すがりつく手を邪険に振り払われた。
払われた手の痛みよりも胸が痛かった。
別に我が侭を言って困らせるつもりはなかった。
ただ、一緒にいたかったんだ。
ただそれだけだったのに・・・
Tear
oneself away 〜悟 空〜
悟空が目を覚ました時、三蔵は既に旅支度を調え、笙玄と留守の間の溜まるであろう仕事の打ち合わせを寝所の居間でしていた。
そこに悟空にとってはタイミング良く、三蔵にとってはタイミング悪く、悟空が姿を見せたのだった。
居間に笙玄と立つ三蔵の姿を認めて、悟空は嬉しそうに笑った。
「さんぞ、おはよ」
と、三蔵の側に駆け寄る。
「あ…ああ」
それに答えながら、三蔵は小さく舌打ちした。
「三蔵様!」
その舌打ちを聞き咎めた笙玄が、小さな声で注意する。
笙玄の声にきょとんと二人を見やった悟空は、三蔵の旅装束に気が付いた。
「さんぞ、どっか行くの?」
「ああ」
三蔵の返事に、さっと、悟空の顔が不安に染まる。
「一人で?」
「そうだ」
不機嫌に返される返事に、思わず悟空は法衣の袖を握りしめた。
見上げる瞳が、不安に揺れる。
「俺も、行きたい」
「何?」
三蔵の瞳が、見開かれた。
「一緒に行く」
「ダメだ」
「ヤだ。連れてって」
「ダメだ」
すがるように言いつのる悟空に三蔵のすげない返事が返される。
「何で?」
「仕事の邪魔だ。笙玄と留守番してろ」
「ヤだ!邪魔しない。邪魔しないからっ!」
「うるさい!」
「三蔵!!」
泣きそうな声音で食い下がる悟空との押し問答に、疲労と寝不足で苛ついていた三蔵は、キレた。
「離せ!」
力一杯、法衣を掴んでいた悟空の手を振り払った。
「……あ…」
小さな悲鳴を上げた悟空は、冷たい怒りを含んだ紫暗の瞳と目が合った。
目が合った瞬間、何か言いたげに三蔵は口を開きかけたが、何も言わずに踵を返すと、足音も荒く出かけて行った。
二人のやり取りに悟空を取りなすタイミングを逃した笙玄は、おろおろと見ているしかなかった。
振りほどかれた手を胸に抱き込むようにして震えて立つ悟空に声を掛けたかったが、荷物も持たずに出かけようとしている三蔵を放っておくこともできず、笙玄は後ろ髪を引かれる思いで、悟空を残し、三蔵の忘れた荷物を掴んで後を追って部屋を出て行った。
一人、部屋に残された悟空は、耐えていた涙をみるみる溢れさせ、その場に踞ってしまった。
「…ふぇ……さんぞぉ…」
思い出すのは、冷たく怒りを湛えて見返す瞳。
三蔵と共に寺院で暮らすようになって、初めての経験。
邪険に、力一杯振り払われた自分の手。
振り払われた手の痛みより、胸がどうしようもなく痛かった。
三蔵は今、忙しい。
春の祭礼の準備や用事で、早朝から深夜まで執務室に籠もっていた。
悟空が起きた時には執務室に出仕した後で、一日三蔵の顔を見ることがなっかた。
たまに顔を合わせても、時間と仕事に追われている三蔵相手に言葉を交わす暇さえなく、あまりの忙しさに、悟空が執務室を覗きに行くことが禁じられた。
最初は、それでも良かった。
三蔵とほんの数ヶ月前約束した、”どんなに忙しくても夕食は悟空と食べる”という約束は守っていてくれたから。
やがてその約束も破られることが多くなった。
それでも、我慢した。
寂しげな悟空を見かねて笙玄が、三蔵にお茶を運ぶ仕事をくれたから。
お茶を運べば、自分の方を見てくれないまでも、仕事に没頭する三蔵の姿が見られたから。
だが、祭礼が近づくごとに仕事は忙しくなり、お茶さえ運べなくなってしまった。
三蔵と顔を合わせない日が、何日も続いた。
我が侭を言って、寝る暇もないほどに忙しい三蔵や笙玄を困らせるわけにはいかないと、悟空なりに我慢していた。
が、その我慢も限界が来ていたのだ。
そして、今朝、いつもより何故か、早く目が覚めた。
着替えて居間に行けば、三蔵がそこにいた。
数日ぶりに見る三蔵。
忙しくて睡眠不足なのだろう、綺麗な顔をやつれさせていた。
不機嫌なオーラを撒き散らして立つ姿は、相も変わらず眩しくて。
嬉しかった。
それだけだったのに・・・。
なのに、遠出するなんて言うから、寂しくて、我慢できなくなった。
できなかったんだ。
悟空は、扉の外に笙玄の足音を聞きつけると、逃げるように窓から外へ飛び出して行った。
逃げる様に旅立って行った三蔵の背中を笙玄は、やるせない思いで見送った。
本来なら、まだ親の庇護の元にいてもおかしくない三蔵と悟空。
味方と呼べる人間が誰一人としていないと言った方が正しいこの寺院で、お互いの心を重ね合わせるように寄り添っている二人。
それなのに、些細なことが二人の気持ちを擦れ違わせる。
お互いが、お互いをどれ程大切にしているか、少し注意して見ていれば自然とわかるものを、誰も見ようとはしない。
至高の存在と敬っても、何処かで蔑みの感情を持ち、汚らしいとあからさまに侮蔑を見せるその姿で、慈悲を説き、慈愛を見せる。
笙玄は、三蔵と悟空に会って初めて、己が今まで信じてきた事が何であったのかを知った。
知って見えてきた物に、嫌悪を抱く。
後悔する。
だがそんな感情すら馬鹿らしいと、三蔵と悟空はその生き方で笙玄に示してくれた。
ならば、守るのだ。
己が心を守るように。
笙玄は、今にも不安に押しつぶされそうに震えていた悟空の元へ踵を返した。
寝所へ戻れば、何処にも悟空の姿はなかった。
笙玄は、青ざめた。
不安定な悟空は、三蔵の仕打ちを悪い方へ理解し、自分で自分を追いつめてゆく。
それだけはさせてはならないと、笙玄は、心当たりを捜そうと寝所を出た。
そこで、総支配の勒按につかまった。
三蔵が、三仏神の命令で出かけたことは既に知られており、笙玄は言い訳を見繕って悟空を捜すことさえ、できなくなってしまった。
今ここで、仕事を投げ出して悟空を探しに行けば、三蔵の負担が増えるだけで、良いことは何一つ無い。
ならば、三蔵の負担を少しでも軽くし、悟空と過ごす時間をもてるようにする。
そう決めた笙玄の行動は、迅速だった。
それぞれが、悟空のために。
それぞれが、三蔵のために。
春の盛り。
寺院の庭の桜は、薄桃色の花を咲かせ、大気は新しい命の芽吹きを促し、慈しむ。
悟空は、その桜並木の下をうつむいて、とぼとぼとあてどもなく歩いていた。
と、不意に何かに蹴躓いて転んだ。
びっくりして顔を上げれば、庭掃除をしていた小坊主達が、にやにや笑いながら悟空を見下ろしていた。
「な…なに?」
身体を起こしながら聞けば、横合いから竹箒が降ってきた。
避ける間もなく、脇腹に竹箒が当たる。
痛みに顔をしかめれば、小坊主達は小さく笑い合うと、それぞれが持った竹箒を悟空めがけて振り下ろした。
「やっ!い…痛い!!」
頭を庇うように踞った悟空の身体を容赦なく叩き合うと、何も言わず小坊主達は駆け去って行った。
足音が、遠のいたのを確認して、恐る恐る顔を上げた。
周囲に誰もいないことに安心すると、立ち上がった。
悟空は、身体に付いた泥を払い、また、とぼとぼと庭を抜け、裏山へ入って行った。
寺院へ来てしばらくは、三蔵の元を離れることが恐かった。
それが一人で留守番できるようになって、人のそこここに出歩けるようになった。
三蔵と側係の僧侶以外の修行僧と顔を合わすようになると、意味もなく詰られたり、殴られたりするようになった。
三蔵に連れてこられてすぐの時、側係の僧侶に寺院の修行僧に逆らったら三蔵の元にいられなくなるから逆らうなと言うようなことを言われた。
それを守って、不条理な仕打ちにも耐えたのは、三蔵が側に居て良いと言ってくれたから。
だから我慢できた。
それなのに・・・・。
今だって、竹箒で散々殴られた。
我慢した。
それなのに・・・・。
裏山の奥のお気に入りの場所にようやく辿り着くと、悟空は崩れるように座り込み、声を上げて泣き始めた。
「さんぞぉ……さんぞ…」
声が枯れるほど泣いても、涙は溢れて、幼い頬を濡らした。
「ふぇ…くっ…えぇ…っつ……」
しゃくり上げ、尚も泣き続ける。
山に棲む動物達が泣きじゃくる悟空を遠巻きに見守っている気配に、悟空は泣き腫らした瞳を上げた。
そして、笑おうとした顔はすぐに歪み、泣き出してしまう。
「……さん…ぞぉ……さ…んぞ…」
山桜の花びらの舞う中、三蔵の名を呼びながら泣き続ける悟空の周囲に、遠巻きに見守っていた動物達が集まり、頬を流れる涙を拭おうとその暖かい舌を伸ばした。
それでも、涙は止まらず、悟空は泣き続けた。
どれぐらい泣いていたのだろう、ようやく涙が止まったのは、夕暮れが近い時間だった。
「……さんぞぉ」
呟きは、三蔵の名前だけ。
ただ、三蔵を呼ぶ。
来てくれるはずのない大事な人。
不機嫌だけど、誰よりも優しい、悟空の太陽。
なのに・・・・。
出かける前の三蔵の冷たい怒りを含んだ瞳を思い出し、邪険に振り払われた手の痛みを思い出して、また、悟空の瞳から透明な滴が溢れ出る。
一緒に居ちゃいけないの?
三蔵は、俺のこと嫌いになったの?
もう、いらないの?
三蔵に問いかけるそのことにすら傷付く。
涙は、また止まらなくなった。
と、ずっと側に居た動物達が、驚いたように立ち上がると、蜘蛛の子を散らすように悟空の側から逃げてしまった。
一人残された悟空は、泣くことを一瞬忘れた。
「どーし……」
悟空の呟きに重なるように、酷く不機嫌な声が後ろから聞こえた。
「いい加減にしやがれ、猿」
その声に振り返れば、最高に不機嫌な顔をした三蔵が立っていた。
「……さ…んぞ…」
信じられないと見開く瞳から、溜まっていた涙が零れ落ちる。
「人の名前を安売りの品物みてえに、連呼すんじゃねえ。うるせぇったらねぇ」
がしがしと、鬱陶しそうに頭を掻く。
「何…で……?」
「うるせぇ。泣くなら、俺の前で泣きやがれ。でねえとうるせぇは、頭痛てぇはで、仕事にならねえ。いいな、わかったな、猿」
ぽかんと、三蔵を見上げる悟空に投げ捨てるようにそう告げると、三蔵は踵を返した。
「帰るぞ、猿」
後ろ手に伸ばされた三蔵の手を見た悟空は、転がるように三蔵に駆け寄った。
そして、体当たりするようにその背中に抱きつく。
三蔵に触れた所から、三蔵のぬくもりが伝わる。
また、涙が溢れた。
来てくれた嬉しさに。
「さんぞ、さんぞぉ・・」
「喧しい」
「うん…」
「………泣くな」
「…うん」
三蔵にしがみついた手に三蔵の手が触れた。
その少し冷たくてでも、暖かい感触が嬉しくて、悟空の顔に笑顔が戻った。
見上げた三蔵の顔は、わからなかったけれど、金糸の間からかいま見える耳が、ほのかに赤くなっていた。
もうそれだけで十分。
悟空は、抱きついた三蔵から離れると、法衣の袂を握った。
その握った手は振り払われることなかった。
側に居させてね。
それが、全て。
それだけが、願い・・・・・。
end
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