すがりつく手を邪険に振り払った。
酷く傷付いたような怯えた瞳が、振り払った手の先にあった。
こんなつもりじゃなかったのに・・・
後悔が、胸を刺した。




Tear oneself away 〜三 蔵〜




朝、それも夜の明けきらない内に三蔵は、三仏神に呼び出された。


昨夜、三蔵が床についたのは、日付が変わってずいぶんとたった時間だった。
立て込んだ仕事の所為で悟空との約束を今日も果たせず、執務室で山のような書類と格闘していた。
それがやっと終わり、強張った身体をほぐしながら寝台に潜り込んですぐのことだったのだ。
申し訳なさそうに三蔵を起こしに来た笙玄に、ひとしきり当たり散らしながら法衣に着替え、三蔵は斜陽殿に出かけて行った。




三蔵は旅支度を調え、笙玄と留守の間の溜まるであろう仕事の打ち合わせを寝所の居間でしていた。
悟空が寝ている間に出かけるつもりだったのに、悟空にとってはタイミング良く、三蔵にとってはタイミング悪く、悟空が姿を見せたのだった。
居間に笙玄と立つ三蔵の姿を認めて、悟空は嬉しそうに笑った。

「さんぞ、おはよ」

と、三蔵の側に駆け寄って来る。

「あ…ああ」

それに答えながら、三蔵は小さく舌打ちした。

「三蔵様!」

その舌打ちを聞き咎めた笙玄が、小さな声で注意する。
笙玄の声にきょとんと二人を見やった悟空は、三蔵の旅装束に気が付いた。

「さんぞ、どっか行くの?」
「ああ」

三蔵の返事に、さっと、悟空の顔が不安に染まる。

「一人で?」
「そうだ」

不機嫌に返した返事に、思わず悟空が法衣の袖を握りしめる。
見上げる瞳が、不安に揺れていた。

「俺も、行きたい」
「何?」

三蔵の瞳が、見開かれた。

「一緒に行く」
「ダメだ」
「ヤだ。連れてって」
「ダメだ」

すがるように言いつのる悟空に三蔵はすげない返事を返す。

「何で?」
「仕事の邪魔だ。笙玄と留守番してろ」
「ヤだ!邪魔しない。邪魔しないからっ!」
「うるさい!」
「三蔵!!」

泣きそうな声音で食い下がる悟空との押し問答に、疲労と寝不足で苛ついていた三蔵は、キレた。

「離せ!」

力一杯、法衣を掴んでいた悟空の手を振り払った。

「……あ…」

小さな悲鳴を上げた悟空の怯えたような金晴眼と目が合った。

目が合った瞬間、怯えた悟空に何か言葉を掛けてやりたかった。
だが、咄嗟に気の利いた言葉が思い浮かぶはずもなく、今にも泣きそうな悟空を振り切るように三蔵は、何も言わずに踵を返すと、足音も荒く出かけて行った。

二人のやり取りに悟空を取りなすタイミングを逃した笙玄は、おろおろと見ているしかなかった。

振りほどかれた手を胸に抱き込むようにして震えて立つ悟空に声を掛けたかったが、荷物も持たずに出かけようとしている三蔵を放っておくこともできず、笙玄は後ろ髪を引かれる思いで、悟空を残し、三蔵の忘れた荷物を掴んで後を追って部屋を出てた。



「三蔵様!」

回廊を足早に歩く三蔵の背中に声をかけ、笙玄は荷物を抱えて走り寄った。

「三蔵様、お荷物をお忘れでございます」

立ち止まった三蔵に荷物を差し出すと、三蔵は黙って荷物を受け取った。

「三蔵様?」

いつもなら何かしら悪態を付きながら受け取る三蔵が、今日に限っては、物言いたげな紫暗の瞳を笙玄に向けた。
笙玄が目顔でどうしたのかと問いかければ、ようやく、

「…猿を、頼む」

と、小さな声でそれだけ言うと、逃げるように三蔵は出かけていった。




三蔵は今、忙しい。


春の祭礼の準備や用事で、早朝から深夜まで執務室に籠もっていた。
悟空が起きる遙か前に執務室に出仕し、一日悟空の顔を見ることができなかった。
たまに顔を合わせても、時間と仕事に追われて悟空と言葉を交わす暇さえなく、あまりの忙しさに、悟空が執務室を覗きに来ることを禁じる羽目になった。


最初は、それでも良かった。


悟空とほんの数ヶ月前約束した、”どんなに忙しくても夕食は悟空と食べる”という約束は守れたから。
やがてその約束も破ることが多くなった。


それでも、我慢した。


寂しげな悟空を見かねて笙玄が、悟空が自分にお茶を運ぶ仕事を与えてくれていたから。
お茶を運んでくれば、言葉を交わさなくても、悟空の状態を知ることができたから。
だが、祭礼が近づくごとに仕事は忙しくなり、悟空が運んでくれるお茶さえ飲めなくなった。
当然、ばたばたと人の出入りが激しくなった執務室への悟空の出入りは、完全に禁止されてしまった。



悟空と顔を合わせない日が、何日も続いた。



寝る暇もないほどに忙しい三蔵のイライラは募ってゆく。
寺院の連中は自分達で片付けられる仕事まで、三蔵の決済が必要だと持ってくる。

祭礼用の手紙、祭礼開催期間中説法に出かける予定表だの、全てを投げ出し、悟空を連れて雲隠れしてやろうか。

何度思ったか知れない。

だが、悟空をこの寺院に、自分の側に置くことをジジイ共に認めさせる時に、自分から言い出したことが、こんなにも今、枷となって、三蔵の自由を奪う。
責任と義務と権利。
自由にならない己に苛ついた。



そのイライラをさらに増長させる”声”。


胸に響く悟空の声は、我慢しているのがはっきりわかるほど淋しさに揺れていた。
三蔵の忙しさに、悟空は悟空なりの方法で一人で居る不安や淋しさに耐えている。
そのことが手に取るようにわかって、何もしてやれないジレンマに心がささくれてゆく。



気持ちに余裕がもう欠片もなかった。



そして、今朝、いつもより何故か、早くに目が覚めたらしい悟空と顔を合わせた。


数日ぶりに見る悟空。
寂しくて睡眠不足なのだろう、幼い顔に翳りを落としていた。
眠そうに目を擦りながら、居間に入ってきた姿は優しくて。
嬉しかった。
自分の姿を見つけて浮かべた変わらぬ笑顔が、愛しかった。



それだけだったのに・・・。



なのに、連れて行けと、我が侭を言うから、当たってしまった。

溢れた感情は、抑えられなかった。

三蔵は叩き付けるように潜り戸を開けると、寺院を旅立って行った。






春の盛り。



寺院の庭から続く桜は、薄桃色の花を咲かせ、大気は新しい命の芽吹きを促し、慈しむ。


三蔵は、その桜並木の下を走るような勢いで歩いていた。
寺院が見えなくなった頃、不意に頭が割れるように痛み出した。

「……っつの…サル!」

がんがんと、金属棒で殴られているような痛みが、三蔵を襲う。

「もう少し、待ちやがれ」

頭痛を振り払うように、二、三度頭を振ると、三蔵は目的地に向かって、走り出した。






逃げる様に旅立って行った三蔵の背中を笙玄は、やるせない思いで見送った。

本来なら、まだ親の庇護の元にいてもおかしくない三蔵法師と悟空。

味方と呼べる人間が誰一人としていないと言った方が正しいこの寺院で、お互いの心を重ね合わせるように寄り添っている二人。
それなのに、些細なことが二人の気持ちを擦れ違わせる。

お互いが、お互いをどれ程大切にしているか、少し注意して見ていれば自然とわかるものを、誰も見ようとはしない。

至高の存在と敬っても、何処かで蔑みの感情を持ち、汚らしいとあからさまに侮蔑を見せるその姿で、慈悲を説き、慈愛を見せる。

笙玄は、三蔵と悟空に会って初めて、己が今まで信じてきた事が何であったのかを知った。
知って見えてきた物に、嫌悪を抱く。
後悔する。
だがそんな感情すら馬鹿らしいと、三蔵と悟空はその生き方で笙玄に示してくれた。
ならば、守るのだ。
己が心を守るように。

笙玄は、今にも不安に押しつぶされそうに震えていた悟空の元へ踵を返した。




寝所へ戻れば、何処にも悟空の姿はなかった。

笙玄は、青ざめた。

不安定な悟空は、三蔵の仕打ちを悪い方へ理解し、自分で自分を追いつめてゆく。
それだけはさせてはならないと、笙玄は、心当たりを捜そうと寝所を出た。

そこで、総支配の勒按につかまった。
三蔵が、三仏神の命令で出かけたことは既に知られており、笙玄は言い訳を見繕って悟空を捜すことさえ、できなくなってしまった。

今ここで、仕事を投げ出して悟空を探しに行けば、三蔵の負担が増えるだけで、良いことは何一つ無い。
ならば、三蔵の負担を少しでも軽くし、悟空と過ごす時間をもてるようにする。

そう決めた笙玄の行動は、迅速だった。




それぞれが、悟空のために。

それぞれが、三蔵のために。






三蔵は、街道を走るようにして歩いた。


目的地に着く頃には、頭痛は我慢の限界を超え、声は、三蔵の心を引き裂くような悲哀に染まって、三蔵を苛んでいた。
その痛みに歯を食いしばって耐え、目的の物を手に入れると、三蔵は寺院へととって返した。



声は、呼ぶ。

ただ、”三蔵”と。



声なき声が、ちゃんと意味を持って聞こえるようになったのはいつからだたろう。
気が付いた時には既に声は自分の名前を呼んでいたように思う。
初めて聞こえた時は、ただ、哀しみだけを訴えていた。
それが、誰かを呼んでいるようだとわかり、その呼んでいる誰かが自分のことだとわかった時、三蔵は嬉しかった。
誰かが、自分を必要としてくれる。
あの日、大切な人を亡くして以来、ぽっかりと空いた胸の空洞を埋めるに充分なそれは、三蔵の支えになった。

親にすらいらないと捨てられた自分。
育った寺でも自分は異端で、誰も光明三蔵以外は、必要とは言ってくれなかった。
だが、常に聞こえる声の主は、自分を必要として呼んでくれている。
会いたいと思った。

だから、探しに行こう。

そんな殊勝なことを思ったものの、四六時中聞こえる声にやがて苛つき、声の主を見つけ出して、一発ぶん殴ってやるとまで思うようになって。
そして、ようやく見つけたのは子供だった。


零れそうに大きな金色の瞳の子供。


一目で囚われた。
そして、確信する。
この子供は、自分のものだと。

岩牢から連れ出し、側に置くことを決めた。
自分が決めたのだ。

金色の子供。
暗い三蔵の歩む道を無垢な光で照らす唯一の太陽。
側に居て欲しい。
何よりも大切な存在



今、傍に行くから・・・・。



ずきずきと痛む頭を軽く振って、三蔵は道を急いだ。




夕闇が迫って来る頃、ようやく三蔵は、悟空の元へ辿り着いた。

見つけた悟空は、寺院の裏山にあるお気に入りの場所に動物達に囲まれて、泣いていた。

近づけば、三蔵の気配に驚いた動物達が、蜘蛛の子を散らすように悟空の側から離れてしまった。
驚いて顔を上げる悟空の後ろ姿が、いつもよりずっと頼りなげに小さく見えて、三蔵は改めて、自分の仕打ちを後悔した。
だが、気持ちとは裏腹にいつも通りの言葉が、口をついて出た。


「いい加減にしやがれ、猿」


その声に振り返った悟空は、泣きはらした顔を驚きに染めていた。

「……さ…んぞ…」

信じられないと見開く瞳から、溜まっていた涙が零れ落ちる。

「人の名前を安売りの品物みてえに、連呼すんじゃねえ。うるせぇったらねぇ」

がしがしと、鬱陶しそうに頭を掻く。

「何…で……?」
「うるせぇ。泣くなら、俺の前で泣きやがれ。でねえとうるせぇは、頭痛てぇはで、仕事にならねえ。いいな、わかったな、猿」

ぽかんと、三蔵を見上げる悟空に投げ捨てるようにそう告げると、三蔵は踵を返した。

「帰るぞ、猿」

言った言葉に三蔵は、悟空の顔が見られなくなったしまった。
正面から差し出されるはずの手は、後ろ手に悟空に向かって差し出された。
すぐに、駆け寄る悟空の足音と一緒に、体当たりされた衝撃が、三蔵の背中にあった。
法衣越しに悟空の体温が伝わる。
しがみつく悟空の力に、安堵する。
自分を呼ぶ悟空の声に愛しさが募った。
こんなにも自分を必要だと言ってくれる存在に。

「さんぞ、さんぞぉ・・」
「喧しい」
「うん…」
「………泣くな」
「…うん」

三蔵にしがみついた悟空の手に三蔵は手を触れた。
その暖かい感触が嬉しくて、握りしめれば、悟空の顔が笑顔にほころぶのがわかった。
らしくない自分の仕草に気恥ずかしさを覚えた三蔵は、ほのかに頬を赤く染めた。



悟空は、抱きついた三蔵から離れると、法衣の袂を握った。
その握った手を振り払うこともなく、三蔵は寺院へ向かって歩き出した。



側に居てくれ。
それが、全て。

それだけが、願い・・・・・。




end




リクエスト:「寺院時代のもので、2人の思いがすれ違ってしまったが、最終的にはより絆が深くなる」というものを三蔵サイドと悟空サイドからのお話
10000 Hit ありがとうございました。
謹んで、亜沙緋様に捧げます。
おまけ
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