Envy (4)

それは、三蔵の何気ない一言から始まった。

「やっぱり、連れて来たのは、間違いだったか…」

いつものように三蔵が処理した書類を受け取りに来た漕瑛と、たまたま目を通していた書類から顔を上げた三蔵とが偶然目があった。
溜まった書類を見て、うんざりしていた三蔵の口から零れた他意のない愚痴。

聞こえてしまった。
聞かれてしまった。

漕瑛は、うろたえたように顔を背ける。

「何だ?」
「い、いえ、何でもございません」
「そうか」
「は、はい」

漕瑛はそう言い、怪訝な顔の三蔵に礼をするとそそくさと執務室を辞した。

漕瑛が出ていった後、柄にもない愚痴を聞かれたと気が付いた三蔵は小さく舌打ちすると、煙草に火を付けた。
最近すっかり嗅ぎ慣れてしまった煙草の匂いが広がる。
三蔵は煙草をくわえたまま、椅子を立つと窓辺に向かった。

窓を開ける。

秋の風が、三蔵の金糸を揺らし、日差しが金糸に反射する。
養い子は今日は珍しく、三蔵の目の届くところにはいなかった。
おかげで仕事がスムーズに運ぶことこの上ない。
が、養い子の帰還と共に訪れる騒音を考えると、目の前でうだうだと言ってくれていた方がいいように思う。
そんなことを思う自分に軽い頭痛を覚えた。
疲れ切ったようなため息が漏れる。


悟空を連れ出してからそれまでの生活がどれ程平穏であったのか、その平穏が懐かしく感じる程度に三蔵の回りは喧しいこと極まりない。


口を開けば、相手をしろ、遊べ、側にいろ、腹減った───
黙っていれば泣いている。
煩いと思えば笑っている。
くるくると変わる表情。
素直な感情の発露。
無条件の信頼。


そんな人間は今まで側には居なかった。


三蔵という名前の前に、顔色を窺うヤツ。
おもねるヤツ。
気を引こうとするヤツ。
卑屈に取り入ろうとするヤツ。
居丈高に支配しようとするヤツ。


優しい言葉もなく、ただあったのは言葉という名の暴力。
思いやりの行動ではなく、追い込むための行動。


そんな負の色をした人間しか知らなかった。


悟空の素直な言葉が三蔵の頑なな心を少しずつ解きほぐす。
その身に纏う空気を和らげていく。

そんな三蔵の変化を好ましく思う者もいれば、三蔵の神秘性が薄れると言って嘆く者もいたが、そんな人間はごくごく僅かだった。
たぶん、大半の人間はよくあの気難しい三蔵が、妖怪の子供を育てる気になったと呆れこそすれ、優しくなったなどと思いもしないだろう。


そして、もともと「面倒くせぇ」と言って、公の場に滅多に姿を見せなかった三蔵が、悟空が来てからと言うもの、全く姿を見せなくなってしまった。

公の場に出ると言うことはすなわち、悟空を一人にすると言うこと。
それはとりもなおさずいまだに感情の不安定な悟空が、三蔵を捜して寺院内を荒らし回ることに繋がる。


その後始末は、誰がする?
当然、養い親である三蔵がする。

嫌みは誰が聞く?
決まっている。
連れてきた三蔵が聞く。

当たり前。

そんなことにプライドの高い、人に頭を下げることを良しとしない三蔵が耐えられるはずもなく、必然的に導き出される答えは一つ。

「どうしても三蔵でなければならない事だと自分が判断したこと以外では公の場に出ない」


そして半年─────

騒がしくも三蔵の心の平穏は綱渡りな状態だが、保たれてはいた。


漕瑛のうろたえた顔を見るまでは。


たまたま口をついて出た愚痴。
連れて来なければ良かったなど、欠片も思ってはいない。
むしろ連れてきて良かったとすら思う。
何故か、自分でもよくわからない感情が渦巻いている。
自覚するにはまだあやふやな思い。
懐かしさと共に訪れるようやく会えたという安堵。
愛しいものに会えたという喜び。
声が聞こえてから思いは募り、出会えた事実に思いは高鳴る。
ざわざわと揺れる葉ずれの音に三蔵は、すっと目を眇めた。







寺院のそこかしこでささやかれ始めた噂。


───三蔵が旅先で拾ってきた妖怪の子供が、三蔵の仕事の負担になっている


三蔵の耳に届くことのない噂。

日を追って噂は噂を呼び、最初とは形の違う魚になって、ようやく悟空の耳に入った。

「何だよそれ!」

回廊の柱の影で立ち話をしている僧侶達の話の内容を偶然耳にした悟空は、思わずその僧侶達にくってかかった。

「な、なんだ?!」

気色ばむ悟空を恐ろしげに見やり、後ずさる。

「何で、俺が三蔵の生気を食うんだよ!」
「わ、私たちが知るものか」
「そ、そうだ。そんな野蛮なことをする妖怪の気持ちなぞ知るものか!」

さも汚らわしそうに悟空を払うと、僧侶達は走り去っていった。
後に残された悟空は、悔しさでどうにかなりそうだった。


三蔵は、あの暗い世界に光を運んでくれた。
光と共に世界をくれた。
自分を明るく、暖かく照らし、導いてくれるこの世の中で唯一無二の大切な大切な存在。
そんな三蔵を何故、自分が食らうというのか。
三蔵を食らうぐらいなら、餓死するぐらい平気なのに。
どうしてそんな事が、まことしやかにささやかれなければならないのだろう。
考えたこともないというのに・・・。
悟空は、じわりと悔しさと共に沸き上がってくる怒りのあまり浮かんできた涙を振り払うと、
回廊を走りだした。




寺院を駆け抜ける噂は、漕瑛にも届いていた。


その噂に暗い心が歓喜の声を上げる。
だが、それを知られてはいけない。
知られたら全てが終わってしまう。




漕瑛は素知らぬ振りで日々の仕事を続けていた。




そんなある日────

涙で潤んだ瞳を不安に染めた悟空が、漕瑛の姿を見つけて安心したように駆けてきた。

三蔵以外で悟空がなついている人間は、側ご用を勤める漕瑛だけだったから。
漕瑛は、妖怪だからと悟空を差別することなく普通に接してくれた。
三蔵が仕事で忙しいときは、一緒に食事に付き合ってくれた。
たまに、三蔵を連れだしてしまうことに怒りはしても、その理由は容認してくれた。
素直に心を許せる相手として、悟空は漕瑛に好意を抱くまでになっていた。

ずいぶんと走ったのか彼の姿を見つけて走り寄ってきた途端、その場に座り込んでしまった。

「どうしたんですか?」

驚いた顔をへたり込んでいる悟空に向ける。

「…あ、あのさ、漕瑛さ、…あの、ね」
「はい?」

だんだんと言葉が止まってしまう悟空に漕瑛は怪訝な顔をする。
悟空は何と言って先程聞いた噂の真実を確かめたらいいのか、言葉が思いつかなかった。
漕瑛は、悟空の戸惑ったような困ったような表情を見て取って、内心ほくそ笑む。
悟空の様子から、寺院内でささやかれている噂が、悟空の耳に入ったと知れる。
揺さぶるのは今だった。

「何か、ありましたか?」

心配げに訊いてくる漕瑛に、悟空はうつむいてしまう。

「三蔵様に何かご迷惑になるようなことをまた、なさったのですか?」

その言葉にうつむいた悟空の肩が微かに揺れた。

「悟空?」

そっと、悟空の肩に手を乗せる。
薄い肩の震えが漕瑛の手に伝わってきた。
もう一度、悟空を呼ぶ。
その声にようやく顔を上げた金の瞳は、涙で潤んでいた。

「そ、漕瑛、あのさ、俺…俺が居ると三蔵に迷惑がかかるのかな?」
「何を言ってるんですか?」
「だ、だって、俺、三蔵のこと好きなのに、他の奴らは俺が三蔵をた、食べようと…だから追い出さなきゃって…」

紡ぎ出される言葉はだんだん小さくなって。
漕瑛は悟空を安心させるように笑う。

「知ってますよ。あなたが三蔵様を好いているのは。たとえ、三蔵様があなたを連れてきたことを後悔なさっていらっしゃっても」
「さんぞ…後悔って…?」

はっと、したように顔を上げる。
その瞳に、しまったと言う表情の漕瑛が映る。

「漕瑛、後悔って?三蔵、俺をここに連れて来たこと…後悔してるっていうのか?」

縋るような瞳で悟空が、漕瑛に詰め寄る。
漕瑛の作務衣の裾を握って、悟空は答えを求める。
漕瑛は、さも言いにくそうに言葉を紡いだ。

「さ、三蔵様が先日、書類を取りに伺った私に何気なく”連れてきたのは間違いだったか”と、
仰られて…あっ!悟空!!」

漕瑛の言葉を最後まで聞くことなく、悟空はその場を走り去ってしまった。
悟空の走り去った後には、唇をさも面白そうに歪めた漕瑛が立っていた。




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