相当疲れていたのだろう。
悟空はそれから死んだように眠った。
自覚していなかった疲労。
長い間岩牢に閉じこめられ、歩くことすら無かったのが、三蔵の出現によって岩牢の外に連れ出された。
そして、歩き慣れない山道の強行軍。
昨夜の徹夜。
疲れていないわけはなかった。
ただ、自覚がなかった。
それだけ。
三蔵は、深く眠り込んだ悟空の幼い顔を長い間見つめていた。
と、部屋の扉を遠慮がちに叩く音に気が付いた。
三蔵はふと眉を顰め、扉に近づくと声をかけた。
「誰だ?」
「宿の者です」
その声に、三蔵の首筋の産毛が逆立つ。
「何の用だ?」
「お食事をお持ちしました」
危険と、警鐘が鳴る。
「そこへ置いていけ」
「はい」
返事と共に扉の向こうの質量が、増した気がした。
三蔵は、身構える。
それを合図のように、ゆらりと、扉の向こうで殺気が立ち上った。
三蔵は懐から銃を抜くと、扉に向けて構えた。
「何だ?お前」
三蔵の問いに、扉の向こうの気配が笑った。
三蔵の纏う空気が、一瞬で冷える。
気配が、楽しそうに言葉を綴った。
「おや、お気付きになった。では、話が早い。そこの寝台で眠っている子供を我に頂こうと思いまして」
「何・・?」
三蔵の声が、地を這う。
「お前さまの連れているその子供は、大罪人。神を弑した逆賊。そんな子供をお前さまは連れてお帰りになるので?」
「だから何だ?」
三蔵の口元が、嘲るように歪む。
扉の向こうの気配の殺気が、膨らむ。
「我に手渡して下されば、今度は誰の目にも触れさせぬ場所へ葬りましょう。その子供は、お前さまには荷が勝ちすぎているほどに」
「ぬかせ。てめえ、あいつは俺が見つけた。だから俺が連れて行く。誰にも文句は言わせねぇ」
「お前さまは、よほどの身の程知らずと見える。人の忠告はちゃんと聞くものですよ」
「うるせぇ!」
言うなり、三蔵は銃を撃っていた。
乾いた音と共に、扉に穴が穿たれる。
蹴破るように扉を開ければ、そこには誰もいなかった。
正面の壁に弾痕が六つ開いているだけだった。
「我に子供を渡さなかったこと、後悔しますよ」
耳に残る笑い声が、遠ざかって行く。
三蔵は、力一杯壁に銃を握った手を叩き付けた。
グリップの当たった場所が抉れ、壁土が落ちた。
「後悔なんかしねえ…」
ぎりっと唇を噛むと、三蔵は部屋に戻った。
銃をしまいながら悟空の寝台に近づくと、悟空は今の騒ぎも知らず、こんこんと眠っていた。
その寝顔を見つめながら、三蔵はこの子共を離さないと我知らず決めていた。
結局、もう一晩宿に泊まり、翌日の早朝、三蔵は悟空を連れて五行山の麓の村を後にした。
空は晴れ渡り、暖かな春の日差しが降り注ぐ。
道に若草、木々に若芽、春の息吹がそこここに溢れていた。
悟空の足取りはゆっくりで、小一時間も歩くとへたり込む。
そのたびに三蔵は立ち止まり、悟空が追いつくのを待ってやった。
岩牢から連れ出した時よりは、しゃんとしてはいたが、回りの様子が気になる風でもなく、悟空は三蔵の後ろ姿を懸命に追いかけることだけに集中しているようだった。
「さんぞ、待って」
弾む息を整えながら、悟空が三蔵を呼んだ。
その声に振り返れば、顔を赤くして、肩で息をする悟空がいた。
「どうした?」
「ちょっと、待って…」
言いながらその場に座り込んでしまった。
三蔵はため息を吐くと、悟空の側に戻ってやる。
座り込んだ悟空を見れば、汗をかいてずいぶん苦しそうに息をしていた。
三蔵は荷物の中から水筒を出すと、悟空に差し出した。
「水だ、飲め」
目の前に差し出された水筒をきょとんと見上げるだけで、水筒を受け取ろうとはしない。
「喉、乾いただろうが」
そう言って、悟空の手に蓋を開けた水筒を握らせてやる。
悟空は不思議そうに水筒を見つめていたが、三蔵の飲めと言う言葉と仕草に、おずおずと水筒に口を付けた。
一口飲んだ水は喉を過ぎ、身体に染み渡った。
後は、貪るように飲む。
ごくごくと喉を鳴らして水を飲むその姿に、三蔵は驚きながらも安堵を覚えた。
”喉が乾く”一つ失われていた感覚が戻ったのだ。
それが嬉しい。
これをきっかけに、少しずつでも感覚が戻ってくれればと願う。
「ふうっ…」
ようやく一息ついたのか、悟空は水筒を離した。
そして、
「さんぞ、これ、すっげー美味しかった。これ何?」
と言って、嬉しそうに笑った。
「ただの水だ。美味かったのか?」
「うん、美味かった」
「そうか。なら、行くぞ」
「うん」
悟空は立ち上がると、三蔵に水筒を渡した。
受け取った水筒の軽さに、悟空がどれだけ喉が乾いていたのかを知った。
岩牢を出て、何も口にしていない。
味がしないと言って、腹が減らないと言って、水すら飲んではいなかったことを思い出す。
自覚のない乾き。
では、空腹も本人がそう思っているだけで実は、空腹なのかも知れないと三蔵は思い至った。
なら、試してみる価値はありそうだと、思いついた考えに内心ほくそ笑んだ。
それはまるで、いたずらを思いついたやんちゃ坊ず。
自然にほころぶ三蔵の口元を見て、悟空は不思議そうな顔をしていた。
その視線を感じて我に返れば、不思議そうに見返す金色が目の前にあった。
「な、なんだ?」
慌てて問えば、
「さんぞ、どーしたの?」
と、無邪気な問いが返ってくる。
「な、なんでもねぇ。行くぞ」
「う、うん」
微かに顔を朱に染めて、三蔵は悟空に背を向けると歩き出した。
悟空もその後を付いて歩き出す。
二人は、何も言わず黙々と長安への道を歩いた。
脇目もふらず、ただ黙々と。
夕闇の迫る頃、ようやく次の街の明かりが見えた。
歩き慣れない悟空のために、休み休みの旅は酷く時間を食い、街の明かりが見えても街にたどり着いたのは、日も暮れた時間だった。
宿を探しながら、露店の並ぶ大通りを歩く。
悟空は、人通りの多さに怯えたように三蔵の法衣の袖を掴んで離さなかった。
大通りの中程に宿屋を見つけて、三蔵はその戸口をくぐろうとした時、不意に悟空が掴んでいた袖を引いた。
何だ?と見返せば、宿屋の向かいの露店を悟空は見やって立ち止まっていた。
悟空の見つめる露店は、何段も積み重ねた蒸籠が白い湯気を上げ、店先には蒸し立ての饅頭が並んでいた。
「どうした?」
問えば、悟空は三蔵を見返し、恐る恐ると言った様子で饅頭屋を指さした。
そして、
「あれ…何?あの、白いの…」
と訊いてくる。
三蔵はその問いに少し考えた後、何も言わず悟空の手を取ると、饅頭屋の前に連れて行った。
そして、その店のおやじに
「その肉まんを二つ」
と言って、小銭を差し出した。
「あいよ。一個おまけだ」
紙の袋に入った熱々の肉まんを受け取る。
「すまない」
見かけよりもずいぶん大人びた口調で礼を言う三蔵に店のおやじは、
「子守は大変だからな」
と、人の良い笑顔を見せた。
三蔵は軽く頭を下げると、悟空の手を引っ張って宿屋の前に戻った。
その一部始終を見ていた悟空は、よくわからないと言った顔で三蔵の側に立っている。
三蔵は、肉まんの入った紙袋を悟空に向かって差し出した。
「持ってろ」
「う、うん」
おずおず差し出された手に紙袋を渡すと、悟空を促して宿屋に入っていった。
二人部屋を取り、食事は部屋へ運んでくれるように頼むと、三蔵は鍵を受け取って部屋に向かった。
部屋へ入るなり、悟空は紙袋の中身を引っ張り出した。
まだそれは湯気を立てていて、熱い。
が、そんなことは感じないらしく、悟空は手に持った肉まんを不思議そうにひっくり返したり、握ってみたりして弄くっていた。
三蔵はしばらくそんな悟空の様子を見ていたが、先程の思いつきを実行に移すべく、悟空に話しかけた。
「おい、それは玩具じゃねえ。食い物だから遊ぶな」
「食い物?」
「そうだ。食べるもんだ」
「ふーん。なんてゆーの?」
「肉まんだ」
「肉まん…」
言われて、弄ぶ手を止めて眺める。
「食ってみろ」
「えっ?」
突然の三蔵の言葉に、金色の瞳が見開かれる。
「でも、俺まだ、腹減らない。さんぞ、腹減るまで食べるなってゆった」
後ずさるように首を振る悟空に三蔵は近づくと、少し怯えたような表情の悟空の顔を覗き込んだ。
「言った。だが、それはいいんだよ。お前が気にしてたもんだから、どんなものか自分で確かめてみろ」
「あ…う、うん」
白い煙と白くて丸い形が、酷く悟空の気を引いたのだ。
匂いはよくわからない。
明るくて、人が一杯いて三蔵が見えなくなりそうで恐かったけど、もくもくと上がっていた白い煙が岩牢から見ていた雲ができる時に似ていて、白い丸いものが柔らかそうで気になったのだった。
それが、肉まんという食べ物だったなんて。
悟空は、三蔵がじっと見つめる前で肉まんにかぶりついた。
柔らかな歯触りと溢れるような汁気に悟空は、美味しいと思った。
後は、水の時と同じだった。
夢中で食べ始めたのだ。
その姿に三蔵は、自分の考えが正しかったことを確信した。
自覚のない飢え。
また一つ、感覚が戻ったようだった。
三蔵は、悟空の感覚を取り戻すための一つの方法を見つけた。
長安までの道のりは遠い。
弱った悟空を連れての旅は、来た道にかかった時間の何倍もかかるだろう。
その間に少しでも悟空の失われた感覚が戻れば、岩牢に入れられた原因や本人のことも話すことができるかも知れない。
三蔵は見えた光明が嬉しかった。
部屋に運ばれてきた夕食を悟空は、三蔵の分までも平らげてしまった。
その食欲に三蔵は酷く驚いたが、今まで何も飲まず食わずだったのだから仕方ないと納得した。
悟空は、食べても満たされない空腹感に戸惑ってはいたが、自分が食事をするする姿を見つめる三蔵の瞳が、穏やかな安堵に染まって綺麗な紫に光っているのを見つけて嬉しかった。
岩牢を出てからずっと三蔵の纏う空気が恐くて、でも一緒にいたくて、どうしていいのか判らないままここまで付いてきた。
来いと、三蔵が言ったから。
連れて行ってやると、三蔵が手を差し出したから。
それだけが支えだった。
それが自分が水を飲んだり、食べたりする姿を見て安心したと、あの綺麗な紫の瞳が語っていた。
悟空は、自分がものを口にすることより、そのことの方が嬉しかった。
「腹は一杯になったか?」
食べるものがなくなって、箸を置いた悟空に三蔵は訊いた。
「わかんない。でも…たぶん一杯になったと思う」
「そうか」
「うん」
三蔵は頷くと、微かに笑った。
これからが、本番。