五行山の麓の村に二人が辿り着いたのは、太陽が朝の光を昼のそれに替えようとする時刻だった。
埃にまみれ、疲れ切った二人の姿に村人は驚いた。
前日、長安から五行山に棲む妖怪退治に来たと、名乗った者のあまりの幼さに村人達は、絶望を感じた。
そして、その少年が名乗る「三蔵」と言う名に一縷の望みを繋ぎつつ、疑いの目を向けた。
しかし、額に記された深紅のチャクラと純白の法衣、双肩にかけられた経文は、三蔵法師そのもので、村人達は黙って五行山を示すしかなかった。
その少年僧が、自分とあまり変わらない妖怪の子供を伴って村に戻って来たのだ、驚かないはずはなかった。
「さ、三蔵法師様、その子は一体どうなさったんです?」
村長が知らせを受けて駆けつけ、三蔵にしがみつくようにしている悟空のことを問いただしてくる。
三蔵は面倒くさげに悟空に一瞥をくれると、答えた。
「途中で拾った。このまま長安へ連れて帰る。それがどうした?」
美しい風貌に似つかわしくないきつい瞳で村長を見つめ、文句があるなら言ってみろと三蔵は、胸を反らした。
三蔵の静かだが有無を言わせぬ口調に村長は、引きつった笑みを浮かべ、頷くことしかできなかった。
実際、何処の何とも知れない妖怪の子供を村に置くことなど、はなから考えていなかったのだから、三蔵の言い様は有り難いことで、異議など唱える気は毛頭なかったのだが。
「ずいぶんお疲れのご様子。宿の方で今日はお休みになればよろしいかと」
取り繕うような笑顔で村長はそう言うと、村の中程にある宿屋へと二人を案内した。
三蔵は、しがみつく悟空を鬱陶しげに見やったが、その手を振りほどくことなく、宿屋へ向かった。
通された部屋はこぢんまりとしていたが、落ち着いた感じの部屋だった。
寝台が二つ、窓を頭にして並び、二人がけの丸テーブルと椅子が寝台の反対側に置かれていた。
三蔵は荷物を下ろすと、いまだにしがみついたままの悟空の手を振りほどいた。
その仕草に悟空が、小さな悲鳴を上げた。
その声に訝しむように悟空を見れば、うつむいて肩を震わせていた。
「何だ?」
見つめていると、木の床にぽつりぽつりと小さなシミができる。
「てめぇ、何、泣いてる?」
ため息混じりに問えば、悟空は肩を揺らしただけで、顔を上げようともしない。
「答えねぇか」
うつむく悟空と向き合って、肩を掴めば小さな声が聞こえた。
「……て…か……で…」
「ああ?ちゃんと言わねえとわからねぇ」
見下ろせば、恐る恐る顔を上げて、泣きじゃくりながらの答えが返ってきた。
「…お、置いて……ひっく…いか…行かない……うっく…で……」
見返す大きな金色が濡れて、不安に揺れていた。
三蔵は、ただでさえ疲れた身体が、もっと疲れたような錯覚を覚える。
「っつたく、ただ手を離しただけだろうが」
「…手…?」
「手、だ」
切るように言って、自分の手を悟空の前にかざして見せる。
不思議そうに三蔵の手を見つめる。
「しがみついてたら何にもできねえだろうが。だから、だ。わかったか」
「う……ん」
頷きながら悟空は、目の前に差し出されたままの三蔵の手をそっと両手で握る。
長い綺麗な指の自分より少し大きな手。
この手が、あの岩牢から出してくれた。
離したくなかった。
愛しげに引き寄せて、胸に自分の手を抱き込むようにする悟空を三蔵は、黙って見ていた。
声は、まだ聞こえていた。
ずっと、まだ切なげに、形を持たない声なき声。
悟空に会うまでほどは煩くはなかったが、声は絶えることなく三蔵の胸に響いていた。
「いい加減に離せ。俺は眠てえんだ」
「も…少し……」
小さくそう言うと、微かに悟空の口元がほころんだ。
三蔵は、諦めたようなため息を吐くと、悟空が手を離すのを待つことにした。
部屋のドアが叩かれ、この宿の主人が顔を見せた。
悟空は、結局三蔵の手を抱き込んだまま、うつらうつらし始め、倒れ込むようにして眠ってしまった。
おかげで、三蔵は目が覚めてしまい、部屋に備え付けの風呂に入った後、所在なげに窓の外を眺める羽目になった。
「何だ?」
不機嫌な顔で問い返す三蔵に、主人は戸惑った顔をする。
「あの、夕食はこちらへお運びいたしましょうか?それとも下の食堂に下りていらっしゃいますか?」
「ここへ運んでくれ」
「かしこまりました」
丁寧に頭を下げると、主人は部屋を辞した。
そこでようやく、三蔵は昨日の朝、食べたきり何も口にしていないことを思い出した。
げんきんなもので、思い出した途端お腹が減ってきた。
横の寝台を見れば悟空が、眠っている。
静かな幼い寝顔。
幼いまだ子供の悟空が、どうしてあの岩牢に入れられ、封印されていたのか。
一人で、何百年も。
孤独な時間をどうやって過ごして来たのか。
初めて見たあの全てを諦めた瞳に長い孤独が語られていた。
その孤独は、三蔵には計り知れない深淵を悟空の心に穿っているのだろう。
声は、まだ聞こえている。
「一体、いつになったら、呼ぶのを止めるんだ?」
呟いた言葉は、窓から射す春の日差しに溶けて悟空には届かなかった。
夕食が運ばれてきた。
三蔵は、まだ、眠っている悟空を起こそうと悟空の寝台に近づいた。
と、三蔵の気配を感じたかのように悟空は身じろぎ、目を覚ました。
「……さん…ぞ……」
呟きながら、三蔵の姿を探し、見つけると嬉しそうに笑った。
その笑顔に一瞬、三蔵は目を奪われたが、すぐに気を取り直して、悟空に問いかけた。
「飯、食うか?」
三蔵の問いかけに悟空はきょとんとする。
「飯だ。食うのか、食わねえのか、どっちだ?」
「飯…って?」
「これだ」
何をこいつは・・・軽い目眩を覚えながらも辛抱強く、テーブルの上の夕食を指す。
その指先を追って、悟空の目が、テーブルの上に注がれた。
「あれ?」
「そうだ」
「…さんぞは、食うのか?」
「ああ」
「なら、俺も食う」
「そうかよ」
目眩が頭痛に変わったような気がしたが、今は空腹に鳴く腹の虫を納めることに気持ちを向けようと、三蔵はテーブルについた。
悟空は寝台から這い出ると、空いている三蔵の向かいの椅子に座った。
それを見届けた三蔵は、軽く合掌すると、食事を始めた。
悟空は、食事をする三蔵の姿を眺めてるだけで、箸を付けようとしない。
それに気付いて三蔵が、食事の手を止めた。
「てめぇ、食わねえか」
言われて悟空は、我に返った。
「あ…う、うん」
箸に手を伸ばし、ぎこちない手つきで持つと、目の前の皿に伸ばした。
怖々、皿の上の小龍包を掴んで口に運ぶ。
そして、難しい顔をして噛み始めた。
「なんて顔して食べてやがる」
三蔵が呆れるほど、悟空は小難しい顔をして口に入れた物を噛んでいた。
まるで、味のしない物を噛んでるような、生まれて初めて物を口に入れたような。
長い間噛んで、ようやく飲み込んだ。
その姿も、薬を飲んだような、無理矢理飲み込んだような感じだった。
思わず三蔵は、悟空に感想を求めてしまった。
「うまかったか?」
「わかんない。もごもごして、ぬめぬめして・・・変な感じ」
「味がしないのか?」
「あじ?あじって何?」
「わかた。いい」
「うん…」
箸を置いて、悟空はしょげたような顔を三蔵に向けた。
三蔵は、わからないようにため息を吐くと、悟空に問うた。
「あの岩牢にいる間、何か食ってたのか?」
答える変わりに悟空は、首を振った。
「腹は減らねえのか?」
頷く瞳が、揺れた。
「今は?」
揺れる瞳が、困ったように三蔵を見返した。
「今は、腹は減ってねえのかって、聞いてんだ」
ちょっと考えるように小首を傾げた後、
「よく…わかんない」
と、答えた。
その答えに三蔵は、迷路に突き落とされた気分になったが、浸っているわけにもいかず、目の前のしょげたような、どうして良いのかわからない、何とも言えない表情の悟空に言った。
「わかった。腹が減ったと感じるまで何も食うな。いいな」
「……わかった」
小さく頷く悟空に頷き返すと、三蔵は自分の空腹を満たす事に専念した。
悟空は、目の前で食事をする三蔵をぼんやり見つめながら、ただ、そこに座っていた。
満腹になった三蔵は、昼間逃げていた眠気が、帰ってきたのを感じた。
悟空は、食事の後、じっと寝台に腰掛け、窓の外を見ている。
その顔はぼんやりとして、捉え所のない無表情だった。
暗いガラスに映る瞳は、疲れたような色に諦めをのせている。
そんな悟空に三蔵は、声を掛けるのをためらったが、眠気には勝てず、寝台に潜り込みながら、声を掛けた。
しかし、返事はなかった。
勝手にするさ。
と、三蔵は、眠りについたのだった。
窓から入る朝日の眩しさに三蔵は、目が覚めた。
軽く身体を伸ばすと、起き上がった。
一昨日から昨日ににかけて、夜通し歩いたせいで酷く疲れていたのだろう、珍しいことに朝まで、一寝入りだった。
三蔵は、気分良く起き出して、ふと、隣の寝台を見やった。
そこには、三蔵が眠る前に見たままの格好の悟空が居た。
三蔵は小さく舌打ちすると、悟空を呼んだ。
だが、その声は悟空の耳には届いていないらしく、身じろぎ一つしない。
もう一度、名を呼ぶ。
もう一度。
それでも、悟空は答えず、身じろぎ一つしないでそこにいた。
三蔵は、ここにきて、やっと納得した。
そう、悟空はまだ、岩牢にいる───そのことに。
納得した途端、三蔵の内に言い知れぬ怒りが沸々と、湧き起こってきた。
悟空を岩牢に封じたものに。
悟空を一人にしたものに。
いまだに聞こえるこの声なき声は、まだ、岩牢にいる証。
呼び続けるこの声こそが、悟空の本心。
三蔵は、白くなるほどに拳を握り、沸き上がる怒りを静めると、悟空の側に立った。
そして、そっと、悟空の頬を両手で包み込んだ。
「おい、悟空」
静かに名を呼んだ。
答えはない。
もう一度、今度は力を込めて呼ぶ。
「悟空」
見つめる金の瞳に微かな動きを感じた。
また、力を込めて名を呼ぶ。
「悟空」
金の瞳にゆっくりと光が戻った。
二、三度瞬くと、三蔵の瞳と焦点があった。
が、まだぼんやりしている。
「悟空、わかるか?」
三蔵の呼びかける静かな声音に、悟空の意識は覚醒した。
しっかりした意思の光が、その金色に宿る。
「悟空」
「………さん……ぞ…う」
答える声が、ぎこちない。
「わかるか?悟空」
「なに……して…るの?」
かがみ込むように悟空を見ていた三蔵は、体を起こし、悟空の頬から両手を離した。
「お前こそ、何してる?」
「俺……?」
「お前」
三蔵の問いに悟空は、戸惑ったように首を傾げ、ぽつりと呟いた。
「空……見てた」
「空?」
「うん。暗くて、明るくなる……俺、いつも空ばっか見てた。空に登るお日様に触りた
くて、でも、触れなくて…だから、空見てた」
ぽつりぽつりと話す悟空の瞳は、求めることを諦めた色に曇る。
それは、今この時ですら諦めているという証。
何ものも求めない。
いずれ失ってしまうのなら、何も自分から求めない。
悟空の”声”が、震えていた。
「お前、今どこにいる?」
「えっ?」
唐突な三蔵の問いに悟空は、きょとんとした顔をする。
「答えろ。ここはどこだ?」
「どこって……宿…屋」
「だな。で、お前は今、どこにいる?」
「……どこ…って……」
謎かけのような三蔵の問いかけに悟空は、不安になってくる。
この金色の人は、何を自分に訊こうとしているのだろう。
目をそらすことのできない紫暗の瞳で、何を言おうとしているのだろう。
悟空は、訳がわからないまま、ふと浮かんだ答えを口にした。
「外…」
「そうだ。お前は、”外”いるんだよ。岩牢じゃない”外”にいるんだ」
ゆっくりと噛んで含めるように三蔵は、悟空に告げた。
「……そ…とに?」
「ああ、外だ」
ぽろりと、金色から滴が落ちた。
それは、後から後から落ち、悟空の頬を、膝を濡らした。
「悟空?」
悟空の突然の涙に今度は、三蔵がどうしていいか判らなくなる。
悟空の涙は、はらはらと伝い落ち、自分を見返す金の瞳は、本人もどうしていいのか判らないと訴えていた。
三蔵は、何故かもうその泣き顔を見たくないと、寝台に座る悟空の頭をその腕に抱き込んだ。
「な、泣くな」
困り切った声音で呟けば、
「うん」
くぐもった返事が、返ってきた。
それでも悟空の涙は止まらず、三蔵の薄い夜着をぐっしょりと濡らした。
どれぐらいそうしていただろう、夜着を通る暖かい涙を感じなくなって、身体を離してみれば、悟空は、安らかな寝息を立てていた。
「寝てやがる…」
ほっと、息を吐き、三蔵は悟空の身体を寝台に寝かせた。
上掛けを掛けながら見やるその寝顔は、岩牢から出してすぐの寝顔より、昨日自分の手を抱きしめて眠った寝顔より、ずっと安らかだった。
三蔵は、悟空の涙で濡れた夜着を法衣に着替えると、窓を開けた。
少しひんやりした空気が、気持ちいい。
空は、晴れ渡り、今日もいい天気だと告げている。
春の盛り、宿の中庭の桜の花は咲き誇り、ほのかな匂いさえ漂わす。
声なき声は、まだ呼んでいた。
けれど、あの悲痛さは少し影を潜めた気がした。
まだ、道のりは遠い。