一杯引っ張り、動かなくなったら素手で土を掘り返し始めた。
崩れた土は軟らかくて、簡単に掘り返せたけれど、三蔵の上に積もった土の量は信じられない程だった。

「さんぞ…三蔵…!」

三蔵の名前を呼びながら悟空は土を掘り返し続けた。

掘り返して、掘って、掘り返して…無心に悟空は作業を続けた。
辺りは夕暮れの色に包まれ、手元が見えにくくなってもそれにすら気付かず、悟空は素手で土を掘り返し続けた。
少し前に三蔵を探しに来たらしい僧侶の声も聞こえていたけれど、三蔵の返事がないことと執務室が土に埋もれているのを見て諦めたのか、三蔵が違う場所へ避難しているとでも思ったのか、土を掘り返している悟空に気付くことなく、僧侶達はそこから移動していった。
その気配に悟空もまた、気付かないままで、

「……三蔵…さ、んぞぉ…」

掠れた声で三蔵を呼びながら、悟空は土をひたすら掘り返した。
三蔵の白い法衣がずいぶん見えて、土に汚れた白い手が見えて。

「っ…ふぅ…」

泣いてしまいそうになるのを鼻を啜って堪えて、悟空は土を掘った。
やがて、三蔵の肩が見えたのを確認すると、悟空はまた、三蔵を引っ張った。
するとずるりと、土に埋もれた躯が動いて、ようやく土の中から三蔵の髪が見えた。

「三蔵!」

涙で歪む視界を拳で拭って、悟空は土の中に手を入れて三蔵を思いっきり引っ張った。
力の抜けた人の躯は酷く重く、引っ張る腕が抜けそうに軋んだけれど、悟空は三蔵の躯を力の限り引っ張った。

ずるりとのし掛かった土を押しのけるようにして、ようやく三蔵は土の下から引っ張り出された。
その勢いに悟空は尻餅をついてしまったが、足許にある三蔵の姿に悟空は土と涙で汚れた顔に笑顔を浮かべた。
そして、土の下から三蔵を完全に引っ張り出したその奥に、もう一つ手を見つけた。

その手を見てようやく、笙玄のこと思い出した悟空だった。

「……ぁ…しょ、げん…?」

悟空は三蔵を引っ張り出した穴の奥に見える手や見える着ているモノの色で、それが笙玄だと確信する。
悟空は三蔵を仰向けにして寝かせ、息があるのかどうかを確認すると、今度は笙玄を掘り出す作業にかかった。

「ゴメン…すぐ、すぐ助けるから」

悟空は土を掘り返しながら、笙玄のことを忘れていた自分に腹が立った。
悔しくて三蔵の時とは違う涙が溢れて視界が歪んだ。
けれど、土を掘り返す手は止めない。
辺りが暗くなってきていることに気付いた悟空は気持ちが逸った。
完全に日が落ちてしまえば、もう手元が見えない。
それは笙玄の死を悟空に意識させた。

「ゴメン…」

三蔵のことで頭がいっぱいで、笙玄の事を忘れていた。
いつも悟空に気を配って、優しく構ってくれる穏やかな人。
悟空と三蔵の味方だと、無言で、その態度で示してくれる人。
悟空にとって三蔵以外で大事だと思える人だというのに、忘れていた。
三蔵が仕事をしていれば、必ず傍に居るはずだというのに、忘れていたのだ。
後悔は悟空の胸を刺した。

その後悔と一緒に大地の痛みが悟空の躯を苛んでいた。

大地の苦しみが続いている気配が辺りを覆っていた。
それに呼応するように悟空の躯は痛い。
躯がぎしぎしと悲鳴を上げている。
大地が何で苦しんでるのか悟空には想像も付かなかったけれど、今、こうして躯を揺すって、吐き出すのは我慢の限界を超えたからなのだと言うことは理解できた。

「……巻き込んだ…きっと…」

掘り返す手が痛かった。
手の痛みが増す程に、笙玄の埋まっていた姿が見えてきて、ようやく土に汚れた笙玄の顔が見えた。
悟空は笙玄の腕を引っ張り、肩と顔が出たら、三蔵の時と同じように笙玄を掴んで思いっきり引っ張った。
すると、ずるりと土と一緒に笙玄が土の山から出た。
勢い余って尻餅をついて、悟空はようやく大きな息を吐いた。

その時には、辺りはもう人の顔がはっきり見えない程、暗くなっていた。

悟空は三蔵の躯を抱えて壊れていない回廊の影に運んだ。
笙玄の躯も三蔵の横に寝かせた。
二人の顔色は青く、息をしてないように悟空には見えた。
息をしていると、掘り返した直後、確認したというのに、悟空は不安になる。
先程の呼吸は自分の願望による錯覚で、実は息などしていないのではないかと。
悟空は怖々そっと、三蔵の胸に耳を当てるとそこに確かな鼓動を聞いた。
それにほっと息を吐いて、悟空は笙玄の胸にも耳をつける。
確かに笙玄の鼓動も聞こえた。

「……よかった…」

ほうっと、息を吐いて暮れた空を見上げれば、あの変な色に染まっていた空は夜の色に変わり、光のカーテンはもう消えていた。
大地の唸るような聲も今は少し穏やかになっている。
悟空の躯の痛みはまだ引かないけれど、泣き言は言ってられなかった。
躯をぶつけた痛みより、大地が訴える痛みより、土の下敷きになっていた三蔵と笙玄の方が酷い目に遭ってるのだから。

と、ふるりと躯が震えた。

日が落ちれば気温が下がる。
回廊の影で冷たい風は当たらないが、このままだと三蔵も笙玄も凍えてしまうことに、悟空は気が付いた。

「何とかしなくちゃ…」

ぱっと立ち上がったその瞬間、視界が廻った。

「ぇ…っ?」

くらりと周囲が歪んで、

「…う、そ…」

踏ん張ることも出来ずに、悟空の意識は暗転した。











気付いたのは三蔵の膝枕で、目の前には心配そうに悟空の顔を覗き込んでいる笙玄の顔があった。

「…ぇれ…なん、で…?」

寝ぼけた悟空の頭が三蔵によって軽く殴られ、その痛みでようやく悟空は目が覚めた。
その途端、飛び起きる。

「三蔵!笙玄!」

突然飛び起きた悟空が大きな声で二人の名前を呼んだかと思うと、二人に同時に抱きついた。

「お、おい…?!」
「ご、悟空?」

悟空の突然の行動に、三蔵と笙玄は顔を見合わせ、自分達にしがみつくように抱きついている悟空を見やった。

「よかった!生きてた!無事だったんだ!怪我してない?何処も痛くない?なあ、三蔵!笙玄!」

そう言って悟空が二人の顔を覗き込めば、泥だらけの三蔵が呆れ返ったため息を吐き、笙玄が困ったように泥だらけの顔を綻ばせた。

「三蔵、笙玄…」

そんな二人の姿を見た途端、悟空は堰を切ったように泣きだしたのだった。

大地が苦しそうな声を上げて、身を捩った。
その所為で大地が揺れて、三蔵達が生き埋めになった。
怖かった。
本当に怖かった。
怖かったのだ。
だから、いつものように呆れた顔をする三蔵がもう一度見られて、いつものようにちょっと困ったような顔で悟空のことを心配してくれる笙玄の姿を見られて、悟空はようやく本当に安心したのだった。

声を上げて泣く悟空の頭を三蔵が仕方ねえ奴と、ぽんぽんと叩き、笙玄が宥めるように背中をさすった。
ようやく泣きやんで顔を上げた悟空の顔は涙と泥の汚れでそれはもうぐちゃぐちゃになっていた。
そのあまりな顔の汚さに、

「汚ぇ面…」

と、三蔵が呆れた。
そんな三蔵に困ったような顔を向けた笙玄は、悟空を呼んだ。

「悟空、こっち向いて下さい」

笙玄に呼ばれて笙玄の方を向いた悟空の顔を笙玄は作務衣の汚れていない場所を使って拭いてやった。

「ほら、綺麗になりましたよ」

言われて、三蔵を見れば、

「ま、さっきよりはましだ」

と、三蔵が笑った。
お互いの無事を確認して、人心地ついた悟空達はようやく立ち上がった。
その頃には日もとっくに暮れ、すっかり夜になった辺りを月が照らしていた。
山からなだれ落ちた土は辺りを埋め尽くし、物音一つしない。

「三蔵…」

その静けさに不安になたらしい悟空が三蔵を見上げれば、大丈夫だと言うように三蔵は悟空の頭を撫でた。
そして、

「取りあえず、ここから出て、反対側へ行ってみるか」

そう言って、三蔵は歩き出した。
その後ろ姿を見て、本当に三蔵が怪我をしていない事を悟空は改めて知った。
悟空と一緒に並んで歩く笙玄を見て、笙玄もまた、怪我をしていないことを確認して、悟空はほっと我知らず詰めていた息を吐いたのだった。




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