「お帰りなさいませ」 寺院の山門を掃除する小坊主達に三蔵と悟空は、出迎えを受けた。
三蔵は小坊主達に返事を返すことなく、悟空の手を引っ張るように寺院の奥へと歩いていく。
悟空は三蔵に引っ張られながらきょろきょろと辺りを眺めながら歩いていた。
三蔵の姿を認めた僧侶達が次々と声をかけ、道をあけていく。
そんな様子が珍しい悟空は、惚けたような顔をしている。
気もそぞろになった悟空は、石の回廊の僅かな段差に蹴躓いて転んでしまった。
「おっ?!」
三蔵もその反動で後ろに引っ張られ、尻餅を付いてしまった。
「さ、三蔵様!」
すぐ側の僧侶が、三蔵を助け起こそうと近づく。
「いい」
そう言って立ち上がり、しりもちを付く羽目になった原因の子供をけっ飛ばした。
「何しやがる」
「…って、ご、ごめん」
悟空は頭を抱えて踞った。
三蔵は、ため息を一つ吐くと踞った悟空を引っ張り起こし、再び歩き出した。
「三蔵様、その御子は一体…」
歩き出した三蔵に追いすがるように年かさの僧侶が悟空の事を問いかける。
その言葉が途中で固まった。
そう、悟空の頭にはめられた金鈷に気が付いたのだ。
何か言おう口を開きかけた時、漕瑛が奥の院から走り出てきた。
三蔵を取り囲んでいた僧侶達が一歩引き、漕瑛に道をあける。
「お帰りなさいませ、三蔵様」
漕瑛は、三蔵の前に立つと深々と礼をして顔を上げ、三蔵の連れている子供に気が付いた。
「三蔵様、その御子は?」
「旅先で拾った」
「た、旅先ででございますか?」
漕瑛の問いかけに答える間も三蔵の歩みは止まらない。
悟空の手を引いて、自室のある寺院の奥へと向かう。
三蔵を取り囲むように回廊の両端に姿を見せる僧侶達を無視し、三蔵は自分を追いかけるように付いてくる漕瑛を従えて三蔵の居住区と修行場を隔てる扉の前まで来ると、ようやくその歩みを止めた。
三人を取り囲むようにいた僧侶達の姿はない。
それを確認すると、三蔵は引いていた悟空の手を離した。
「漕瑛、こいつを湯に入れてきてくれ」
「は、はい」
そう漕瑛に言いつけると、三蔵はそこに悟空を残し、扉の中へ入っていく。
「さんぞ、待てよ」
後を追おうとした悟空の手を漕瑛が捕まえる。
「さんぞ、さんぞぉ」
悟空は自分を振り返りもしないで扉の先に続く回廊の端を曲がって行く三蔵を呼び続けたが、三蔵は立ち止まることもなく行ってしまった。
漕瑛は、三蔵の名前を呼びながら泣き出し、後を追おうとする悟空の手を引いて湯殿へ連れて行った。
三蔵の名を呼んで泣きじゃくる悟空にうんざりしながら、これも三蔵の言いつけだからと自分に言い聞かせ、漕瑛は悟空をていねいに洗ってやった。
そして、小坊主用の僧衣を着せ、三蔵の執務室へ悟空を連れて行く。
悟空は身体を洗われいる間も、着替えさせる間も三蔵の名を呼んで泣き、少しでも手を離すと三蔵を探しに行こうとして暴れた。
それを押さえるのに漕瑛は力を使い果たし、疲れ切ってしまった。
泣いて三蔵を呼び続ける悟空を引きずるように、漕瑛は悟空を執務室へと連れて行った。
扉をノックする間にも悟空は手を振りほどいて、三蔵を捜そうとする。
「失礼いたします」
扉を開けて、部屋の中へ悟空を引っ張って入る。
「三蔵様、連れて参りました」
漕瑛の声に悟空は声の向かう先を見た。
そこには、旅装束を脱いだ普段着の三蔵の姿があった。
悟空は今度こそ、力一杯漕瑛の手を振りほどくと、三蔵に抱きついて声を上げて泣き出してしまった。
しがみついて泣く悟空を見つめる三蔵の紫暗の瞳は、穏やかな光を宿している。
その光に気が付いた漕瑛は、微かな痛みを感じた。
ほんの微かな、微かな痛み。
「三蔵様、あの…」
漕瑛のおずおずとした呼びかけに三蔵は顔を上げた。
「寝所の続き部屋をこいつの部屋にする。それと何か食事を頼む」
「かしこまりました。それと、あの・・僧正様方がお目通りを願っておられるのですが、いかが致しましょう」
「今日はいい」
「わかりました」
未だ三蔵にしがみついて泣きじゃくる悟空を気にしながら、漕瑛は三蔵の言いつけを実行するために部屋を辞した。
三蔵が連れてきた子供の名は悟空。
五行山で見つけた妖怪の孤児。
金色の瞳の小猿。
悟空が来てから三蔵の纏う空気が変わった。
どこか排他的で神経質な空気が影を潜め、穏やかなゆとりが生まれていた。
漕瑛が三蔵の側ご用を勤めだして一年以上経つが、どんなに努力しても三蔵の気持ちに触れることができなかった。
気安く話すことなど望むべくもないが、他のどの僧侶よりも自分はこの美しく気難しい三蔵法師の一番近くにいると思っていた。
それなのに、あの子供が、悟空がいともあっさりと自分の居場所を奪ってしまった。
孤高の人であるはずの、皇帝すら頭を下げるそんな三蔵法師を呼び捨てにし、あまつさえ遊び相手にしている悟空。
そんな悟空を「煩い」と言いながらも決して三蔵は側から離すことはなかった。
二人の間に見え隠れする絆。
漕瑛はもやもやとしたやり場のない思いを日々募らせていた。
悟空が三蔵に連れてこられて、半年が過ぎた。
三蔵は相変わらず忙しく仕事をこなし、悟空はそんな三蔵の側を付かず離れず、
必ず三蔵の姿の見える所に居た。
漕瑛のもやもやとした気持ちは、この半年の間にゆっくりと形を取り始めていた。
醜い色の付いた思い。
嫉妬か、羨望か、疎外感か。
その思いを向ける相手は悟空。
金の瞳の三蔵の愛し子。
半年の間に漕瑛は思い知った。
悟空が三蔵の行動要因の第一位であることを。
仕事が立て込んで忙しくとも三蔵は毎日必ず、悟空が眠りにつくまで側にいた。
悟空が目覚めた時も必ず、すぐに悟空が見つけられる場所にいた。
食事も可能な限り、悟空と摂るようにしていた。
偶に悟空が望めば、公務を投げ出して姿を隠すようにもなった。
それは、悟空が一人になるのを極端に恐れ、三蔵の側を離れることを良しとしなかったからに他ならなかった。
他人と関わることを嫌っていた三蔵の悟空に対する態度は、漕瑛を苛立たせるには十分であった。
その悟空の占める位置は、漕瑛が望んでいた位置だったから。
そして、漕瑛の自制心を大きく揺るがす事態が起こった。
それは、自分がどんなに頼んでも許されなかった斜陽殿への同行を三蔵が悟空に許した事だった。
その行為は漕瑛の心を暗い淵へ追いやるには十分な衝撃を漕瑛に与えた。
三蔵は単に、三仏神が悟空を連れて来いと再三要求するために連れて行っただけで、悟空がねだったからではなかった。
斜陽殿は神域。
たとえ、悟空がねだろうと、連れていくことはない。
己に課せられた地位や役目に無頓着な三蔵でも、最低限度の規範を守るだけの常識は持っていた。
三仏神に目通りの叶う者は、天帝使という役目を持つ三蔵法師だけだというルール。
以前、自分の世話係りの漕瑛が斜陽殿への供を願ったが、許可は下さなかった。
たとえ付いてきても、斜陽殿の大手門から先へは入れ無いことはもちろんだが、そこへ続く道にさえ踏み入れることは叶わないとわかっていたから。
結界が三蔵以外を拒むのだ。
そんなことを面倒くさがりの三蔵が、漕瑛に話すはずもなく、一言、
「来るな」
で、拒絶したことなど三蔵自身は忘れ去っていた。
また、そのことが漕瑛をひどく落ち込ませたことなど三蔵には思いも寄らないことだった。
やがて思いは、形を変えて漕瑛を蝕む。
憧れて止まぬ三蔵法師の心を独占する悟空。
無邪気に笑い、罪悪感の欠片もなく、その気持ちのままに振る舞う。
その言動全てが、かの三蔵を引きつける。
もし、三蔵が悟空を側から離さなければならないような事態が起これば、三蔵は悟空を捨てるだろうか。
三蔵はまた、自分の元へ戻ってきてくれるだろうか。
元のように穏やかな日々が戻ってくるだろうか。
そして思いは暗く、澱んでゆく。
幸いなことに悟空は寺院のものから、疎ましく思われていた。
ならば、悟空から三蔵の元を離れさせればよい。
自分からこの寺院を出ていくと言わせれば、三蔵も引き留めはしないだろう。
澱んだ思いは、狂気へと漕瑛を導く。
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